SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

生きた音たちを作品にパッキング

2024-11-22 11:41:00 | Concert Memories-コンサート旅行記
All photos credit by Rémy Dugoua

ボルドー市に2つある、大きな国立現代美術館のうちの一つ、MECA美術館にて、アーティストのシャルリー・オブリーCharlie Aubryがアイデアを生み出した「思い出のシンフォニー」の柿落としがあった。




ヴェルニサージュ(初日)には何とボルドーを中心としたフランス南西部アキテーヌ地方全土から1000人もの人が訪れ、翌日のコンサートもかなりの人たちに興味を持って頂き集まっていただいた。




音楽界から飛び出して老人たちや美術の人たちと過ごす時間。クリエーションのことで頭をいっぱいにしていられる、得難い時間だった。



私の衣装は、日頃からいつも衣装を担当していただいている、素晴らしい服飾アーティストの安藤福子さんFukuko Ando作。


ざっとこのプロジェクトの概要を説明すると、まずシャルリーの依頼通り、9月にボルドーのある老人ホームを訪れて、そこの老人たちに空の五線譜を渡し、自分の思い出を、思い思いに自由に絵に描いてもらった。




私はその絵一枚一枚に対してフルートで即興演奏した。(その時の様子はシャルリーがビデオ撮影し、編集して作品の中心の画面に流されることとなる)




その後、アマチュアの地元の吹奏楽団から来た4人の有志を紹介される。次はその人たちと一緒に展示の初日のコンサートで演奏するための楽譜が必要になる。先述の即興の録音と老人たちのコメントを基に、エレメントやアイデアを抽出して構成を練り、それを楽譜に落とす。しかし読譜力があまりなく、しかも即興をやったことのないミュージシャンにたった数回のリハで共感してもらい、最大の演奏を引き出さなければならないので、自分のやりたいことをただそのまま書けばいい訳ではない。



それには、色んなレベル、色んな楽器をまとめてきた即興アトリエでの18年の経験が、とても役に立った。





シャルリーの考え方で私が好きなところは、何層にも重なる全く違った次元の人間交流から音が産まれてくることだ。


そこでは音楽は「コミュニケーションツール」となるので、「さて何をアイデアに作曲しよう」、「上手く書かねば、、、」などという煩悩を避けて、直接音楽にアクセス出来るのだ。(あくまで私の場合は、だけど)


その音には必然的にこの世界の「陰影」のような美しさが織り込まれていると思う。


そんなニュアンスに富んだ生きた音たちを、作品にパッキングして美術館に展示するとは、なんと素晴らしいアイディアだろう!





人間同士のシェアって、なんて奥深いんだろう、人と人との繋がり、そしてそれこそが生きる意味、創造性を呼び起こすエネルギーなんだよな、と改めて思わせてくれるのがシャルリーのアート。


それは最近流行の「ジャンルを超え混ぜ合わせましょう」、「社会的階級を無くしみんなで仲良くしましょう」みたいな表面的な政治文句から来るのでなく、彼の源泉から湧き出ているから本物だ。彼は芯から他者のことを理解する力を持っているし、本当に優しい、大きな現代版トトロのようだ。


古い考え方の人は「若いから流行に乗ってるだけ」「最近の人は、こんなものが美術作品だと思っているのか」という人たちもいるし、音楽界では、未だ「音符をきちんと全部書かないなんて、作曲じゃない」などと、即興自体を否定する考え方が主流だ。


しかし私は、流れに乗っている人と流れに逆らって来た人が出会い、開けたこの新しい道を行きたいと思う。





そうやって思っているところに、2年前から一緒にグループで演奏しているドラマー、エッジ・タフィアルを9月新学年から即興アトリエの共同常任教授として迎えたことで、__学長に頼み込んで彼をわざわざ雇ってもらったのだ__ 思った通りに、というか、思った以上に、クリエイティブな方向にアトリエの舵を切ってくれている。


「あんたが授業で今日言ってたことって、この本に書いてることだよね?」と最近読んでいるパウル・クレーの「造形思考」のあるページをエッジに見せると、「まさしくそうだね。カンディンスキーの「点と線から面へ」を読んだことは?あれも素晴らしいよ。」


なーんていう回答が返ってくる事は、私の知る限りパリの音楽の世界ではまずないと言っていい。


即興アトリエはここに来て「バウハウス」みたいになって来た!


