現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

梨木香歩「西の魔女が死んだ」

2024-10-13 09:34:47 | 作品論

 1995年に出版されて、日本児童文学者協会新人賞などのいくつかの賞を受賞し、映画化もされた作品です。
 中学三年生の主人公の女の子は、授業中に母方の祖母(イギリス人)が危篤になったとの知らせをうけます。
 母の運転する車で祖母の家へ向かう途中(六時間もかかります)、主人公は二年前のことを回想します。
 その時、中学に入ったばかりの主人公は、女の子たちの作るグループになんとなく入らなかったことをきっかけに、クラスの女の子たちにはずされて、学校へ通えなくなっていました。
 そんな主人公を受け入れてくれたのが祖母でした。
 独特の人生観と行動のために、主人公とその母親は、祖母のことを「西の魔女」と今では呼んでいます。
 祖母の家で暮らした一か月余りの間、家庭を大事にして、自然(といっても、イギリス流の人間の手の加わった自然なのですが)を愛する祖母との生活で、主人公は見事に蘇生して、新しい生活(父親の単身赴任先に引っ越して、新しい中学校に転校します)を始める力を得ます。
 そう、この作品は「癒し」の文学の代表作なのです。
 魔女修行、超能力、ダークグリーンのミニクーパー、イングリッシュ・ガーデン、サンルーム、薪が燃えるかまど、手縫いのエプロン、手作りのジャムやキッシュやサンドイッチ、ミントティー、自家栽培のハーブや野菜、野イチゴや木イチゴ、飼っているニワトリの生みたての卵、煮沸によって洗濯された布巾、足踏みで洗われたラベンダーの香りのするシーツ、自分だけのお花畑、サンクチュアリなど、女の子だけでなく若い女性(現在ではもっと年長の女性も同様ですが)の大好きなおしゃれなアイテムが満載で、新しい児童文学の読者(若い世代を中心にした女性)の獲得に大きく貢献しました。
 また、こうしたものだけでは単調になりがちな物語に、主人公の祖母との生活を脅かす(?)粗暴な隣人の男の存在が、アクセントをくわえています。
 素材面だけでなく、手法面でも、描写(情景及び心理)を重視した小説的手法を使って、作者独特の豊かな表現力で、主人公の変化(主に精神面)を的確にとらえています。
 その一方で、主人公の心の成長と言う点では、児童文学らしいいわゆる「成長物語」でもあります。
 そういった意味では、児童文学と一般文学の境界があいまいになった、1990年代の日本の児童文学の代表作と言えます(児童文学評論家や研究者は、この現象を「一般文学への越境」と呼んでいます。そのことの功罪については、別の記事を参照してください)。
 しかし、読み直してみると、いくつかの疑問があります。
 まず、これだけ主人公に精神的なインパクトを与えた「西の魔女」(主人公にとってはメンターともいえます)と、二年間没交渉だったという設定は、お話の都合としてはいいでしょうが、日本人的感覚では理解しにくいです。
 また、父親の単身赴任先へ、一時的に仕事を辞めた母親と一緒に、転居して新しい中学へ転向するという最終的な解決策も、母親の人間像(自分の仕事のキャリアを大事にしている「西の魔女」とは対照的な人物に設定されています)からすると、非常にイージーで不自然なイメージを受けます(この作品が書かれた三十年前と、女性の仕事を取り巻く環境が変わってきているせいもあります)。
 うがった見方をすると、三十年前は女性の社会進出が世の中でもっと強く言われていたので、そのアンチテーゼとして描かれたのかもしれませんが、作者のジェンダー観にやや疑問を感じます。
 ラストで、西の魔女から主人公へ死後に送られてきたとも読める下記のメッセージも、主人公の不安感のベースとして繰り返し描かれていた「死後の世界」に対する西の魔女及び作者の回答なのだと思われますが、スピリチュアル好きな若い女性はともかく一般の読者としては不可解な読後感が残ります。
「ニシノマジョ カラ ヒガシノマジョ ヘ
 オバアチャン ノ タマシイ、ダッシュツ、ダイセイコウ」
 だいいち、自分のことを主人公たちが西の魔女と呼んでいることを本人は知らないはずなので、その点でも不自然な感じ(超能力だと言われればそれまでですが)です。
 最後に、これは、男性読者(あるいはたんなる私自身)と女性読者の好みの違いになってしまいますが、子どもの時に困ったら、西の魔女のようなメンター的な祖母よりも、森忠明「花をくわえてどこへいく」に出てくるようなだまって一人で湯治場へ行かせてくれる祖父の方が欲しいです。

西の魔女が死んだ (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社

 

