ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

老後より死後

2018年08月13日 | 信仰
日本は世界に冠たる老人大国で、去年の統計では二位のイタリアを4.03%も差をつけて27.05%で一位である。(高齢化率は総人口に対する65歳以上人口の比率)

(暑さ本番中に、セミ二匹見つけた)
今日のテニスコートで昭和20年、23年、26年(私)と三人の男が並んで話す機会があった。「座位から立ち上がるまでが手を突きながらのヨッコラショ、情けない」(26年)。朝起きて立ち上がるまでが「うっかりできない、時間をかけて」(23年)とかの話になった。この話は暑い日中、テニスコートを走り回ってバリバリのプレーする猛者達なはずなのだが・・・。年をとったらこうなる、それは聞いてはいた。しかしこれは経験しなければ、本当にはわからない話だった。

秋元牧師のお話の中で、「老後より死後なんです」と言う言葉を何度も語られている。今年になって経済が逼迫している私たちには、その都度ドキッとさせられている。なぜならこれまでの余裕が尽きて、現在でもどうやって生活を成り立たせようかと思い、ましてこの先、どうなることだろうかという心配が、瞬間的にでも再々襲って来ているからだ。

しかしこれから先の老後生活を心配することより、確かにその先のために私たち夫婦は召されているのだ。私自身、上京する際には、路上生活者となり、野垂れ死にしても構わぬ決心をして来た(神様からは、「決してそうなりません」と笑われた)はずだった。それなのに、体の衰えと共に、このように老後を心配する有様である。

そして昨日は何と自分自身で、示されてではあったが、下記の聖句からメッセージしている。
"金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。"(ヘブル人への手紙 13章5節)

‘’金銭を愛する‘’とは、まさしく生活を心配し、オロオロどうしようか、と悩むことである。神は‘’今持っているもので‘’と言われる。本当にその通りである。上を望んで欲望にとりつかれ、まだ見ぬ先を心配して不安にとりつかれる。これらは賢そうに見えるが、実は愚かなことである。最も大切なこと、天国への備えをおろそかにしているからである。

神を信頼し、世での命を捧げてきたのに、どうして今さら煩うのであろうか。主は決してこの私たちを見放されず、見捨てられないのだ。神を信頼し、この世では、ただひたすらに、神の御心だけを行う、それこそ天国人としての生き方である。



ケパ



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お盆とクリスチャン

2018年08月08日 | 信仰
船橋駅の近くに行くと、ガラガラとスーツケースを引っ張って歩く人が目についた。お盆帰省の人たちだ。今年もお盆がもうすぐだ。

お盆はわが国最大の宗教行事だ。あまりに宗教的過ぎて、これほど国民的な行事なのに祝休日にできないでいる。
お盆には浄土などから祖先の霊が帰ってくるので、「此処だよ」と燈籠を点け、香を焚いておもてなしをする。香は仏への敬意を表し、己をも清浄にし、良い香りで極楽浄土を想起させ、灰になることから無常さを教えるものらしい。つまり帰省すると、どうしても焼香や線香を捧げる場に出てしまう。そこで線香などを皆と一緒にすると、本人の信仰はともかく、仏になった先祖霊を認め、礼拝したことになるのだ。

私は安芸門徒と呼ばれる浄土真宗のただ中育ち。東京でクリスチャンになるまでは、家族親族近郷近在、皆この宗門だらけで、幼き時よりしっかり身についていた。
二十でバプティスマを受け、卒業して広島に帰ってくると、どの教会でもお盆に限らず、葬祭の焼香や供養に、全く違和感なく参列し焼香を捧げる人が多かった。せいぜい十字架をぶら下げている程度だった。しかし私はどうしても違和感があって、これでいいのかとかなり長い間、疑問を感じ続けていた。

かつての教会内でこの点を問うたことがあった。すると「他宗(仏教)を尊重することは、自宗(この場合キリスト教)をも尊重してもらえることになる」と説明された。また焼香や礼拝しなければ、ホストを傷つけることになるので、愛がないとも言われた。しかしそれでも、「本当にそうだろうか?」との疑念が消えなかった。

