ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

聖書と信仰

2019年06月27日 | 信仰
私は二十歳から30年近く、福音派と呼ばれる教会に属していた。それは濃淡があっても、いずれも聖書中心主義であった。特に最も長く居た教会は特に聖書をよく学んでいた。例えば日曜日も朝十時から全年齢対象対象の年齢別聖書教室があり、幼児から老人まで全員が45分間、聖書を学ぶ。次に全員が移動して十一時から礼拝堂で一時間余りの礼拝をしていた。だから学校のような立派な校舎が、教会堂に隣接して建っていた。
 
私といえばさらに聖書好きで、ほとんど成人科教師としてあるいは校長として過ごしたが、CS校長とは牧師に次ぐ立場だった。
この長い時代を通して実は感じ続けていた一つの大きな疑問があった。それは【自分たちに、なぜ(信仰の)力が無いのか?】と言う疑問であった。まるで濡れた紙を壁に貼っているようで、貼っても貼っても、紙は落ちて行き、徒労感だけが蓄積したことだった。
 
三位一体を信じるほとんどの正統的なプロテスタント信仰の教会は、聖書中心主義である。それは何の異存もない。問題は力がないことである。どうしてか? 聖書を知的理解に留めてしまい、人間の有限な知を超えた、神の言葉の力を封じ込めてしまったからではないか。
なおも言えば、聖書を信じると言いながら、聖書を自分たちの知的な理解可能な範囲内で受け入れることだ。聖書に明確に書かれ、その力である力、奇跡、癒やし、異言や預言などの賜物を否定するのである。これは第1コリントやその他の書にも明確に記されているが、これらは初期の時代のもので、今は聖書が完成したから終わったとするのだ。しかし「終わった」なんて、聖書のどこにも書いてないのだ。自分たち被造物である人間に過ぎない存在なのに、神の言葉を判定するのだ。
この聖書の霊的な力の核心部分(これを信仰と言っても言い過ぎではないかも知れない)の拒否は、三位一体を信じると言いながら、その一つを否定するに等しいものだ。つまり神のことばを骨抜きにし、立派なお飾りの書に棚上げするのには十分であった。
 
私の体験上から言えることは、聖霊によって書かれた霊的な書である聖書を読むのに、その聖霊様に頼らなくてどうしてちゃんと読めて理解できるのだろうか? またその言葉の力を見るのだろうか? これが実は疑問に思っていた「力が無かった」原因なのだ。
驕りを悔い改め、人間の知恵という混ざりものなしに、み言葉をすべて信じよう。
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御心の結婚〜6月24日の朝の示し

2019年06月24日 | 信仰
今朝は雨音で目が醒めて、カーテンを開けなくてもわかる梅雨そのものの朝だった。ベランダに出ると、船橋らしい風が雨と寒い空気をかき混ぜていた。早々と退散し部屋で黙想の時を持つ。
 
 
その時思い出されたのは、昨夜の結婚セミナーだった。三人の証しを聴きながら、私自身は結婚を二回しているが、三人とは全く別のパターンだった。クリスチャンの結婚に関し、すべてに共通しているのは「御心(みこころ)の結婚なのか」だ。
 
P牧師は以下の御言葉を毎回用いる。大前提として、結婚とは一体となる事だから、互いに永遠のいのち、霊が一つとなって働かなければ半身不随となる。
ーーーーーーーーーーー
「神は人を一体に造られたのではないか。そこには、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。あなたがたは、自分の霊に注意せよ。あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。」(マラキ215節聖書 ©2017
  ーーーーーーーーーーー
私の場合は、創世記の以下の御言葉が響いていた。
ーーーーーーーーーーー
「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」(創224©2017
 
「妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうか、どうして分かりますか。」(1コリント716 ©2017
ーーーーーーーーーーー
考えるだけでも、一体とされたのであれば、クリスチャンの場合、離婚は明確な背きであり祝福を失いかねない。であれば、私は最低限、クリスチャン同士でなければならないと決心していた。クリスチャン同士であれば、何の問題もない、そう単純に考えていた。その時はまだ、たとえクリスチャン同士であっても、P牧師の言う御心のものであるかの吟味は、その時は考えてもいなかったのだ。
 
