今週の水曜礼拝でのメッセージで、私の二十代前半、ようやく決心できた独身時代に、いつも自分に問うていた御言葉を紹介した。それが今も生々しい感慨が襲ってくるので、このブログでも紹介したい。
「しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。」マタイの福音書 10章33節
これは今はともかく、やがて来る迫害の時代に、例えばかつてのような〈踏絵〉にしろ、天皇陛下の〈御真影〉にせよ、信仰を問われて否むなら、はっきりアウトになると言うことだ。
だから私はいつも「お前は信仰のために、本当に命を捨てられる(つまり殉教できる)のか?」と自分に問うていた。信仰を途中で捨てるぐらいなら、はじめからそれは持たない方が良い、そう思っていた。
だから学生運動に挫折し、自分の愚かさを悔い、神様に降参するまでは、この御言葉に向かい合うことができずにいた。
こうして始まった福音派時代の私は、その後も解決が見出されず、どうしょうもないまま、最後は決まって祈りに導かれ、神に委ねる形で幕引きしていた。喉に刺さった小骨のように、消化不良は免れていなかった・・・。
イエス様に従っていた弟子たち皆が、特別に強烈に覚えていただろう特別な言葉がある。マタイ・マルコ・ルカのすべてにあり、イエス様に従っていた弟子たち皆が強烈に覚えていただろう特別な言葉だ。
「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。」(マルコの福音書 8章34~35節 ©2017)
この御言葉は、最初の若かりし私の自問と同じ類のもので、自分の十字架、肉のクリスチャンからいかに脱却するか、つまりはこの「自分に死ぬ」ことが自分にできるのか?と問うことなのだが、実はこれほど愚かな悩みはなかった。
確かに一見、純粋であり、真摯では、あったかもしれないが、あまりに人間的な捉えようであったのだ。
五十歳過ぎて家族が崩壊し、生きる希望を失った私に、哀れんでくださった神が触れてくださった。その瞬間から私は聖霊派、カリスマ派に俄然なった。神を知った私は新生という言葉そのもののように、人生観、人格、生きる目的などすべてが一変した。
そこまでの〈殉教できるのか〉〈自分に死ぬ〉そんな問いかけは三位一体の神にして、イエス様が十字架に架かってまで私たちに贈ろうとされた聖霊の力を、まるで知らなかったことに尽きる悩みだということ。しかしほとんどのクリスチャンが今でもそうなのではないのだろうか、そう心配する。
聖霊の注ぎと満たし、そのバプテスマを神のあわれみによって受けたなら、
「神にとって不可能なことは何もありません。」ルカの福音書 1章37節
が体感的に確信が持てる。だいたい救われること自体が自分の力ではなかった。継父とは言え、己が父の子なので、今さら父という事実を否できるはずがない。何よりもその愛に報いたいのだ。命に勝る神の愛なのだ。
ケパ