自分が心の中で思っていることって、ある時現れ始めると、鉱脈を掘り当てたように連動して実現してしまうものなのだ。


名誉なことにシャルリー・オブリー、ミエ・オグラ連名展示となった「思い出のシンフォニー」、ボルドー鉄道駅すぐそばのMECA美術館に、5月末まで展示されています。






新しい時代が新しいフルートと共にやってくる

2024-10-05 20:30:00 | Essay-コラム

新しいフルートを借りて、前のフルートを売り、まだ正式に買ってないにも関わらず、もう何回もコンサートをしたのだけれど、この前9月の初頭にボルドーで完全即興をした時、やっとこの新しいフルートを「扱う」のでなく、自分の言葉として語れる自信ができたのだと思う。


段階としては、今年1月に初めてオーケストラと共演で演奏した時の、この新しい楽器との初体験の無敵な熱狂、そして初めて相方アタナスのギターとギリシャでデュオ演奏した時に、これまでのフルートの吹き方で吹いてしまってコントロールを完全に失った失望、そしてその経験を踏まえ6月にパリでまたデュオ演奏をした時の、成功と失敗の入り混じった複雑な感じ。(思えば全部2024年から始まった)


そのコンサートは地元だったので、多くの知人友人が聞きに来てくれた訳だが、殆どの人はフルートが変わっていてもっと良くなっていたとか、何か違う、とかそういう感想は特に持たないようで、「へえ、楽器変えたんだ。分かんないけどいつものように素晴らしかったよ!」との感想を頂いた。


「これってめちゃくちゃ高い買い物なのにさ、楽器を買い替えるのってって一体意味があるのか知らんね。」と冗談混じりに親しい友人Fに話すと、スピリチュアルな彼はすぐに


「けれどね、音ってエネルギーだろう。キミが感じている違いは、聴いている人たちは実はエネルギーとして受け取っているんだ。実際に耳に「聴こえて」いないとしてもだ。それはこれまでとは違うもっと上がったエネルギーとして、絶対に聴衆は身体で吸収しているんだよ。だからそれによって世界は変わるんだ。」


こんなことを言える友人を持っているのは、本当に幸せだとしか言いようがない。


その彼の言うことを信じてやってきて、今回やっと、冒頭に書いたように、ボルドーでこのフルートがついに体に馴染み、何も考えずに迷いなく、普通に吹ける次元に達することが出来たと思う。


やっと自分自身が、このフルートに見合うところまで来られて、ついにスタートラインに立てたのだ。


このコンサートが「即興」という、自分の内部から出てくるものをそのまま音にする、という行為だったからこそ、楽器と一体になれる絶好の機会だったのかも知れないが、その時はっきりと、自分の感じていることがぴったりと聴いている人にそのまんま直に、どのような障壁もなく伝わっている___以前のように多大な努力をしているという感覚抜きで__ということがじわじわと感じられて、この日の経験はこれまでの人生で一度も感じたことのない、極上の経験となった。


まるで自分が透明になったようで、「てらいの無い」とはどういうことか、この日演奏を分かち合った老人たち全員が教えてくれたのだと思う。


そして「衒いのない演奏」という次元は、この楽器抜きでは不可能だった。


この日、ボルドーでの「思い出交響曲」第二弾プロジェクトとして老人ホームの居住者たちの絵に対してした即興演奏は全部録画されていて、アーチストのシャルリー・オブリーが編集してドキュメンタリーとしてフランスでテレビ放映(?!)されることになるらしい。


私としては、そんなこと事前に知らされていたらきっと意識してしまってナチュラルな演奏は出来ていないと思うので、後で知らされて、びっくりはしたけれど、本当によい記録動画が出来て来るのではないかと思う。


この即興は、どのように評価されようが、今の私そのものだからだ。


そしてさらにすごいことには、相方アタナスの楽器を作っているギター製作者のドイツのアンドレアス・キルシュナーから電話があり、「人生で最高の楽器が出来た、ぜひ弾いてほしいからパリに持っていく」という電話があり、待ちに待ったそのギターをアタナスが弾いた瞬間。


「なんと素晴らしい!私の新しいフルートとおんなじ音ですがな!!」


もうびっくりである。音のコンセプトが私の新しいフルートと似すぎている。


こういうのはもう、偶然ではないですね。

きっとウルクズノフ・デュオにも新境地が訪れる!