それで、御心を知らず、ただ自分の夢にこだわり続けてどうなったのか?結局は七年の後、私は念願通りこだわり続けた人とクリスチャン同士の結婚ができて有頂天になったいた。しかしそれは全くの無知であったのだが、相手は精神の病を内に秘めていたのだった。
 
ガンで最初の妻を送って、私が心から祈ったのは【御心の人】と結婚することだった。それには痛切な悔い改めがあって、一切の選択権を主に委ねることにしたからだ。主は最良の導きをされる方で、私は主を信頼した。ある意味、神に任せないクリスチャンは、主を信頼してはいない。
隠さずに言うが、今の妻、ドルカスは結婚するまでは私の好みでなく、普通なら対象と思わない相手だった。実はこれはドルカスも同様らしい。ところがある方法で、それが主からだと確認できる方法でドルカスと示された。それで結婚することに決めたのだ。
 
正直、この結婚は神と結婚した思いだった。そして今、最高に幸せを感謝することに。今ではどうして彼女だったのか、その御心と神の知恵が分かるし、さすが全知の神の最善を褒め称えている。取り返しのつかない選択を、有限で愚かな自分の目や嗜好で選ぶのは実に愚かである。結局、痛い目にあいながら刈り取りをすることになる。
主を信頼せよ。主は最善をしてくださる。それは信仰の試しである。またそれは決して裏切られない。
ーーーーーーーーーーーー
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇375©2017
 
 
 
 
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狭き門より入れ

2019年05月22日 | 信仰
「狭き門」とは聖書の言葉だが、同時にアンドレ・ジッドの小説名でもある。私はその初めのページに掲げてあるこの聖句を先ず覚えた。そして下にあった「ルカ伝十三章二十四節」に、深い関心を覚えた。
 
私とキリスト教との始まりは私立中学1年、その寄宿舎の中、読書灯を自室ベッドの布団にくるんで読み耽ったこの小説からだった。この小説からキリスト教と語りかける神について、聖書というものについて、初めて知った時になった。(写真は当時のそのものではないが、その後に思い出としてもう一度買い足した「狭き門」。中は紙が茶変し、読みにくく、半世紀以上の時を感じさせる)
閑話休題〜聖書について
当時既に1955年に口語訳聖書が世に出ていたが、この頃はまだ8年ぐらいしか経っておらず、多くの人はまだ文語文聖書だったと思う。今読み返しても文語文聖書は力強く、名訳だと思う。文語文で覚えてしまった御言葉は、日常どうしても口語より、文語の文での方が先に口に出てしまう。
今は新改訳2017の時代だが、発刊されて1年半経っても多くの人はまだ第三版のようだ。私見であるが、2017は文語文聖書と並び称される、日本語聖書の金字塔となる名訳だと私は高く評価する。忠実であろうとして、変な言い回しに陥っていた本文がかなりこなれ、読んでいると意味がストレートに入って来る。こうして違和感のない日本語になるまで、六十年余りの口語訳聖書の年月が、歴史が要ったわけだ。
 
しかしこの2017にこの群れでもなかなか切り替わらないのは、文語文聖書で覚えた言葉がなかなか消えない私のように、慣れ親しみ、覚えた御言葉が変えられてしまうことに、抵抗があるのだろう。
けれども逆に言うなら、どうせ何年かしたらこれに必ず切り替わるのだから、そして2017は多分これから世が終わるくらいまで、半世紀ぐらいは用い続けられるようになるのだから、一刻も早く2017にして、慣れ親しみ、2017で覚えて行った方が良いのではないだろうか。この世に当分、使命がまだ残っているならば。
 
本題に戻る
「狭き門より入れ」の御言葉。ルカ伝から。
イエス教えつつ町々村々を過ぎ、エルサレムに旅し給ふ時、或る人いふ「主よ、救はるる者は少なきか」 。イエス人々に言ひたまふ「力を盡して狭き門より入れ。我なんじらに告ぐ、入らん事を求めて入り能はぬ者おほからん。
 