以下は私個人の見方であり、上述の疑念からの結果であって、他者に押しつけるつもりはない。その上での話である。
福音派と呼ばれる教会にどっぷりつかっていた後半、家族の病と家庭の崩壊などいろいろな試練があって、私は180度異なるカリスマ派になった。その時から、私は目からウロコ、この問題における大きな過ちに気づいた。上述の例は、要するに聖書と神に聞き従っているのではなく、あくまで世に迎合し人間を恐れ、保身を第一にしていることの言い訳、へ理屈だったのだ。この過ちが理解できていなかったとはいえ、私はひどく悔い改めた。

クリスチャンなら誰でも知っている十戒の第二には、
"いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない"( 申命記 5章8~9節)とある。クリスチャンがお盆に、仏になった先祖へ焼香や供養することは、信じてはいないとどんなに詭弁(きべん)を弄(ろう)しても、それは重大な背教である。唯一の真の神以外を拝することは、偶像崇拝の罪に当たる。

聖書ではさらに、
"この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。"(ローマ人への手紙 12章2節)とある。

何が良いことで、神に喜ばれることなのであろうか? まさか焼香や供養をすることではないだろう。そのような場では、私は代わりに、たとえどんなに目立っても祈りを捧げる。神をほめたたえ異言を語る。僧侶が居て、皆に対して「ライハーイ」と言おうが、決して頭を下げたりはしない。それが不遜と受け取られそうな時は、はじめから祈りの姿勢を崩さない。ただしその場の人びと対しては、心から礼を尽くすのは当然であるが。

もしその焼香や供養しない事で、親族などからなじられることがあったとしたら、それはキリストの苦難に、この小さな者がわずかでもあずかれたと喜んで感謝する。キリストは「だれでも自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われたのだ。パウロのように何度も鞭打たれ牢獄にぶち込まれるわけではない。どうしてこの程度のことで怯(ひる)んでおられようか。まして訳を聞かれるなら、絶好の証のチャンスである。感謝、また感謝である。

※参考)ダニエル書の「たとえそうでなくても」
捕囚の民であっても役人として取り立てられた
シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのユダヤ人3人は、巨大な王の像を拝むことを強要された時、死を覚悟して言った。

"「しかし、たとえそうでなくても(=神が自分たち三人を燃える炉の火から助けてくれなくても)、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。」"(ダニエル書 3章18節)

神への信仰は、何千年も不変である。



ケパ







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「ご先祖様!」じゃない・偶像崇拝とは

2018年08月06日 | 信仰
数日前、NHKテレビ番組ファミリーヒストリーで、「北海道スペシャル~北の大地で、強く生きた~」があった。

私はこの番組が、調べる先祖の中に家柄や偉い人、帝大出とか○○裁判官を探し出し、そういう先祖だけを称揚するのに、軽い嫌悪感を持っていた。今回、ほんの短い時間だけ観てしまったが、その中でニシン御殿を作った先祖に対し、その子孫に当たる番組出演の芸能人が喜んでかつい、「ご先祖様❗」と声をあげていた。私はこれに強い違和感を覚えてしまった。(その番組のシーン)

もちろん「ご先祖様❗」と言うことを非難しているわけではない。そんなことを言おうものなら、この国では即バッシングにあってしまう。そうではなく、ただこの自分が、この国の民、多くの日本人とかなり考え方が異なっていることを実感したのだ。

多くの人にとっては、自分の先祖に立派な人がいたら、誇りに思うことだろう。世的にはそうだろう。しかし、信仰的に見ると、それは全く何の関係もないのである。すべての人は罪人であり、そのままではゲヘナ行きは免れない。ただイエス・キリストの十字架を信じ受け入れた信仰者(クリスチャン)だけが、十字架の贖いによって罪赦され、永遠のいのちを与えられて、神の国の一員として天国で再会できるのだ。

だから先祖にクリスチャンがいたら、それは天国で会えるので喜ぶ。しかしそうでなければ、審判は神のなさることなので、人間に過ぎない私が絶対とは言えないが、先祖とは言え全く違う恐ろしいところへ行く人たちなのだ。

確かに私は先祖が居たから存在している、しかしそれゆえ先祖がありがたく尊いのではない。
なぜなら私の霊は神がこの血肉となる遙か以前に創造されておられ(ダビデやエレミヤ、イザヤも49章でこのことを証している)、全能の神はどのような方法をもってしてでも、私の霊に血肉の体を着せてこの世に送り出すことがお出来になるのだ(マリヤは処女なのにキリストを出産した)。その視点から言えば、神はご計画によって私の先祖を用いられたに過ぎない。