そのアタナスは今、そのギターを持って、初共演となるブルガリアの大カヴァル奏者、テオドシ・スパソフとのコンサートのためにスイスに出掛けています。



アタナスが初めてフルートとギターのために書いた「ソナチネ」は、そのテオドシ・スパソフに捧げられているし、その昔私がこの曲をコンサートで演奏したときに、作曲者のアタナスがたまたま来ていて出会った、(しかもそのコンサートのあった教会の病院で私たちの娘がその後産まれた) という曰く付き。


そのテオドシ・スパソフに今夜、アタナスがスイスでついに対面を果たしました。明日スイスでのコンサートツアー初日。


人生とは小説のように奇なり。私自身も続きが楽しみでなりません。



ボルドーで「思い出の交響曲No2 」

2024-09-12 18:47:00 | Essay-コラム

アーティストのシャルリー・オブリーという人は、私のイメージでは空高く舞い上がってさーっと降りてきて獲物を捕まえる大きく自由な鷲のようで、空を飛び回ってはアートの元になる材料をぱっと見つける。


「思い出の交響曲」と名付けられたこのプロジェクトでは、彼は眼を付けた老人ホームにさっと舞い降りる。彼の欲しいものは老人たちの「記憶」だ。

その「記憶」を老人たちが視覚的に掘り起こし、それを私が即興的に音に変換する。その音や色や形やの全てを、彼が今度は美術作品に変換していく。


この度「思い出の交響曲」第二番がボルドーでスタートした。


1回目のパリも素晴らしい体験だったが、第2回ここボルドーの老人ホームでは、何とも覚醒したとんでもない老人たちと出会うこととなった。


驚いたことにここの人たちは全員非常にオープンで、シャルリーのやりたいことを理解しようとし、その為には人生で培った知恵を駆使してどんな垣根だって取り払おうとしてくれるのだ。


そんなJugement(判定?)prétention (気負い?)の全くないピュアな感性のみに囲まれて、即興演奏をするのにこれほど理想的なシチュエーションはこれまでになかったと断言できる。



絵を見ながら即興中



1回目のセッションでは、「人生の原風景」とも言える光景を二人のおばあちゃんが描いてくれた。


一人は草原に寝っ転がって、気持ち良い風が吹いていて、雲が動物などの色んな形に変わっていくというもの。


もう一人は港でバナナやタンクが荷積みされているのを柵のこっち側から見ている、という光景。「タンクは縦ではなく横の方向に積まれているのよ」などという詳細付きで。こういうのはその人の核となっている人生の原風景なのだろう。


私がその絵に対して即興すると、


「あなた途中ちょっと音程から外れたような奇妙な音を吹いたでしょう。あの音こそ、私の記憶そのものの音だったのよ。その時私は涙が出そうになった」のだそうだ。


確かリゲティーは、「色んな種類の時計が倉庫の中で、色んな時を刻んでいる」風景が彼の作品の原風景となったと言っていたっけ。


そんな事をふと思い出した。


絵を描くのが大好きで、家で展示会まで行うというおばあちゃんは耳が遠く殆ど聞こえないのだが、その木のデッサンの筆の細かさは驚くべきで、木の葉の動きを忠実に繊細な通常の目線では見えないほど細かい線で表現し、小さく太陽の光が一箇所だけオレンジ色で入っているのが、まるで臥龍点睛みたいに完璧なバランスだ。