上記のルカ伝と、マタイ伝の狭き門とでは実はかなり意味が違ってくる。ルカ伝ではいよいよエルサレムに向かう途上での出来事であるが、マタイ伝では、最初の本格宣教である山上の垂訓の続きである。内容もルカ伝では救いの時である門限に間に合うように、との意味合いに受け取れる。しけしマタイ伝では狭い門と広い門(滅びの門)とがあって、選ぶ門そのものの選択が問われているからである。
 
ジッドが選んだのはルカ伝の狭き門だが、私は(自伝的な装いながら、実はかなり虚偽のある)この作品の内容からすると、マタイ伝の方が適切だったのでは思っている。ジッドはあまり聖書を読んではいなかった? さて詮索はそれぐらいにして・・・と。
 
(「狭き門より入れ」のイメージはこれ。茶の湯のにじり戸。頭を下げ、へりくだって距離が取れない狭い部屋に入る。非常に聖書的である)
 
本題〈狭き門より入れ〉
人生にはいくつかの重要な選択をしなければならない。そして人々は合理的で妥当だと思える道を選択をする。いわゆる広い門から入ろうとするのである。
私の人生における最初の仕事は、広い門であった。大学を出て広島に帰っての仕事は、掲示板にある求人表の中で、条件の良いものを選んで入社した。中四国地方では最大手の製版会社であった。 私はそこで幹部候補社員として現場を2年勤め、3年目に営業に回された。得意先周りなどを通して業界の実態を知るにつけ、私は会社と業界の将来性に夢を感じられず、先行きがくらい事を知った。
ついに転職を考えたが、多くの同僚たちは身につけた力を元に、勤めていた同じ業界に転職して行くのを良かれとは思わなかった。
 
この時このジッドの小説の題名でもあり巻頭言でもある「狭き門より入れ」が脳裏に響いた。それで祈っていると面白いもので、それまで決してなりたくはなかった仕事、教師への志が湧いてくるのだった。「あんな偽善的な仕事をよくするよな」から、「金に頭を下げるのではなく、偽善的ではあるけれども、建前に殉じれる珍しい職業」だと。
 
今よりも当時は、教師への道はかなりの狭き門であった。デモシカ先生は私が卒業する数年前の過去のこと、今や不況の時代にあって、教師は競争率十倍以上の難関。地元の教育学部を出ても難しいとされていたのだ。それに免許状すら持たぬ者が、ひょっとして一生涯、日雇い的な臨時採用のリスク覚悟で挑むのである。
 
神の導きは素晴らしく、私は2年で免許状資格を取り、晴れて採用となった。そして私が勤めていたあの製版会社は、なんとそれから20年後、不渡り手形から倒産してしまった。あのまま私が残っていたら、と背筋が凍る思いである。
 
牧師に召されてつくづく思うことに、教師は牧師に最も近い職業であると思う。集団を指導する力、個々の問題に向き合う力、個性や障害と向き合う大切さを学ぶことができた。
今のアルバイトは子どもと向き合う仕事だが、やはり教職経験は役立っている。
神の成されることに無駄がなく、一切を見通されて全てが益に用いられて行くことがわかる。
 
さあ、神を信頼し感謝しよう。
 
ケパ
 
 
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八重桜が散った日に思うこと

2019年05月02日 | 信仰
 
 
こんなにたくさんの八重桜を見たことがなかった。ソメイヨシノに比べればかなり濃いいピンクで、咲く時期も少し遅い。そして落ちて来る花びらも、重さがあることだ。
特徴的なのは、ソメイヨシノなど他の桜と違って、満開でもわずかに若葉がすでに顔をのぞかせていることだ。(さすがに今日は小雨の中、ほとんど散っていた法典公園、八重桜)
ここ船橋市法典公園はサッカーとテニス専用の施設で、テニスコートだけで13面ある。と言うことは、私が1番来ることの多い場所である。ここにこの、八重桜が咲いている。どちらかと言えば私もソメイヨシノ派だが、ここの濃い目のピンクも艶(なま)めかしくて、これもまた変化形で良いんじゃないかな、と思う。
 
