ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

障害を持つ子どもたちと

2019年06月29日 | 使命
私は今、放課後等デイサービス(略して放ディ)に勤めている。そこは「知的障害、ADHDやLDなどの発達障害を含めた子どもたちの学校後の預かり施設と言える。学校ではないのである意味、気が楽だ。子どもたちは小集団の中の最低限のルールを守った上で、のびのびとした時間を過ごしている。
ここは家庭でも学校でもない中間的な施設で、子どもたちにとってホッとするを目指している。そこで私は主に小学生の子どもたちと遊び、膝の上に飛び込んでくる子どもたちと、疲れを感じる間なく楽しんでいる。年齢的には孫に近いが、感覚的には子に近い。30分の学習の時間やソーシャルスキル学習の時間は、何となく昔の教師らしくなるが、それ以外は子どもと遊んでいるか、または子どもたちを送迎する車をいつも走らせている。(写真は他の放課後デイで公開さるているもの。だいたいこんな感じ)
施設でいつも思うことだが、子どもたちの障害は子どもの性格と兼ねあって皆違う。A君に通じたことがB君にはできない。一人一人がスペシャルな存在で、教師時代の枠にはめなければ進められなかった画一的な集団指導とは全く異なる。その中で神はどのような御心があって、この子たちをおつくりになったのであろうかといつも思う。一人一人が皆異なることを強く思わされるからこそ、そう思う。
 
本当に愛する子どもたちなのだが、時にわがままを言ったり駄々をこねたり、奇声を上げているのに他の子どもの奇声は極端に嫌がる。集団的な一斉行動は難しい面があっても、実は互いの行動にかなり影響を与えあっているのが面白いし興味をそそられる。子どもなのに人間味が豊かに見えることも驚きだ。
ある意味それは逆に、健常児では当たり前のちゃんとできるべきことが、少しでもできていることを見つけるならば、そのことに感動を覚えることにもなる。かつて教師をしていた時は、出来ることに目を向けず、出来た結果だけを問題にしていたことを思い知る。
 
それに感動を覚え「おおっ、すごいじゃないか」と感動する。出来て当たり前の規格品作りの世界から、百八十度の転換である。 この子たちは確かに言葉をうまく使ったり、嘘をつくことはバレバレの下手だ。しかし、本当の姿と少しの、それこそ天にも昇る喜びで見ることができる。
 
たとえ言葉をほとんど発せられない子であっても実際上は問題はない。しばらくすれば、目と表情や動作でコミュニケーションの不自由さを感じなくなるのが不思議だ。私はそれで子どもたちの内面を知ったり、「手伝って!」と必要にされるのが楽しくてしょうがない。
でもふっと時に思う。何だか以前担任していた子どもたちに申し訳ない気持ちさえ湧いてくる。こんな風に見てあげたことが無かった、ほめたことがなかったと。
 
「御心は何だろうか?」と。
例えばAくん。言葉はできないけれども、実は運動神経抜群である。人なつっこくて、目と目で会話できる。しかし言葉ほど発することは、今のところ見られない。しかしながら、私は確かにAくんの知性をかなり感じる。
そしてこの子を抱きながら「この子の御心は何だろうか」と祈りながら思う。もしかしてこの子への見方は、家庭とか学校に行けば、かなり違うかも知れない。あるいはもう少し時が必要なのかもしれない。しかし欠け替えのない、大きな存在感を感じている。神様がAくんを造られた意図は大きく、それが分かることを心から楽しみにしている。
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