☆現地説明文☆
大垣城は古く応仁年間には東大寺城と呼び、当時の城主は大井荘のうち石包名という代官職をしていた大垣氏であったようです。そこでこの城を大垣城というようになりました。その後天文四(1535)年、宮川安定が城郭を築き、永禄二年(1561)大垣城主氏家卜全が城郭の建築工事をほどこしました。
天正十三年(1585)九月、豊臣秀吉は一柳直末を大垣城主として天守閣の造営を命じました。この工事は天正十六年(1588)七月になって完成し、その後改修を経て、以来この天守閣は四層四回建て総塗りごめ様式で大変優美な城として歴史のうえからも貴重なものでした。
昭和十一年(1936)国宝に指定され、郷土の博物館として親しまれてきましたが、昭和二十年(1945)の戦災で惜しくも焼失しました。その後お城再建の気運が高まり、昭和三十三年(1958)五月着工、翌年四月昔そのままの姿で竣工したのがこの天守閣です。
火曜日が休館日という事で天守閣の中には入れませんでしたが、前回(4・5年前?)来た時にくすんでいた外壁が、真っ白になっていたのにビックリ。昨年から今年の春にかけて、屋根瓦の葺き替えと外壁改修工事が行われたそうです。
大垣城は古く応仁年間には東大寺城と呼び、当時の城主は大井荘のうち石包名という代官職をしていた大垣氏であったようです。そこでこの城を大垣城というようになりました。その後天文四(1535)年、宮川安定が城郭を築き、永禄二年(1561)大垣城主氏家卜全が城郭の建築工事をほどこしました。
天正十三年(1585)九月、豊臣秀吉は一柳直末を大垣城主として天守閣の造営を命じました。この工事は天正十六年(1588)七月になって完成し、その後改修を経て、以来この天守閣は四層四回建て総塗りごめ様式で大変優美な城として歴史のうえからも貴重なものでした。
昭和十一年(1936)国宝に指定され、郷土の博物館として親しまれてきましたが、昭和二十年(1945)の戦災で惜しくも焼失しました。その後お城再建の気運が高まり、昭和三十三年(1958)五月着工、翌年四月昔そのままの姿で竣工したのがこの天守閣です。
四層四階の天守(四層は死相に通じ縁起が悪いので四層は珍しい?)
火曜日が休館日という事で天守閣の中には入れませんでしたが、前回(4・5年前?)来た時にくすんでいた外壁が、真っ白になっていたのにビックリ。昨年から今年の春にかけて、屋根瓦の葺き替えと外壁改修工事が行われたそうです。
東門(旧柳口門を移築)
天守閣の石垣
戸田氏鉄騎馬像
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