 そして、この桜がこのように散って思わされることに、
 人々はまた高いところを恐れ、道でおびえる。アーモンドの花は咲き、バッタは足取り重く歩き、風鳥木は花を開く。人はその永遠の家に向かって行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。」(伝道者の書125節 新改訳©2017
の言葉を思い出す。
これは中学1年で習った平家物語の「諸行無常」と通じるものがあるのだが、全く違うのは、そうだからこそ①汝の少き日に汝の造主を記えよ(これは15歳、初めて伝道所に行って、その入り口に飾ってあった聖句で、この12章1節にある)、②いつさばきの日が来るかわからないから、だから③神を恐れよ、神の命令をまもれ。これが人間にとってすべてである(同 13節)
と今、神を信じることの大切さを推し勧めていることだ。仏教的な、ただ虚しさにしたるだけではないところが大違いだ。クリスチャンには希望がある。
 
 
ケパ
 
 
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罪がわかる祝福

2019年04月09日 | 信仰
神様ってすごい!と感動する。人智を超えた、唯一にしてまさに真の神である。三位一体が分からないと言う人も、この話は分かるのではないだろうか。
 
性善説と性悪説という言葉を子どもの時から知っていた。私の家は浄土真宗だったので、親鸞の「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」の言葉は耳タコ部類だった。性悪説でなければ、親鸞も阿弥陀もないわけで、大人になって性善説の人が多いのにビックリした。
 
しかしたとえ性悪説を認めていようが、多くの人は、「それがどうした?、みんなおんなじじゃないか」の域を出ないようだ。阿弥陀仏の慈悲にすがるほどの罪意識は、持てないでいるように見える。形だけの式をあげても、さすがの弥陀もお手上げではないだろうか。
 
もちろん私はクリスチャンなので、十字架のない救いはあり得ず、残念ながらそこは天国ではないと知っている。福音を信じない多くの同胞のことを思うと断腸の思いだ。
 
本題に入る。
「あなたは罪が深く、そのままでは天国(正しくは天のエルサレム)に行けません」と言われたら、ショックだろうか? 性善説の人は怒り、性悪説の人は、ある程度受け入れるだろう。しかしそれも、法に触れる罪を犯していない人で、自分の良心に責められる人は稀に違いない。福音派と私たちが呼ぶ教会にいた私もそうだった。ただ浄土真宗ではなく、真の神を信じているクリスチャンだったのが違いだった。
 
四十歳になった頃、前妻が拒食症を発症した。当時、私の教会では教会は神から祝福を受けた人が義であり、支配層であった。クリスチャンは倫理感に富み、まじめに働くし、神から祝福されて当然で、それが証明された人が敬われて当然と言うわけだ。
それまで私は教会の責任を担う立場にあったが、妻が発病したことで、いわば祝福から落ちた者と見なされたようだった。病は神のわざが現れるため(ヨハネ9:3)ではなく、前節の「罪を犯した」扱いなのだ。思い余って牧師に癒やしの祈りを請うと、「(そんなものはないので)病院に早く連れて行きなさい」だった。
この時から、私の長い旅が始まった。はじめは私は、自分を犠牲にして家族のために頑張っている演技を続けた。癒やしのある教会も探し続けた。ほとんどそんな教会はなかった。事態は長い年月をかけて、ゆっくりと落ちていくばかりで、家族は分断され、とうとうメッキがはげ、本当の地が剥げて出てくるようになった。
 
パンドラの箱ではないが、希望を失ったと感じた私はやけになった。色欲、破壊欲に抵抗する気力もなく、どうやって派手にそれを実行しようかと・・・罪の本質が現れた時、それが罪であるとは分からないものだ。どこまでも自分を被害者扱いにし、正当化する、それが人間だと人は言うかもしれない。しかしそのような者が行くところが、天国であるはずがない。なんと私は哀れな者であろうか。こんな私を神に愛される価値があるのだろうか、それはない!
 