けれども、親を尊び敬うのは当然である。神の愛に答える者は、血肉の親の愛にも答えるのは当然ではないか。しかしそれと、先祖を〇○様❗と敬うのは別の話しである。
血筋や民族を誇ってはならないことのは、以下の御言葉からも明らかである。大切なのは信仰である。

"あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。"(マタイの福音書 3章9節)

付け加えだが、全人類はアダム以来というもの、神の前に罪人である。先祖だからといって、罪深い、ただの人間に過ぎない。十字架を信じていなければ行き先はゲヘナである。だから感謝は神に対してするのであって、おろそかにはしないものの、先祖だからとそれだけで敬うことはできないし、してはいけない。
つまり多くの同胞と同じ先祖崇拝をして、偶像崇拝の罪に陥ってはならない。だからあくまでクリスチャン限定だが、「ご先祖様❗」は、してはならない。神に感謝し、世にある限り、その使命を全うしよう。

この点から言えば、クリスチャンの家に、位牌や遺骨が存在することは避けたい。積極的ではないにしても、そこに偶像崇拝の危険性があるからだ。御言葉にもある通り、世の霊から遠ざかり、偶像崇拝は絶つ必要がある。

"あらゆる形の悪から離れなさい。"テサロニケ人への手紙 第一 (5章22節)

葬儀後はできれば土葬して、土からつくられたのだから土に還す(地上には形として何も残さない)のがベストだと思うが、この国では不可能である。

だから遺骨は教会の墓地に埋葬されているのが良いと思うが、海とかの大自然に散骨して、土に還すのも非常に良い方法ではないだろうか。とにかく、形あるものを残すことの重大な問題性(遺骨=大事なものという感覚=偶像崇拝)に気付いて欲しいと私は思う。

" あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。“(申命記5:8-9)



ケバ





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どんな時でも証が出来るように

2018年08月03日 | 信仰
木曜日のテニスの合間、ほぼ同年齢ながら、一人がゴルフ場のスタート係に就職が決まったという報告をきっかけに、なんと残り5人が互いの仕事を言い表すことになった。
私の番になった時、「えーっ、私は皆さんの弱点を容赦なく攻めておりますが、こう見えましても私、実はキリスト教会の牧師であります」と、はからずも苦しい言い訳ながら牧師であることが証できた。
帰り道、さっきの仕事紹介では、遠慮した情けないものだったと反省。スポーツというもの、ある意味、ルールのある喧嘩だと思って言い訳だし、あの時、もっと前向きに言えなかったかなと思い巡らすと、「教会では愛を! コートでは試練を与え! がモットー」ぐらいのユーモアがあったら、と悔しがった。

別にユーモアでなくてもいいが、こんな風な、ちょっとまずい場合でも、私たちはいつでもどんな時でも証できるよう、祈り備えておく必要を感じさせられたのだ。





ケパ





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白馬キャンプに行く

2018年07月05日 | 信仰
水曜礼拝で、m姉が証しされました。



「白馬キャンプに行きます。
お休み取れました」
2年ぶりに参加出来ます。ハレルヤ


白馬キャンプが、今月末に迫りました。
白馬キャンプ紹介


動画で紹介しています。ご覧ください〜〜

さらに〜〜嬉しいことに
今回は、信州の、オンライン会員さんも
J.GOSPEL コンテスト'18
行きたいと連絡が取れていますので、久しぶり〜みんなで会えます。

ハレルヤ〜〜



ドルカス







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問題を神の側から見た時、喜びと感謝に変わる

2018年05月07日 | 信仰


私は生来、高慢な者であった。忘れもしないが、小学校の時に痛くもない盲腸の手術をした。動けない私は、せっかく見舞いに来てくれた近所の友だちをすごく屈辱に感じて、追い返してしまったほどだ。

高慢な者は、負けることが受け容れられない。だから観るのはいいが、やるスポーツは嫌いだった。しかし勝つことは、負けから己を正しく知り、学んで生まれるものであって、例外はない。もし徳川家康に、しかめ顔となった三方ヶ原の敗戦が無かったらと思えば良い。

