SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

普段着コンサートvol.6 〜ブルガリアと日本の架け橋〜 my new compositions on « two Japanese traditional melodies »

2021-06-03 09:22:00 | Essay-コラム


This video is the sketch of my new composition on « two Japanese traditional melodies ».


今回の普段着コンサートでは、

「らるちぇにっつぁトリオ」10月日本ツアー〜ブルガリアと日本の架け橋〜のために現在編曲(作曲?)している曲のスケッチを紹介します。 使った題材は日本の民謡二曲。何の曲か分かりましたでしょうか?はい、四国地区限定です笑!


ある意味ネタばれだけど、実際にトリオで演奏したら、この核とは全く違ったものになると思うので。


ツアー日程は、ほぼ決まっているものの、今は誰だって数ヶ月先のことまでは考えが回らない。日程発表はこのブログ上で、緊急事態が収まって、少しでも状況が落ち着いてからにしたいと思いますので、もうすぐ、もうすぐ状況は良くなるはず!と希望を持って発表できる日を楽しみに待っております。


コロナでまだまだコンサートが再開されてなくて、_次回7月にドイツ、8月にコペンハーゲンと、夏頃にはちょこちょこ再開予定。嬉しすぎる!_演奏面で暇な割にまあ、いろんな雑用(アパート購入の気が遠くなりそうな煩雑な手続きと、ハプニングの連続、普段と違うオーガニゼーション(刻々変わるネットレッスンと対面レッスンの混合やワクチン接種、スト、ツアー企画の慣れない事務的側面などなど)に疲れ果てている状態ではあるのだけど、少しずつ時間を縫って作、編曲している。


私は何でもいいけどいっつも何かを作っていないと、気が済まない性格なので、_我がウルクズノフ家では考えてみれば、三名全員そうですね。新居は三人が三人とも好きなだけ好きなものを作れるような、ニュートラルな空間の家にしたいと思う。_最初は単に編曲しようと思っても、途中からイメージが広がってきて、その曲を素材にした自作になってしまう。頼まれたら、ガチに楽譜のあるトランスクリプションだってやるけど、そういう最初から形のあるものよりは、耳からのイメージで好きなようにどんどん膨らませて作れるやつが一番好きだと思う。


で、即興が構成の中でキー的な位置を占めること。これ一番大事、私にとっては。


即興によって、どんな風にも変幻自在になるような懐の深い曲が理想。そんな曲が書ける日が来たならめちゃ嬉しい!みんなが好きなように自分の曲で即興するなかで「想像したように、また想像以上に実現された」あるいは「予想だにしなかった恐るべき展開になった」、どっちにしてもこれに勝る喜びはない。


今回は、日本とブルガリアの架け橋、ということで、この企画を考えた時から、日本民謡をブルガリア風に編曲してみたい、というアイデアがあった。


で、実際にやってみないと分からなかったのだけど、(アイデアというのは、アイデアのままだと絶対音楽にならない、実際に音にするには自分の深部に降りていく必要がある日本の民謡の持つフィーリング、タイム感というのは、非常に独特で、拍子に入りきらないアシンメトリーであるということ。


ブルガリアの旋法と日本の旋法を混ぜたり、ジャズの和声付けを接着剤にするのはカラクリみたいなもので、遊び、楽しさでもある。でもそういう表面上の遊びから始まったものが、どんどん二つの世界の深部に連れ込まれたのが面白かった。


日本民謡は旋法なんかはすごく単純なものが使われていても、なぜこんな深みのあるフィーリングがあるのか。それを掘り下げ、ただ洋風にするのでなく、自然な流れを大事にしながら、その裏にある世界観、タイム感を表現したかった。


作曲する時特有の、普段とは違う、深層心理?無意識?のチャンネルに入ることで、自分が日本人としてブルガリア音楽をやる意味、自分がこの80%即興でやる音楽を演奏するにあたって、どのようなスタイルで即興するのか?を前よりは少し納得できたような気がする。


ブルガリア音楽というのは変拍子が多いことで有名で、それが1番の難点であり面白さではあるのだけど、彼らが即興する時のアシンメトリーはブルガリアの織物のような永遠にアシメントリーに繋がっていく幾何学模様であり、私日本人の感覚にあるアシンメトリーとは、それとは全く意味の違うものなのだということ。


それこそが我らがリーダー、ペーター・ラルチェフの言ってくれた「あなた自身の言語」だと思うのだけれど、この感覚は残念ながら言葉では表現出来ない、私の貧相な語彙では。村上春樹とかならすごく上手く言ってくれそうだけど。


でも、私には自分の楽器があって、その掴んだフィーリングを表現することはできる。

なんと幸せなことか。


よし、編曲はできたとしよう。でも、深いところで、この二つの違った世界を結びつけるには、竜の目を入れるように、奏者たちが実際に舞台で即興することでしか実現されない。


そこでは対立もあるだろうし、共感もあるだろうし、一体何が起こるか予想もつかない。


でも、演奏できるその日が、確実に現実のものとして近づいて来ている!たぶん。音楽院も今週からほぼ通常通りとなった。念願のワクチンを打てたこと、新しい技術を開発された方々、それを早く打てるように日々働いて下さっている医療の方々に心から感謝したい。同時に、国ごとにシステムの違いや膨大な経済格差があり、世界中の人がワクチン接種を終えるまでは当然パンデミックの出口は見えない。


そういう中でIOCによる「日本が緊急事態でも五輪を開催する」という表明は、民主主義と資本主義の矛盾が、極限まで表面化したものだと思います。一民主主義国家の主権に対して、そんなものよりもカネの方が大事なのだという宣言。人類は自ら獲得して来たものを、自らの欲によって破壊する。 


そして欲と差別はいつもワンセットだ。私も残念ながらヨーロッパで、日本人の勤勉さや人の良さ、大人しさを自分の利益のために利用する人たちに出くわしてきた。悲しくなるばかりだけど、今現在の世界の現実を、嫌というほど見せつけられているのだと思います。


東欧ブルガリア出身の相方はいつもそう言っているなあ、、、冷戦終了後、西欧諸国によって頭の上から爆弾を落とされて分断させられた経験のある東欧やアラブの人達から見たら、こんなの前からあいつらの常套手段じゃないか、あんたら今頃気付いたのかい、ってね。でも彼らは少なくともそれに抵抗し、忘れず、人間としての尊厳だけは失っていない。


せっかくの音楽の話から一気に話が飛んで残念だけれど、音楽家にだって口はあるし、字も書ける。


私の尊敬するマイルス・デイヴィスやローランド・カークはいつだって、自分の受けた差別や屈辱と真っ向から戦い、誰にも臆せず真実を発言し、その純粋な尊厳こそがあんなにも美しい音楽を創る原動力だったと思う。



この普段着コンサートシリーズはこの第六回をもって一応終了。これからは現実に行われるコンサートに向けて準備いたします!ここまで毎回付き合って下さった方、本当にありがとうございました!!





post a comment