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ウォンカとチョコレート工場のはじまり

2024-10-09 09:23:21 | 映画

2023年公開のイギリス・アメリカ合作映画です。

ロアルド・ダールの「チョコレート工場の秘密」の世界は下敷きにしていますが、ダールの遺族の了解を得たオリジナル・ストーリーです。

そのため、大ヒットしたジョニー・ディップ主役の「チャーリーとチョコレート工場」(その記事を参照してください)とはかなり設定が違っています。

 この作品では、ティモシー・シャラメ演ずる主人公のウィリー・ウォンカは、生い立ちの影はあるもの明るい好青年として描かれていて、あの奇妙な魅力にあふれたジョニー・ディップのウォンカとはまるで別人のようです。

 映画自体も、前作のおどろおどろしさはぜんぜんなく、楽しいミュージカル・ファンタジーに仕上がっています。

 前作の魅力の一部である小さな人、ウンパルンパも、今作では、イギリスの名優ヒュー・グラント(「パディントン2」や「ブリジット・ジョーンズの日記」などの記事を参照してください)が演じていて、さすがの演技力を発揮しています。

 

 

 

 

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鴨川ホルモー

2024-10-09 09:22:29 | 映画

2009年公開の日本映画です。

京大に二浪して入学した主人公が、青竜会という謎のサークルに入ったことで、ホルモーという小鬼を操って戦う謎の競技に参加することになります。

全編、馬鹿馬鹿しいギャグのオンパレードなのですが、まだ若手だった山田孝之や栗山千明たちが生き生きと演じていて、青春ファンタジー映画として楽しめます。

また、映画のあちこちに京都の風物が描かれていて、観光映画の趣もあります。

 

 

 

 

 

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チャーリーとチョコレート工場

2024-10-07 09:03:11 | 映画

 2005年公開のアメリカのファンタジー映画です。
 原作は、ロアルド・ダールの児童文学の古典「チョコレート工場の秘密」ですが、ダール独特のブラックなファンタジー世界に、こうした作品を得意とするティム・バートン監督が彼独自のファンタジー観を加味して、めくるめく官能的な世界を展開しています。
 監督とコンビを組むことの多いジョニー・デップの怪演を中心に、ファンタジー世界を彩るにふさわしい出演者たちが、この不思議な世界を違和感なく再現してくれています。

チャーリーとチョコレート工場 (吹替版)
ジョン・オーガスト,ブルース・バーマン
メーカー情報なし



チョコレート工場の秘密 (ロアルド・ダールコレクション 2)
クェンティン・ブレイク,Roald Dahl,Quentin Blake,柳瀬 尚紀
評論社

 

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大江健三郎「「「自分の木」の下で」

2024-10-06 09:19:56 | 参考文献

 16のメッセージと32のカラーイラスト(妻の大江ゆかりによるもの)からなる、子どもたちの疑問に答えるために書かれたエッセイ集です。
 特に、興味深い疑問については、個別に記事を書きましたので、それを参照してください。
 子どもといっても、中には高校生ぐらいの若い世代でないと分からないような内容になったと著者は反省し、宮沢賢治はすごいと言っていますが、賢治も「注文の多い料理店」の新刊案内(その記事を参照してください)の中で、「少年少女期の終りごろから、アドレッセンス中葉(思春期、青年期)に対する一つの文学としての形式」と述べていますから、対象はほぼ同じで、正しく児童文学のひとつと考えていいと思われます。
 他の記事にも書きましたが、著者は典型的な教養主義時代の地方出身の優等生なので、その子ども時代の過ごし方や勉強方法は、この文章が書かれた2000年頃でも、大半の子どもたちにとっては、理解したり実践したりすることは難しかったかもしれません。
 しかし、ノーベル文学賞も受賞した著者が、子どもたちに真摯に向き合い、より理解しやすくなるように平明な文体まで作り上げた姿勢には感銘を受けました。

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大江健三郎「私の勉強のやり方」「自分の木」の下で所収

2024-10-05 08:49:26 | 参考文献

 ここで著者が述べている勉強方法は、典型的な教養主義時代の勉強方法です。
 まず、古典(例としては、岩波文庫に入っているような古今東西の文献)を若いうちから読んで、わからないところには書き込みや印をつけておきます。
 そうした本を、時をおいて繰り返し読んでいくと、人生経験を積むにつれてだんだんわかるようになるとしています。
 他の文章で書いていたそうした古典の文章を書き写す勉強方法(その記事を参照してください)と合わせて、いわゆる読み書きそろばんを重視した伝統的な勉強方法です。
 こうした方法は、「文章を読みといて、書き手の考えを理解する」「自分の考えを正確に文章で書き表す」ために、非常に有効な方法だとは思います。
 著者は基本的には文系の人なので触れていませんが、数学の様々な問題を解く「論理的に結論を導き出す」訓練ももうひとつの大事な勉強方法です。
 ただし、教養主義が没落し、役所や企業が即戦力を求める時代において、若い世代が資格試験やディジタル(メディア)・リタレシーなどの実学重視になっている現状では、著者のような作家や文系の研究者を目指している人以外にはあまり受け入れられないかもしれません。