高慢さというものは、己を正しく知らない限り、心の不安定さを伴うものだと思う。クリスチャンになる二十歳までの私は、いつもエレベーターのように上下する自分の感情につき合いきれない思いがした。一方でこれが無くなったら、伸びきったゴム糸みたいでつまらないかも、と思った。心の病の方の苦しみの多くは、本当は弱く情けない自分を受け入れられない戦いであって、平凡への恐れ、真実への不安など、自分では気づけないけど、源が高慢さ故の苦しみがあるのかも知れない。

二十歳の春、私は学生運動の中で脱退し挫折した。それまで皆の前でマイクを握り、一丁前にアジッていたのにと、口先の愚かさと裏切りに、我ながらあきれ果てていた。その3月の夜、雪の降る小田急相模原駅の路地裏で、私は自分の愚かさを認め、神の存在を受け入れ、白旗を揚げて神様の軍門に降った。(つまりその足で教会に行き、クリスチャンになった)

五十歳の二月、十年以上にわたる妻の病の終着点、家族との別離とアルツの母を抱えた私は、喪失感に囚われ自暴自棄に陥った。最後にあらゆる不道徳な罪を犯して、もう終わりにしようとした。その欲望に捕らわれた瞬間、自分を捨てられない罪深さに気づかされ、偽善者として深い悔い改めに導かれた。その次に神に触れられ、体験し、福音派的な信仰が一変した。

今私は、本当に幸福で神への感謝にあふれている。辛かったこと、苦しんだこと、挫折したことが、実はすべて最大最高の益に変えられたことがわかるのだ。神の視点に立てばそうなのだ。真逆とはこういう事を言う。
確かに今だに私は高慢な者であるが、少なくとも高慢であることを骨身に知っており、これを砕く神の愛とあわれみが、私を覆っていることを知っている。
だから今、己に苦しんでいる人、困難にある人、試練に遭っている人、あなたは神の視点に立ち、喜んでください。感謝して下さい。今はわからないけど、そうなるのです。なることを信じて期待してそうすれば、どれほど神様が喜んでくださることでしょうか!

✳️益になった
"神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。"【ローマ人への手紙 8章28節】

✳️益にならなかった
"福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。"
【ヘブル人への手紙 4章2節】



ケパ





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洗っても洗っても、なくならない砂

2018年05月04日 | 信仰
今日も昨日ほどではないが、一日中、風が吹いた。風はカビや湿り気を吹き飛ばす。だから風の吹く船橋は、晴れの日が多く温暖で良い所である(写真は今日訪ねた隣の習志野市営の谷津バラ園で)。
私は中国山地にある盆地の町で育った。そこは毎朝9時までは霧が立ち込め、晴れるまでは何も見えない、乳白色の無風世界だった。だから時おり、強い海風が吹き荒れる船橋は新鮮である。ヤッケやコートに付いていたフードが、実際に役立つことがわかった。聖霊はよく風に例えられる。東京の真東、ここ船橋に、聖霊の風が強く吹いてくださると私は信じる。

さてこの風の日を利用しようと、昨夜久しぶりにテニスシューズを洗った。テニスシューズのようなゴム系のものは、あまり日に当てないで乾かしたい。だからこんな風の強い日が最適だ。以前は月に1回ペースでまめに洗っていたのだが、靴の内側に防水スプレーをかければ、数か月はもつことを発見して、ちょっと無精していた靴洗いだ。

洗ってみて驚いた。ゆすごうとすると、何度ゆすいでも砂が出るのである。四回目ぐらいからムキになったが、結局水の無駄使いと六回目ぐらいで止めた。出る砂の量は少なくなっても、どこから出て来るのか、砂が完全には切れそうになかった。

思えばこの靴、オムニといわれる人工芝用だ。オムニコートの表面は砂場であって、その上で長い時間、砂を蹴飛ばし、引きづり、かき回し続けていた靴なのである。靴の中だけではない、ソックスの中、靴底の中敷きの下まで砂だらけとなる。だから靴の生地の目の中に、すっかり砂が入り込んで、ちょっとやそっとでは、完全には落ちないのだ。

それで何を思ったのか、罪を、である。
見た目には見えなくても、洗っても洗ってもどこからか出て来る砂。それは、悔い改めても悔い改めても、罪の心が消えない私自身のように思える。洗う度に砂が少なくなって行くが、どんなに洗っても、一粒の砂も無くすることは、困難だ。聖者になることは、出来ない。

