ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

どうして私はクリスチャンになったのか?

2019年10月31日 | 
「どうしてあなたがクリスチャンや牧師にになったのか?」
まったくの未信者さんと、キリスト教についてフランクに話し合う時、最後にはこんな質問をよく受ける。

それはもう、13歳で出会ったジッド作「狭き門」とか、高校時代の聖書祈祷会、学生運動の挫折とか、いろいろと話せば長くなる。


が、それは一言(ひとこと)でも言える。それは私が信じたのではなく、たぶん生まれる前から私は【神に召されていた】のだと。
恐れ多くも聖書の言葉を引用すれば、つぎのようなパウロの言葉になる。
神は"母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった"(ガラテヤ1:15)

◯どうして私は子どもの時、神仏それぞれに手を合わせて回る父に、それを「神は一人でしょ」と言って不審がって言い、驚かせたのだろう。(私は覚えていなかっまが、かなり後に父がそう述懐した)

◯どうして中学1年で「狭き門」を読んだ時、人の心の中に神が住まわれ働かれることに感動したのだろうか。そしてこの神こそ真実な神だと思ったのだろうか?

◯高校3年間、今はおかしくないが、どう見ても七、八十代数人の聖書研究会に、場違いな高校生が、よくも3年通ったものだ。

◯学生運動に挫折した夜、どうして雪空の星の規則正しい運行を見て、「ああ、神はおられる、放浪は終わりにして、あの教会の門を押そう」と思ったのか?


育った私の周囲20キロの半径内に、教会はなかった。親族にキリスト教のキの字も無かった。私は伝道されたことが一度もなかった。それでも霊的に言えば、子は自分に父がいることがわかるし、会えば父だと直感的に分かる。父を呼び求め、慕い求めるのは、それはその人が神によって造られ、召されているからであって、理屈ではない。

"神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。"(ローマ 8章28節)


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