春は復活祭の卵の季節。今年も音楽院試験シーズンがスタートしました。
やっぱり毎回どんなに心の準備をしていても、どうしようもない審査員に出会う。
あー、いつもながらに思うけど、こういう人たちって、音の表面がいかに美しいか、(「美しい」という芸術的表現ならまだしも、標準に見合う綺麗さかっていうヤツ)そこしか聴かないで、その音の裏にある存在には全く興味がないみたいだし、しかも、君らシステムの定めた「第二過程」とか何とかいう、(そりゃあフランスで音楽教えてればそれが何かよーく知っとるわ。でも、一歩この国から出てみ?何やそれ?でしょうが!)自らが作り上げたシステムの標準に匹敵するか、それにしか頭にないらしい。
挙げ句の果てには「この子は音が良くないがジャズなら通る、ジャズ科に行くことを薦める」だって。笑っちゃうわ。じゃあジャズは悪い音で良いのか(笑)これ以上の先入観があるかいな!あーたはジャズの何をどう知っとるのか、、、ま、知らんけど(笑)
ジャンル間の壁をなくして音楽の理解を深いところで繋げようと、日々努めて教育しているにも関わらず、
やっぱりクラシックはこうでジャズはこうでとか、表面で決めつける。壁やらシステムやらが大好きな人がいるんだなー、という思いを新たにする試験シーズン。
逆にそういうのを超えている寛容な感性の審査員に助けられることだってある。
だからそれぞれの本性を暴露してしまう試験って、良いことだと思う。結局どのようにであれ評価することは人間の本能であって、同じ人間が「音楽院の民主化」とか「音楽を全ての人に」とか叫んでたのがいかに嘘だったか分かる瞬間でもある。
生徒たちだって、私だって、必死で頑張るから、これまでいかに自己の能力の氷山の一角しか使ってなかったか分かるし。
うちの娘なんかは、学校が終わったあと私の都合で試験に連れて行かれて仕方なく付き合わされ、そういうシステムってのが世間にはあるんだ、という勉強をさせて頂いている。
そう、世界はシステムと個の戦いだし、システムなければ個だってないのだ。(逆も真なり)大事なのはいかにそれを知り、サバイバル出来るかってこと。
ところで。いよいよアーチスト、シャルリ・オブリーさんとの「思い出のシンフォニー」プロジェクト(老人ホームで老人たちが自由に描いたグラフィック楽譜に対して即興する)が、即興アトリエで今晩スタートします。
音の裏にある存在は、みんなと同じかどうか、とか他人の基準でのきれいかきれいじゃないかで評価されません。既存システムに沿った評価での試験やコンクールは、そういうのが得意な人に任せておくとして、私のアトリエでは、個の音の内面に切り込みます。結果お楽しみに!
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