しかしこれが信仰のポイントなのだと思う。取れない罪深さは、同時に恵みでもある。Amazing Graceの歌のように、世にある限り、どんなに神があわれみ深いか、赦しのお方であるかをずーっと体験し続けることなのだ。(AmazingGrace、この有名なゴスペルの作詞者、ジョン・ニュートン(John Newton/1725-1807)は奴隷船の船長であった)

そして私の一生もそのように、願っている通りに、確かに清められては行くが、本質的な罪深さは消えず、決して究極的な清さにはあずかれないだろう。これが実は高慢さからの守り、神の計り知れない知恵と愛なのではなかろうか。
歌では一番から三番までがこの事を歌い、神のあわれみと守りを歌っている。そして四番の歌詞にでは、世の終わりが来て主の所に迎えられる時、A life of joy and peace・・・・私たちは喜びと安らぎの中に入るのだ。究極的な勝利の時である。

つまり一般の人々が恐れる死は、クリスチャンにとっては、待ち望んだ喜びの日、血肉の罪深さからの解放される喜びの日なのである。
あらためて思う、私たちは天国人なのだ。

ケパ







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進化しない

2018年04月26日 | 信仰
私たちの日常生活で、つい口に出ることば、例えば「最近の道具は進化してるよねぇ-」は、わが教会では禁句になっている。
「進化」とは広辞苑でひくと、evolve-evolutionと言う言葉から、要はダーウィンの進化論が土台になっている言葉であることがわかる。聖書を「(原典においては)誤りなき神のことば」と信じるクリスチャンにとって、進化論は神が世界を創造された創造の事実を否定するために、牧師の親父に反抗する息子が思いついた考えに過ぎない。

普通の人はこれを聞くと「ええっ」と思われることを重々承知で言うが、実は進化論には学問的、科学的に証拠が何一つ無い。これは一つの仮説であって、真理なら必ずある追実験や証明されたものは何一つない。だから、神を信じたくない人たちの、もう一つの信仰と言っても言いすぎではないのた。

確かに神を信じず、従って聖書を知らず、聖書の説く創造論を受け入れられない方々にとっては、進化論しか他に考えようがないので、自分たちはサルからと信じるしかないのだ。するとごちそうのお肉は、遠い近いがあるだけで、祖先の動物の共食いと言うことになる。ウゲゲゲッ。
まったく余計なことだが、ベジタリアン志向には、この進化思想の影響が皆無とは言えないと思う。

詳しいことは避けるが、創世記 1章21節に
"神は仰せられた。「地は種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を種類にしたがって」とある。はじめから生き物は種類に従って造られており、進化はなく種は越えることができない壁である。従って牛肉や豚肉などの家畜は、神がヒトのためにあらかじめ造ってくださったもので、何の問題も無いのである。

進化論ではもっともらしく下等から高等へ系統樹を想定しているが、これは神が造られたものを分類しているだけに過ぎない。進化論によれば偶然の突然変異と適者生存によって、種類を超えサルからヒトへ進化を成し遂げていったはずだが、北京原人やジャワ原人は詐欺であったし、ネアンデルタール人は人類であった。中間種なんて言うものも、結局は絶滅した一つの種に過ぎない。もし本当に進化があるのなら、何千年も歴史かあって最高度に進化して来たはずの人類に、今に至っても何一つ進化が見られないこと自体、超おかしいのではないのか。(トルコで、教科書から消された絵)

要するに進化と言うのは、聖書の神を信じない人たちの、一つの信仰なのだ。だから、本当に聖書の神を信じるクリスチャンにとっては、たとえ99%の人が進化論を信じ、私たちを「おかしい」「異常」と言おうと動じない。進化論を受け入れて信仰を捨てたくないのだ。

言葉には力がある。こういう訳で私たちの教会では、神に反する毒された言葉を、可能な限り使わないように心がけている。進歩、改良、発展、そんな言葉を用いていきたい。





ケパ





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人生の卒業式?

