「神に愛される秘訣」

神というのは、当たり前だけれども全地全能の造物主で、全てのことをご存知である(天の御座の周りに前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた:黙示録4章6・8節)。私たちは常にその天の神に報告され一切が知られている存在である。
長年小学校の教師をしていた私が、教師をしていて一番嬉しかったことは、教え子に問題があって、指導していた時の子ども態度だった。私から咎めを受けそうな子が、それまで嘘を言ったり取り繕っていて、どうにも隠しきれなくなって、突然「ごめんなさい」と反省し認め、悔い改めた瞬間である。それはすごく嬉しくて、思わずその子を抱きしめたくなったものである。
実は、天の神さまも同じではないかと思う。詩篇32でこんな箇所がある。
私は自分の罪をあなたに知らせ自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。「私の背きを主に告白しよう」と。するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。セラ
全てを知っておられる神に向かって、自分を守って偽りを言うほど愚かで、神をガッカリさせ悲しませることはないと私は思う。神からの愛を失うことほど、私たち人間にとって危険な状態は存在しない。逆に「お父さん、ごめんなさい赦してください」と本当のことを白状し、その懐に飛び込むことほど、神さまを喜ばせることはないはずだ。心からであれば、たとえどんなに罪を犯していようが、両手を上げて喜んでくださり、赦してくださり、愛してくださるのは絶対の請け合いだ。

「神に愛される秘訣」とは、善行を行なったり、無理して聞き従う真似をして頑張ることではない。そんなこと、見ておられる神さまもお疲れになる。良い子ぶっても、そこはお見通しなのである。神に愛されれば、述べたような神を受けて、もう本当の自分を見ることは怖くなくなる。その罪だらけの自分に愛想を尽かし、解放され、全ての希望と喜びを、ただ神の愛だけに見出すようになるのは時間の問題だ。そして聖霊のバプテスマを体験し、神さまと交わり、神を知れば知るほど神を愛するようになる。この恵みのサイクルにはまっていく素晴らしさ、その喜び。
その秘訣は極めて単純であり、幼児ですら分かることである。正直なこと。私は「自分の罪をあなたに知らせ、私の咎を隠しません」と神の愛をゲットする。このサイクルにはまると、もう罪を報告するのがサディスティクという訳ではなく、喜んでいつもするようになるのだから。
あなたの身の回りに、そんな理解不可能なサディスティックとすら思えるクリスチャンはいませんか。彼らに喜びがあるのを見ていませんか? 彼らは真のクリスチャンです。
ケパ