SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

超えるためのもの (珍しくフルートについて)

2021-01-19 09:30:00 | Essay-コラム

先日の木ノ脇道元さんのブログに「フルートらしい陰り」という言葉があって、そんなこと考えたこともなかった、けどなるほど、道元さんのフルートの演奏からは、力のある音に寄りそってそういう陰りが聴こえるなあ、と思った。

そしてそれは、確かに道元さん以外のどのフルート奏者からも聴きとれないものである。


やはりその人が求めている音とは、演奏に出る。

しかし、私の場合はと言うと__コンサートという近距離の目標がないので、こんな考えたこともない事を考える暇がある__「音楽に」自分の欲する音を求める、と思っていても、「フルートに」というイメージが異様に乏しいことに思い当たる。


学生時代からフルートについて長々と語る級友に辟易していたし、はっきり言ってフルート自体には特に興味がない。



ずーっとナゾだったのだけど、では一体私が「フルート」に求めているのはなんたるや?


もちろん田舎出身なので他の楽器と比べる余地もなく、初めて見てあれがやりたい!と直感で始めたのだけど、私は楽器それ自体を好きだと思ったことが一度もないし、それで実際何度か楽器を変えた方が良いのかと思ったことさえある。


身体的にも特に向いていると思えないし、フルートの音、というのはどちらかというと落ち着かないし、好み的には高音すぎる。


唯一いわゆる「フルート」の性質に自分が合っていると思うのは、「ソリスト気質」な所ぐらいである。(私が「伴奏」に回ると非常にうるさく、目障りである。)


楽器的に一番好みなのはドラムスで、リズムと多重感が好きなのだから当然はまって、30歳すぎてから本気でやり始めた。


前にも書いたと思うけど、パリ音楽院で唯一好きだったインド音楽のクラスのいた時、シタールのムタル先生に、そういうところを見抜かれたのか「なんでお前はここで今フルートやってるんだ?!今すぐ隣の部屋へ行け!」と言われて行ったらそこはドラムスのクラスで、(先生はダニエル・ユメールだった。めちゃ贅沢ですね)、「おい、そこの寿司!(日本人で名前も知らないからこう呼ばれた笑)お前このリフやってみろ」とか、そのままレッスンに突入してたんだから、本当にいい時代だったと思う。


何かにつけてそういう感じだったから、たまたま「教える」仕事にたどり着いたのは、本当に幸運だった。


自分の意思に反して「フルート」ということに限定して教えざるを得なかったことで、フワフワとすぐに360度色んなベクトルに向く自分の興味を、錨をつけるようにちゃんと一つの楽器に繋いで置くことが出来た。


一つのきちんと定まったものがないと、逆に今みたいに色んな音楽を演奏することは不可能だったと思う。


時々フルートを修理に出すとき、「数日間ないと困るでしょ?代わりのフルート貸そうか?」って修理の人に親切に言われても「いや、いいです、無くても全然平気」って言っているくせに、いざレッスンで生徒が吹いてるとき「いやそうじゃなくて」っていつものように吹いて見せようとして、教室中フルートを探し回った挙句「あ!修理中だった」と思いつく始末。そして、自分の思うことはフルートなしでは残念ながら全く伝わらないし、なにも表現出来ない。いつの間にか、「呼気を乗せられる器官」としてのフルートが自分の体の延長線上になってしまっていたらしい。


それから、鍵盤。これがないと、落ち着かない。ピアノのない部屋でレッスンしたり練習したりするのは、どうも息が詰まる。3歳の時から始めたピアノ、これが私の音楽的理解の源であり、フルートみたいにきちんとやって突き詰めて来てないので、テクニック的に出来ることは限定されているけれど、時に「限定されている」からこそ出てくるものがあるので、作曲、即興の時にはフルート以上に必要不可欠なものとなる。


で、「フルート」って結局のところ私にとって何なのか?というと、「超えなければならないもの」という言い方が一番近いのではないかと思う。


前にエレガントな素晴らしいフランス製のフルートを試奏した時、相方が「なんか、凄く良い楽器で、巧く吹けてる。でも乗り越えて表現しているっていうあのあんたの独特の感じがなくなっちゃうんだよな」というような事を言っていたっけ。


と言うことで、楽器は昔から持ってる銀濃度の高く繊細なメカニスムが手に馴染んだマテキ、アタマは、どんな外国語の発音もジェネラスにまた有機的に受け止めてくれるフォリジの18k


その昔、そのフルートに対する不均衡な感情に耐えきれなくて、よく失敗していた。


今だって、その不均衡さを忘れて没頭出来るのが唯一、即興をしている時だ、と言っても過言ではないかも知れない。


しかし、逆に言うと苦しんでも一つの楽器を突き詰めたところにしか、没頭は有り得なかったのかも知れない。


ドラムスみたいに絵に描いたような「好み」ではないし、鍵盤みたいな「我が原風景」でもない。それは脆くて、表現しようとした事が痒いところに手の届かない様に出来なくて、金属の棒っきれみたいに単純なくせに精巧で、自分の呼吸器官の割には真っ直ぐで冷た過ぎる。常に矛盾していて、掴み所がなくて、ちょっとでもバランスを崩したことに気付かずにいると表現力がいつの間にか目減りしている。自転車のタイヤ程の持久力しかなく、欲求不満気味で心許ない楽器。でも、超えたい、何とかそれを超えて違うものが欲しい、ともがくことが、私のフルートの吹き方なのかも知れない。



1 Comments

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有機酸の割合がね・・ (昭和ナオフミルク♪)
2021-01-23 19:18:36
すべての行動にリミットを設けてしまっては、それはいつかあなたの仕事や生活に波及してしまうだろう。リミットなどない。ただ踊り場があるだけだ。そこに留まっていてはいけない。それを越えていけ☆
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