2018年04月14日 | 信仰
今朝、ある街角を自転車で走っていて、こんな看板を目にした。「お葬式、それは人生の卒業式」だそうだ。

「う、う〜ん、ちょっと待てよ。卒業式は結構。けれども卒業した後、どこに就職するんだろうか」と。へそ曲がりかも知れないが、だいたい、学ぶのは卒業後のため、社会人として生きて行く力をつけるためである。でもこれでは、ただ卒業することだけが目的になっていない? 親のスネかじっただけで、それを何の役にも立てずハイ、サヨウナラ・・・・おかしくない?

日本人にとって、どうも死ぬことは終活と言う言葉があるように人生の終わりであるらしい。主に自分の目的追求だけで終わった人生とは、誰もがその先に真っ暗な闇があることだけはわかっているようで、恐ろしさの余り、何も考えたくも想像もしたくないようだ。キリストの神を信じない限り、確かにそれはまったく図星なのだ。

以前私が母の没後の親族の集まりで、姉の了解をとりつけた上で、伝道という押し付けがましいことではなく、考えてもらいたくて死後の世界の話を始めたことがある。親族を愛する余り、迷惑に思われても少しだけ聞いてもらいたかったのだが、たちまち「縁起でも無い話をする」「辛気くさい」「気が滅入る」と怒り出す年長者がいて、まともに話すことができなかった。

しかしこれまで死ななかった人はいないし、親を送り、次は自分たちの番だという冷徹な事実に目を背けて、どこまでも避け、逃げ、触れたくないらしい。それこそ「愚かなこと」だと私は思うのだが、日頃の私の証が足りないからでもあると反省した。

自分のことを一番にしか考えられない罪人であるからこそ、一切の罪の身代わりになってくださったキリストの十字架の愛に、心からより頼む。キリスト教は、世界最古にして人類に最大の影響を与え続けている教えである。誰もこれを軽視出来ないはずだ。
どうか一人でも多くの親族や、友人知人と一緒に天国に行きたい、その願いがますます強くされている。



ケパ




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死ぬ話題を避ける日本人

2018年04月05日 | 信仰
最近、テニスの試合の合間、老化の話題になった。話しの流れで、自分たちの親は皆逝ってしまっており、次は自分たちの番だと言うと、「そんなことはありませんよ。まだお若いし」と言われ、早々に話題を変えられてしまった。実はその先のことを私は言いたかったのだが、残念。

日本には『長寿かぞえ唄』があって、60歳(還暦)70歳(古希)77歳(喜寿)80歳(傘寿)の度に、あの世からお迎えに来たら何のかんのとへりくつを言って追い返せと言うものである。テニスコートでの話と言い、どうも死ぬことを恐れ、まともに考えようとせず逃げて避けまくっているのが、残念ながら私たち日本人の実情のようだ。

しかしこれは本当に愚かな話である。死なない人はいない。アダムが罪を犯して以来、生きとし生けるものは、必ず死ぬことが定めだ。塵で造られたのだから、塵(土)に還るのだ。死を恐れるのは、命に霊・魂があり、それが体がなくなっても永遠に存在することごわからないからだろう。

そこから先は宗教の世界ということになるのだろうが、真実は一つで、死後も「あるか、さもなくば、無い」のである。世界最大にして旧約の時代をも信じる最古の宗教キリスト教(これは何人も否定できない、事実である)では、霊や魂とは、フワフワしたボワーンとしたもの(幽体)ではなく、それは、キリストの再臨以降、御霊の体という実体を伴った体に変わる。食べたり飲んだりする、滅びない身体なのである。逆に天国でなかったら、苦痛を感じる永遠の世界となる。

クリスチャンにとって、天へ行ける死は御霊の体に変えられ、天の父に会える喜びの日である。ところが多くの日本人で死を避け、考えようとしない人、死を恐れる人は死後の世界において、自分の行く先である恐ろしい世界を暗示していると言える。ぜひ、必ず来る死を、よろこびで迎えられるよう福音を信じてほしい。クリスチャンの死に顔は笑顔であることは、よく知られていることだ。私たちは愛する同胞の救いのそのために、祈り続けている。

しかし、クリスチャンにであっても、死が恐ろしいと感じる人がいる。これは過程であって、簡単である。神の本当の姿、愛の神であることが、まだよく分かっていないだけなのだ。神を実際に知り、交われば目が開かれ、自分の罪がわかり、御心を行いたくなる。だから聖霊のバプテスマを受け、新生されるように切に祈り求めてもらいたい。その祈りは御心なので、必ず聞かれる祈りである。





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