キリスト教においては、罪がわかることが真の救いである。十字架が罪深い自分のためであったことを悟った瞬間、それが成就する。すると、自分の正当化できない本当の罪を知らされたことは、自分の力では出来なかったことで、試練困難はこのためであった。心から悔い改め、こんな者を愛してくださる神キリストに、狂喜して自分を献げたい。神の愛がわかった瞬間でもある。罪は神のものとされる祝福となった。
この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」(エペソ 28©2017
 
神の言葉は真実である。信仰も神によって与えられるものなのだ。
 
 
 
 
ケパ
 
 
 
 
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がんばっている自分をほめましょう?

2019年02月19日 | 信仰

これはとある会社の2月のカレンダーの絵。

ナ・ル・ホ・ド、要するに自分を肯定的に見て行く、ということなんだろう。確かにその方が、成功する確率が高い。しかしそれは、本当に自分ががんばっていなければ、単なる甘やかしである。

しかし努力も頑張りも要らない世界がある。かと言って怠け者の世界ではない。御心の道を歩む世界だ。自分でほめてやらなくても、ちゃんと神様がほめてくださるのだ。本当の自分で良いのだ。

ケパ

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メリークリスマス

2018年12月26日 | 信仰
昨日は、メリークリスマスの挨拶が飛び交いましたね〜
クリスマスの話題書こうか、と思いつつ何も書けない私でした。

実は私達の群れの教会は、この日はお祝いしません。
でも、24日夜にはJゴスペルコンサートが開かれ、多くの方に聴いていただき、イエスさまの事を知っていただける機会があり、参加してきました。
[Light こころごすぺる]

出演者全員でendingの曲です。

勿論私(私たち)の罪のために我が子を送ってくださった天の父に、感謝で一杯ですので、イエス様の誕生を喜びますが、

聖書には誕生した日も、祝いなさいとも書かれてないの。イスラエルの気候からしても真冬なのです。この時期ではないのよ。

さらにこの頃は冬至があるでしょ。ある宗教で太陽を崇める祝いがある。ローマ帝国が蛮族によって滅亡した時、彼らがカトリックを認めるように、と言うか、調子を合わせたのかな〜
彼らの言う太陽神の日をイエスさまの誕生日と決めたのよ。

また幼子イエスを抱く母マリヤの姿を、どうしても崇拝してしまう、
そのような4つの理由で、私たちは、この日はお祝いしないのよ。


1分でわかるクリスチャンのキーポイント

こちら⤵️で詳しく聞けます。
クリスマスのこと
興味ある方是非お読みくださいね。

ドルカス



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信仰とはどういう事か?

2018年10月17日 | 信仰
最近、信仰について考えさせられている。

「信じる」とはどういう事なのだろうか? いろんな信じるがあって、多様性を認めるべきなのか?

1例として、迫害時においての「転び」がある。人によっては「命をかけてまで、そのような形にこだわる必要はない。信仰はあくまで心の中のものだから」とする。確かに、そういう一面はあるかも知れない。

しかし聖書では次のように言っている。昇天する直前のキリストが最後に言った言葉だ。「あなた方は『わたしの証人となります』」と。すると信者が迫害時に自分の命を惜しんで、キリストの名を否んで刻印を受けたりすれば、証人としての使命を果たせていないことになる。
しかも聖書では、(やむなく、であっても)獣の刻印を受けた者は、容赦なくゲヘナの火にに投げ入れられると明確に記されている。刻印を受けても、後で悔い改めたら赦される、とは、これはならないようだ。

結局、信仰とは自分の肉の命を第一に考え、御名を否定し背いて血肉の命を保つか、それともキリストのために一つしかない己の命を差し出すか、そこに終着点があると思う。普段は皆、同じように共にいても、くっきりとそれをあぶり出すのが【試練】なのだ。神はご自分の独り子を惜しまれず、十字架にお架けになって愛をお示しになった。それほど真剣なのに、どうして私たちが自分を守っておられようか。
ではどうして命をも差し出せるのだろうか? それは多く赦してくださったキリストを、心から愛するからである。

