西郷隆盛公と僧月照(京都清水寺の勤皇僧)は、王政復古を志し、新撰組や幕府の追っ手を逃れこの即宗院の採薪亭で幕府転覆の策をめぐらした。西郷隆盛公はその後の苦難を乗り越え、鳥羽伏見の戦い(慶応5年)から勝ち進み勝利を手中にした。戦いの戦死者524霊を弔うためこの即宗院で斎戒沐浴し碑文を書きしたため、明治2年に「東征戦亡の碑」を建立した。また、篤姫が、近衛家の養女となって徳川家へのお興しいれの際、この即宗院に立ち寄ったと言われている


墓への道









東征戦亡の碑の前に524霊の名が刻まれた石碑が立つ。また生麦事件の奈良原喜左衛門、幕末の人斬り新兵衛こと田中新兵衛の墓碑がある