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J・M・バリー「ピーター・パンとウェンディ」

2024-10-03 09:07:20 | 作品論

 言わずと知れたイギリス・ファンタジーの古典です。
 本では読んだことはなくても、映画、アニメ、劇、ミュージカルなどでおなじみのことでしょう。
 もともと劇として書かれた作品なので、映像との親和性は抜群です。
 夢と冒険の国ネバーランドでのピーターを中心とした冒険物語は、あまりにも有名です。
 海賊、インディアン(当時はこの用語も平気で使われていましたが、正しくはネイティブ・アメリカンです)、猛獣、妖精、人魚など、子どもたちの冒険心をくすぐる素材が満載です。
 中でも、主人公の子どもたちたちが空を飛べるというバリーの発明は画期的なことであり、現在までに多くの追随者を生み出しています。
 その一方で、家族の愛情、中でも母親への賛美は、この物語のもう一つの柱になっています。
 おかあさんごっこや赤ちゃんごっこなどの疑似家族を演ずることは、子どもの成長過程で欠くことのできない要素で、バリーはそれを巧みに作品に生かし、子どもがやがて大人になっていき、またその子どもが生まれるといった生の繰り返しを見事に描いています。
 その対比として、永遠の子どもであるピーター・パンという不滅のキャラクターを作り上げました。
 この「永遠の子ども」というのは、多くの児童文学者の共通のモチーフであり、かくいう私自身も自分の中に「永遠の子ども」が潜んでいて、その子に向けて作品を書いていた時期があったことを認めざるを得ません。
 この「永遠の子ども」は、通常は自分自身の子どもが生まれたときに消えてしまうのですが、中にはいつまでも守り続けている人たちもいるようです。
 私の場合は、自分の中の「永遠の子ども」は消えなかったもののだいぶ薄れてしまいましたが、自分の息子たちが成人した今でも彼らの中に「永遠の子どもたち」を見ることができました。
 きっとこれは、児童文学者に与えられた特殊技能なのでしょう。
 孫の男の子たちが生まれてからは、息子たちの中の「永遠の子どもたち」も少し薄れてきました。
 でも、私が長生きすれば、成人した孫たちの中にまた「永遠の子どもたち」を発見できるのでしょうか?
 さて、この作品は百年以上も前に書かれた作品ですので、賞味期限を過ぎた素材(ネイティブ・アメリカンへの偏見、母親になることに偏ったジェンダー観、偏狭なイギリス紳士像など)も散見されますが、この作品の歴史的な価値を考えると、現代に合わせて翻案するのではなく、原作通りの翻訳に、当時の偏見に対する現代の見解を注釈として附けて、子どもたちに手渡したいものだと思っています。

ピーター・パンとウェンディ (福音館文庫 古典童話)
クリエーター情報なし
福音館書店
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丘修三「歯型」ぼくのお姉さん所収

2024-10-01 09:06:49 | 作品論

 主人公とその二人の友人は、公園のそばを通る奇妙な歩き方をする障害のある子どもに、足をかけてころばせる「遊び」を始めます。
 毎日繰り返しているうちに、その子はそこを通る時間を変えるようになりました。
 それでも、主人公たちは執拗にその子を探し回って「遊び」をし、やっているうちにエスカレートしていって、ついには三人がかりで暴力をふるいます。
 必死になったその子は、三人のうちの一人のふくらはぎに噛みつきます。
 三人がいくら離そうとしても噛み続けるので、まわりの大人たちまでが集まって大騒ぎになります。
 その子が会話ができないことをいいことに、三人は一方的にその子を悪者に仕立て上げます。
 後日、噛まれた子の父親に抗議を受けた養護学校の教師が、反論のために主人公の学校の校長を訪ねます。
 校長室に呼ばれた主人公たちは、問い詰められて真実を告白したでしょうか?
 いいえ、作者はそんなことで主人公に安易な救いを与えたりはしません。
 彼らは、最後まで嘘をつき続けて、とうとうその場を逃れてしまいます。
 その代わりに、主人公の心には、一生消えない良心の呵責という「歯型」が残ったのです。
 自分より弱い者へのいじめ、自分と違う者への差別。
 ここでは、主人公たちのような子どもたちだけでなく、彼らの親や周囲の大人たちまでがそうした面を持っていることを鋭く告発しています。
 彼らが、いわゆる普通の子ども、普通の大人であるだけに、より深刻な問題です。
 そういう私自身も、こうした優越意識や差別意識を、少なからず持っていることを告白しなければなりません。
 「歯型」のような作品は、読者のおそらく全員が持つであろうこういった問題点を常に再点検するためにも、繰り返し読み続けられ、そして書き続けられなければなりません。

ぼくのお姉さん (偕成社文庫)
クリエーター情報なし
偕成社
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