そのおばあちゃんは「超意識の中で、絵を音に置き換える、それがあなたのやっていることなのね」と真っ直ぐに私を見つめて言う。


彼女はどんなプロのアーチストよりアーチストである。




もう一人の80歳という頭脳明晰なおばあちゃんは、躊躇いがちなタッチでやはり「木」をデッサンし、「私たちにに発明できることなんて何もないのよ。私たちはただ自然に生かされているのよ。音楽も、芸術も、それを表現するためにあるのよ」と言う。あれ、これって最近一番私が考えていることなんだよね、あまりの一致に心を掴まれるようだ。生きれば生きるほどこの真理に近づけるのか知らん、そうだといいのだけれど。


その時、最初からずっと黙って聴いていたおじいちゃんがぽつぽつ隣のおばあちゃんに話し始めたので、その人の前に行って意識を集中させる。どうやら彼の息子さんの職業は船乗りで、彼の意識と息子さんの意識は柔らかい泥のように彼意識下で混ざり合い、__そうなるともう共通意識となって、もう自分と他人の間の壁がないのだ__、マルセイユからアルジェリアに行くには昔は24時間かかった、でも今はもっと速く行ける、今は何をするにも全部速くなった、でも速すぎて何も感じることが出来ない」、要約すると彼の人生では時間の観念の変容が大きなテーマであるようだった。


彼のデッサンを見ると、柔らかい泥の中から記憶の線を拾い出すように、色んな形状の線が絡み合ったり、また失われたり震えたり、まるで色んな線が感情を持っておじいちゃんの人生の記憶を紐解いているように見える。


話を上手く引き出して聞いてあげていた隣のおばあちゃんによると、この寡黙なおじいちゃんが心を開いて話したのは、今日が初めてなのだそうだ。


その隣の心優しいおばあちゃんはスパイラル状の絵を描いて、「人生は何もないところからこういうふうに出てきてね、その後はスパイラルのように上がっていくのよ」と説明してくれた。


「スパイラル」は私の人生のキーワードなので、あまりの一致にまたびっくり。その絵の印象に私の曲「スパイラル・メロディー」も交えた即興となった。今日は起こること、彼らの言動、何から何までがすごすぎる。


翌日のセッションでは、「これまで読んできた本の言葉が、音楽を通して本から飛び出して音になって空間に溢れていく」というアイデアのデッサンが早速出来上がってきた。このおばあちゃんによると、昨日の私の即興演奏からこの絵のイメージが生まれたのだと言う。


この後は「星の王子様」を彷彿とさせるデッサンを描き、「これを音楽に出来る?読んだことはあるわよね?」と、挑戦的でイタズラ心に溢れた視線を送ってくるおばあちゃんも現れた。


「思い出」、「原風景」から出発したセッションも、2日目にはおばあちゃん達と一緒に「イタズラなアートを企む」ところまで仲良くなってしまったのだ。


「イタズラなアート」、それこそシャルリーのアートという気がする。




最後には、この老人ホームにいることが楽しくて楽しくて、これまでに60もの国籍の人と出会ったのが嬉しくて堪らない、という、キラキラした目で楽しい絵をたくさん描いてくれたおばあちゃんが、「あなたの演奏は、ここでセッションしている人だけでなく、絶対老人ホームの全員に聴かせてあげなくっちゃね」と言って、施設の食堂やらチャペルやら色んなところに連れて行って紹介してくれたのだった。まさにみんなの「世話係」の暖ったかいおばあちゃん。


帰りのTGVの時間が迫ってきたので、結局食堂で演奏することなくお別れになってしまったけれど、次回は10月、先日の即興演奏を元にこれから私が楽譜を書き、なんと地元ボルドーの吹奏楽団がその楽譜を基にした即興演奏に加わることになる。


そして11月にはボルドー近代美術館MECAにて、老人ホームの人たちの絵を取り入れたシャルリー・オブリーの作品展示と同時に吹奏楽団と即興コンサートをする予定。



ボルドーのギャロンヌ川沿いのMECA美術



「思い出」をキーワードに何層にも音や色を重ねるシャルリー・オブリー監督の生きた作品。最終的にどんな音が出てくるのか?!それはまだ誰にも分からない。先日の録音が届いたらどんな楽譜を書こうかと、今からワクワクしてしまう。続!



