What A Wonderful World

毎日の暮らしの中で、心惹かれたことを語ります。

星野ジャパンに楽天から四名も!

2007年05月08日 12時40分35秒 | スポーツ
 よくよく選出リストを見たら、星野ジャパンに楽天から田中投手を含め四名も選ばれてるじゃないですか!大変失礼致しました(汗)田中君、青山さん、鉄平さん、磯部さん、まだ第一次候補ですが、おめでとうございます!

 でも正直言って、シーズンに影響しなきゃ良いなぁ、主力選手ばかりだし・・・と一瞬思っていたんすが、楽天はリーグ優勝とか関係ないからイイか!(自虐的)それと磯部さんは・・・何故選ばれたんでしょう?(小声)

 今日のニュースでは、日ハムのダルビッシュ君は辞退したいようなニュアンスのコメントを発表しているようですね。うん、良いと思います、強制じゃないんだから個々の考えは大切にして欲しいです。それにしても、同じ日ハムの森本ひちょり選手はなんで選ばれなかったんでしょうか?これは意外でした。

 まだ第一次候補ですから、これから色々出入りがあると思いますが、日本野球界のベストメンバーで戦って欲しいですね。
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弱者と寄り添って共に生きる心

2007年05月08日 10時22分24秒 | ブログ
いやしのつえ

 同じく「いやしのつえ」じっぽ様の記事で、心に響いたお話です。

 私、今朝久々に貧血になったんですが、階段の一番下に突っ伏している私を見て、子どもたちや主人がひどく動揺している訳です。自分の内では、ある一定の時間が過ぎれば元に戻る、という長年の経験の蓄積があるので平常心なんですが、周囲にしてみれば、真っ白な顔でぴくとも動かない母親&妻を見たら、困るだろうなぁ~不安だろうなぁ~気の毒だなぁ~と思います。

 貧血とは十代からの付き合いで、数々の悲惨な目にもあってますから「こうなったらこうなる」というあんばいが充分に判っていて、死ぬまで付き合うハメになるのも判っています。通院も薬の服用もなく、ここまで来たんですから恵まれていると思います。

 直ぐに復活して、いつもどうりに炊事洗濯ゴミだしを始めたのですが、主人が見回りに来てくれましたし(以前、音沙汰が無いと思って見に来たら、風呂場で突っ伏している私を発見した経験のある人)子どもたちも気遣って声をかけてくれてから、学校に行きました。

>「いやしのつえ」より一部引用

「はやく元気になって」と「もとのようには元気になりません」

『話すチカラをつくる本』(山田ズーニー著・三笠書房)より。

 私たちはよく「はやく元気になって」と人を励まします。
私の母は心臓病で、長く入退院を繰り返していたことがあります。当時、若かった私は、自分にできることなら何でもして、1日もはやく、元通りの明るい元気な母にしてあげたいと願っていました。
(中略)
 「はやくよくなれ、はやくよくなれ」を突きつけていたころの私は、「お母さんは大好きだけれど、お母さんについた病気は忌まわしい、大嫌い」と言っているようなものでした。母はどんな気持ちだったでしょう。母と病気は切っても切れない。自分の一部を忌み嫌われたような寂しさを感じるか、はやく元気になろうとして焦り、元気になれない自分を責めたに違いありません。
「はやく元気になって」という言葉には、「元気でない状態はよくない」という価値観が無自覚のまま入り込んでしまいます。それが、すぐには元気になれない人を威圧する場合があることを、それから私も心して使うようになりました。

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 人というのは、「病気の他人」に対して「元気な自分」の優越性をひけらかすような言葉を、無意識に発してしまいがちなんですよね、実際。
病気で苦しんでいる上に「元気にならないこと」に対して周囲からプレッシャーをかけられ続けるというのは、本人の立場になってみると、「病気とうまく付き合っていこうよ」と言われるよりも、はるかに辛いことなのではないでしょうか。

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 高齢化が進んで、アレルギーや新しい疾患を抱える人が増えている現代です、人口の中で健常者よりもなんらかの障害を持つ人たちの割合が上回る時代が、すぐ来るでしょう。お年寄りを含む弱者と寄り添って生きるのが、当然になるんです。いままで以上に「成熟した意識を必要とする社会になる」ことを思うに付け、教育改革だなんだと紛糾している皆さん、最も必要なのは「他人の気持ちを思いやる心」を育てることじゃないでしょうか。
コメント (2)
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私が「物語を必要とする」わけ。

2007年05月08日 09時47分13秒 | ブログ
いやしのつえ

 VIVA様のブログ「VIVA読書」でも紹介された、小川洋子さんの「物語の役割」が、じっぽ様の「いやしのつえ」でも紹介されていました。

お話を拝見しているうちに、拙宅で4月20日に記事にした「瀬尾まいこ/卵の緒」の感想を”上手く言葉に出来ない”ことが、自分の内でいまだに上手く言葉に出来ない事を意識しました。

>「いやしのつえ」より一部引用

 世の中には「自分を引っ張ってくれるような、強い物語」と必要としている人だって、たぶんいるのではないでしょうか。でも、多くの傷つきやすい、弱い心を抱えた人たちにとっては、「強い物語」は、「そんなふうには生きることができない自分」を際立たせる存在なのかもしれません。「完璧すぎる親」や「完璧すぎるカウンセラー」が、子供や患者さんたちをかえって追い詰めてしまうことがあるように。
 むしろ、「なんだこのスッキリしない結末は……」というような緩やかな「物語」のほうが、結果的には人の心を解きほぐしてくれる場合もあるのですよね。

 『物語の役割』というのは、「自分が世界の一部であるということの確認」であり、また、「自分が世界で唯一無二の存在であることの認識」だと小川さんは仰っています。そして、これはまさに「自我の形成」そのものです。

 本当は、「物語」を必要としないで生きていければ、それがいちばんラクなのかもしれません

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 私は、ごく幼い頃は「物語を必要として生きていた」子どもだったので、非常に心に刺さるお話でした。社会性が低く自我の確立がとても未熟だった私には、強硬な意志や個性を持つ主人公や、努力が実って終わる物語が「必要」だったのでしょう。
 私の内には「弱い私」と「それを克服しようとする私」が常に存在しています。

 例えば、十代の頃は「人前で話しをする」事がとても恥ずかしく苦痛にすら感じる私と、そう感じる自分の弱さをなんとかしたいという私とが居て、そこからどんな手段をとっても逃げ出したいという欲求の方が強くて、逃げ出した後に自分の弱さに打ちのめされるという事をしばしばやっていました。
それが、社会に出て様々な経験をするうちに、「いやだと感じる事の反対の事をする」と、弱い自分とのバランスが取れ、逃げ出す事もなくやり遂げられる事に気が付きました。「一日の中で、その時を逃げ出さずに頑張ったら、違う自分になる」と自分に言い聞かせてやり過ごす事も覚えました。

 そうやって葛藤している時間のなかで、私は「広いジャンルの物語を読む」ことを意識してやっていました。狭い自分の視野や浅い考えを、多くの物語を読む事で広くしよう深くしようと、バランスを取っていたのです。
それは、この歳になってある意味随分と少なくなりましたが、ある意味新たに自分の弱さと戦わなければならない状況になっている今、まだ必要な作業なのです。


 なので、瀬尾さんの作品に対する”上手く言葉に出来ない感情”は、そこに”在る自分”であり”そう在りたくない自分”との葛藤が、いまだに続いているからなのです。
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