イエス様がパリサイ人の食卓に招待された時、金持ちのパリサイ人に対比されたのは罪の女であった。そして「赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」と愛の真髄を語られたのだった。

人は2種類に分けられる。自分を罪ある者として見ているのか、正しい者として見ているのか、である。自分を義とする者は、たとえ神を信じたとしても、それは永遠のいのちを不法に得ようとしし、自分のためであり、殉教などできはしない。

それゆえに主のとし年、恵の年が終わりに近づいた今多くの刈り取りのために、多くの試練が押し寄せてくるのは当然である。イエス様の名を否まぬよう、刻印を受けることないように主に祈り、信じましょう。
自分の醜さ、弱さを知る者が、高木仙右衛門の如く、祈って神の助けを求めたい。


ケパ



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試練の時に真価が明らかにされる

2018年10月08日 | 信仰
横浜の縁者宅を訪問した時に、先の台風25号で庭の少し先に立っていた巨木が倒壊し、空が広くなった話を聞いた。行ってみると、ざっと15から20メートルぐらいの高さがあっただろうか。「こんな大きな木が・・・」とかなり驚いた。幸い道なりに少しズレて倒れたので、被害が無かったのが幸いだ。

木の根本を見ると、周りの樹木も同じく強風であおられただろうに、なぜこの木だけが倒れたのかがわかった。巨木の割に驚くほど根が浅かったのだ。だから風に耐えることができなかったのだ。

台風が来ても、足がない植物はただひたすら耐えることしか出来ない。試練である。その危機的な中で 、生き残れるかどうかは、サイズや立派さではなく、見えない所である土の中、いかに根を深くしっかりと根が張れているかどうかなのだろう。

信仰も似たところがある。
"キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。"(コロサイ人への手紙 2章7節)
この「キリストのうちに根ざし」が弱いと、倒れた巨木のようになる。そしてその被害は非常におおきいものとなる。

例えば牧師とか指導者が神の召命も無く、人から薦められたり、あるいは自分で決心して立った場合がそうである。それは根が深くない。神の堅い土台ではないからである。

私たちの秋元牧師の話に、献身を祈ったら会社員になれと言われ、大ショックだったが従った。ところが命も危うい病に落とされ(会社員だったので治療費はただに近い恵みはオマケ)、徹底的に弱さを知らされた時に召命があったと言う話(正確ではないが)がある。
私も献身に、神からの召命が要るなんて知らなかった。しかし聖霊のバプテスマ以後、そのことを神から教えられた経験がある。

そのことは試練の時に、すべては明らかになる。神の召命なしに指導者に導かれた方は、遅くはない。ぜひ今からでも祈り求められますように。



ケパ






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あなたよりも大切な存在がある

2018年10月04日 | 信仰
もし結婚したばかりの夫から、いの一番に表題のようなことを言われたら大ショックでしょう。
「妻よ、あなたの大切さは十番台のトップですよ」と。すると当然新妻は聞くでしょう。「エエッ、どういう事です?私はあなたのファーストじゃないんですか?そんなぁ、ひどいわ」

「すまないが、実は私に大切なのは神様が1番、エーッとその次にイエス様や聖霊様、それから後は無くて、桁違いの十番台になって、その1番はになる11番があなたです。」

それを聞いて、新妻はホッと安堵し(何だ、相手は人間じゃないんだ)、以後、何も言わなくなりました。けれどこれは、ハッキリ告げなくてはならない大切な告白でした。
なぜなら、この方といつもお交わりをし、夢中にになっていて、私の命を差し出しているからです。それは十年経っても変わらない告白でした。

以下に述べるみ言葉は、何も特別なことではなく、牧師から信徒のすべて、クリスチャン全員に適用されることです。実の親兄弟よりも、あなたは教会の兄弟姉妹を愛していますか?実の親子よりも霊の兄弟姉妹は、永遠の関係なのです。イエス様が次のようにおっしゃいました。

※肉親や兄弟、家族をもちろん、おろそかにして良いということではありません。


"イエスはそう言っている人に答えて、「わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか」と言われた。
それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」
"
【マタイの福音書 12章48~50節】




ケパ



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