ボルドーにてシャルリー・オブリーと。



異次元の取水堰〜フランス、ブルガリア、そしてアフガニスタンの中村哲さん

2024-08-27 19:57:00 | Essay-コラム

ブルガリアの伝統音楽の偉大なアコーディオン奏者ペーター・ラルチェフさんと知り合い、彼と一緒に夫のアタナスのギターを加えて演奏していく中でこれを日本に伝えたい、と思って、その情熱があったからものすごく苦闘して書類を送って、2020年に難関の大阪万博の助成金まで取得したのだった。


でも時はコロナショックの真っ最中。日本という国は良くも悪くも新種の脅威に対してものすごく注意深く疑心暗鬼なところがあるので、待っても待っても、他の国が全部国境を開いた後でも何年も国境を開かず、結局念願だった日本ツアーは実現出来ず。(東京オリンピック以外は、ということだけれど。カネと権力さえあれば国境は開くのだ)


それで結局ブルガリアからの中継コンサートと特別CD制作いう形で何とか助成を遂行させてさせて頂いたのだが、その1年後、ペーター・ラルチェフの本拠地、ブルガリアのプロヴディフで演奏した際にまたもや問題が持ち上がる。


彼の取り巻きが、私と一緒に演奏することにストップを掛けたのだった。ブルガリアでは神のように崇められた存在で、そんな人と日本人でしかも女性が一緒にステージに乗ってしかも同等に即興で演奏するなんて、それまで考えてもみなかったことなのだけれど、閉鎖的なブルガリア伝統音楽界ではとてもショッキングで許されることではなかった。


ラルチェフ自身はそういう人ではなくいつも自分の音楽の地平を外に押し広げようとしていたし、パリ郊外のアントニーのフェスティバルで初めて彼に出会って一曲演奏した時、一緒にこれからも演奏して行こう、と提案したのはもちろん彼の方であった。(私にそんなこと持ち出せる訳がない、私だって神様だと思っているのだから)


幻のCDのみを残してこのトリオを修了して以来(終了ではなく修了と言いたい)、私に伝えていけることは何か。

やっぱり私はラルチェフの持つ、あのフィーリングしかない思うのだ。

ではそのフィーリングとは何か。

ラルチェフはその音楽の一つの頂点であるが、それらの頂点を形作るブルガリアの肥沃な音楽の可能性、ひいては今の西洋諸国にない、その土地と直に繋がった音楽。ただ「我々の音楽」とはっきり感じる音楽。


我々の音楽、そう呼べるものものはフランスには永遠の昔からもう無い。もちろんクープランやドビュッシー、ビゼーの素晴らしい作品を我々の音楽と呼んだって差し支えない訳だけど、それらは遺産であり、国民全員が日常的に聴いたり演奏するような、生きて呼吸している音楽とはまた意味が違う。私はフランス植民地だったカリブのアンティーユ諸島・マルティニーク島のマックス・シラの音楽を聴いて、それが呼吸し続けなければいけないということがすぐに理解できた。(出会ってから3年でオーケストラバージョンにまで編曲して初演することに成功した、そこに私の自作曲も足して日本とアンティーユの「二文化の出会い」とした) そして、そのプロジェクトはこれで終わらずに続けていくことが課題である。


ペーター・ラルチェフを日本に伝えることには失敗した。それを阻んだのは、私やアタナスあるいはペーターさん自身も求めた西側的な音楽に対するオープンな考え方と、神聖なブルガリア土着文化の間の大きな壁だったと言える。


我々の音楽、そしてその神聖さとは何か。マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーン、ローランド・カークはアフリカ/アメリカという出自から湧き上がる創造性を「我々の音楽」と呼んだ。


今日のジャズフェスティバルで、そういう音に出会えることはほぼない。(20年前にはまだ本物のオリジナリティーやエネルギーが多くのグループにあったと思うのだけれど)そこにあるのは聴衆に擦り寄った態度、自分に酔った大袈裟な表情、今流行のコンセプトの羅列、ちっぽけな音楽に釣り合わない派手な舞台演出、、、


話は変わるが、ここ最近どうもアフガニスタンという国に惹かれるので(数日前は美容院に行った時にアフガニスタンでのピルの入手困難、妊産婦の死亡率のついての雑誌の記事を読んだ)、ネットを辿っていくと、3年前にアフガニスタンで糾弾に倒れた中村哲医師の中村哲医師特別サイト-西日本新聞に出会った。

(遅ればせながら、こんな素晴らしい文章が無料で掲載されているなんて!ぜひ出来る限り多くの人に読んでもらえれば。)


アフガニスタン東部の死の砂漠と呼ばれている地域に、なんと用水路を作って緑と命を蘇らせたという、この偉大な人物の書いていることはいちいち納得するも通り越して心にズドンと響くものばかりだ。


砂漠と木一本生えない険しい山岳地、インダス川の荒れ狂う支流という壮大な光景をバックに、西側諸国の「アフガン復興」という言葉を振り翳した西側の軍事介入の兵士たちが「人為の思考の中で敵を作り、人為の政治に振り回され、人為の手段で殺し殺される空虚な姿」で銃を持って徘徊するのに対し、砂漠に生き一緒に用水路を作っている現地人たちは「厳しい自然の恩恵によって特別に生かされていることを知っている、大地に根ざした姿」をしていると、真理に溢れた表現で対比している。


彼は世界一難しい場所で、彼にしかできない方法での「平和」を体現してみせた。

彼にとって「平和」とは言葉、スローガン、カネ、ましてや血を流す争いではなく、そこに生きる人たちを心から理解し、一緒にただただ自然の摂理の前に首を垂れ、緑と生命を取り戻すことだったのだ。


まさにそれ、ブルガリアの伝統音楽は大地の生命に根ざしていて、滔々と流れる川の水のような音楽を紡ぎ出すラルチェフさんをブルガリアからとり出して根無草にすることは出来ない、たとえ本人が望んだとしてもだ。


そして先述の最近聴いたあのフランスのジャズフェスティバルに溢れていた「新しいジャズ」という言葉を振り翳した空虚な音は、人為的で、エゴに溢れていて、自然への畏敬から切り離されていた。


一緒に演奏することももうないであろうペーター・ラルチェフのその音は、今も異次元の取水堰を通って、これから自力で体現していくべきブルガリア音楽ではない「我々の音楽」を、このフランスの地で、ここの人たちと一緒に中村哲さんの用水路の如く育み、緑溢れる生命を音楽に取り戻すために私の耳に聴こえ続けている。


ブルガリアで「上を向いて歩こう」そしてパリオリンピック開会式

2024-07-28 09:24:00 | Essay-コラム

最高に元気のいいトマトたち。


現在ブルガリアに滞在して、地方都市プレヴェンのサマーギターアカデミーで即興アトリエをやらせていただいています。




夏にブルガリアの家族を訪れる際、数年前からアタナスがこのギター講習会にいつも先生として招かれていたのだけれど、私がいっつもヒマそうにビールばっかり飲んでいるので、私も教えられるようにと、去年からオーガナイザーの親愛なるニキが即興アトリエを開講してくれた。


今年は5月にパリの即興アトリエでやった「上を向いて歩こう」のサルサバージョンを7拍子のブルガリアバージョンに編曲し直して臨んだ。ブルガリア音楽大好きな私は、歌までブルガリア語に訳して7拍子に落とし込む、という凝りよう!(親友のブルガリア人シンガー、コツェさんが歌ってくれました。)するとパリだと難しい7拍子をなんと、小さい生徒たちまでたったの3日でちゃんとノリノリで即興出来るようになるという快挙!!

何を隠そう、ブルガリアにはそういう風になる秘密がある。



コツェさんとギターの生徒達と共演。聴衆までなんと7拍子で正確な手拍子!

ブルガリアにはなんと、民族音楽ばっかりぶっ続けで一日中放映する曲が3局もあるのだ!

それを私はホテルの部屋でつけっぱなしにしているのだけど、無数にある無名の小さな町に、村に伝統音楽のバンドがあって、伝統に根ざした、しかもオリジナリティーを競う曲を日々作曲したりアレンジしたりしてこの局で発表している。この国では、伝統が1日単位で更新されているのである。




楽譜も読めないであろう無名のミュージシャンたちの演奏のレベルの高さと言ったら、それはもう驚愕すべきで、シンコペーションやヘミオレだらけの最高に難易度の高い変拍子曲を、即興を交えてサラリと汗ひとつかかずに脅威のテクニックで演奏するのには、もう笑ってしまうほど。フランスの現代社会では永遠の昔に無くしてしまった価値が、そんなにも遠く離れていないヨーロッパの隅っこのバルカン山脈に寄り添いひっそりと生息しているのだ。バルトークがわざわざ採譜に行った国だということも納得できる。






最終日、「上を向いて歩こう(スキヤキ)」ブルガリアンバージョン世界初演()の日は、パリオリンピックの開会式と重なったので、打ち上げの時ホテルのオーナーさんがレストランで生中継をかけてくれた。




そこでは毎日4回は自転車で渡るセーヌ川の見慣れた景色をバックに、マリーアントワネットの斬られた首がメタルバンドの伴奏で歌い、ギャルド(フランス自衛隊)がマリ(アフリカ)のグループと交わり共演し、ラヴェルやドビュッシー、現在の音楽、様々なジャンルのダンスが繰り広げられ、歴史的に男性中心だった国民議会前に黄金色の10人の歴史的女性像がにゅっと続々登場、フランスを誇らしく象徴しながらもフランス人以外の世界的歌手をクライマックスに置いて、国粋主義にも偏らない。



マリのアヤ・ナカムラとギャルド共演の場面は曲線と直線の出会いが最高に美しく、とても印象に残った。



画面上に白人、黒人、女性、男性、性的マイノリティが何人いるのかに常に気を配り、全ての存在しうる芸術ジャンルを尊重しスポットを当てようとしたのは圧巻。そこではアンサンブル・アンテルコンタンポランも現代作品を演奏した。


マリーアントワネットの首が象徴するフランス革命から新たに産まれた多様性の国、毅然と国家の危機を排除しながらも、分かりやすいものを大衆にすり寄って選出するというやり方を斥け、パリという街自体をパレットに怖いものなしで多様性を表現したのはさすが!現代のアートの在り方をスポーツの祭典の場で提示したのは素晴らしいこと。




普段パリでは「女性50%男性50%」という政策を音楽院の課題曲選曲にも押し付けられるわ、「女性の作曲家」のみ課題曲を書けるという国際コンクールや、アラブ人や黒人を選抜に入れるのが必須とかいうコンクールの選抜方法に、「芸術は上から目線の頭数と違うで!」と反発せずにはいられないのだけれど、ブルガリアという、黒人や女性にまだまだ視線の厳しい地から客観的に自分の街を見ると、介入する方が差別を野放しにするよりはまだましかもと思えてくる。


事実ブルガリアでは、この開会式の国歌の場面で「何故黒人に国歌を歌わせるんだ」と言う人がいる。


私自身、東洋人でしかも女性でブルガリア音楽をやっている、ということで一度だが差別を受けたことがある。


これは、東京オリンピックの時アフリカ人の日本の伝統音楽演奏家が開会式での演奏を拒否された差別と酷似している。


伝統文化が稀有で素晴らしい国ほど、残念ながら差別意識が根強くなる傾向は否めない。けどこのグローバルな現代社会ではそのような意識が自らの首を絞め、国の人口減少と共に稀有な文化が消滅してしまうのも時間の問題だろう。




大切な文化を守りたいなら、これからは閉じるのでなく、肌の色、血筋の関係なく開いていくことが大切ではないのか。


いつもはスポーツを利用した政治的営利行為としてのオリンピックに辟易している私だけど、今回の開会式については、グローバル世界への美しい可能性を示したパリへ、私は大きな拍手を送りたいと思う。