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経済学とは何だろう?

2006年05月18日 22時26分59秒 | 俺のそれ
ふるさんという方からのTBで、大変興味深い記事を拝見致しました。お返事が遅れましてスミマセン。少し考えて、記事に書くことにしました。

ふるちんの「頭の中は魑魅魍魎」:経済学なんてもんについて考えてみたりする(追記あり)


経済学にはそれなりの存在意義はきっとあるんでしょう。それを否定する人はあまりいないのではないかと思うが、確かに疑問に思うこともあります。それは、経済学のことを知っている人々の中で、片方が「これは理論としてはダメだ」とか「間違ってる」「トンデモだ」などと言うのですが、別な人たちは「いや、間違っているのは向こうだ」「そっちこそ意味がない」とか言い合うのですが、これの終わりを見たことはないですね。例えば、日銀と反対派との間でも同じです。経済学を専門にやっている人たちで、学者同士であっても、延々と続くのですね。要するに、「どっちなの?」と素朴に疑問に思いますね。


現状では、それはそれで仕方がない、と思うのですが、中には「許せないと考える人々」が存在するかもしれないです。そういう人々は、とある経済学理論や経済学者などをネタ(最近時々見かける「ネタ」や「ベタ」という言葉は、一般的に普及している言葉の意味として用いるのでしょうか?実はどういった意味合いなのか、と戸惑うことがあります)にして、笑ったりしているかも。でも、それは特定のコミュニティの中でしか通用しないので、注意が必要です。一般素人が経済学を笑ったりすると、「何笑ってんだよ」と文句を言われたりするかもしれません。個別の理論を笑うのがよくて、経済学全体を笑った場合には、「ダメ」ということなんでしょうか。言ってみれば、「トンデモ理論」の場合には笑ってよく、それ以外は笑っちゃダメなんですよ、きっと。でも、誰がどうやって「トンデモ理論」を判定するのかは決まっていません。上の論争と形式は全く同じだからです。通常の判定は、いかに有名な学者を出せるか、とか、その説を採用・支持している学者の人間性?とか、この辺は謎です。


中には、「経済学で全てが記述できる」と盲信しているのか、経済学的判断を絶対視するような人も存在するかもしれません。余程、経済学理論に自信があるのでしょう。「自分には見通せるが、経済学を知らない奴はカスだな」というようなことでしょうか。この辺は推測でしかないので、定かではありませんが。


書くと恥ですので、やめようかと思いましたが、参考までに書いておきます。
私の人間性とは、このようにちっぽけです。非常に器の小さい人間です(笑)。

わかる人にはわかるかもしれませんが、それ以外の人は、お読みにならない方がいいと思います。



私自身は、自分の判る範囲や考えの及ぶ範囲というのは、非常に狭いし、ありきたりのことしか知りません。ですので、ちょこっと高度な理論や考えを理解するのは難しいですし、その適否を判断するというのは更に困難になるのですが、それでも、中身についてはある程度自分で考えてみたいと思うので、可能な限り「自分なりの評価」をしようと思っています。前にもちょっと書いたのですが(仕事の経験と教育)、「知識がないなりに、今持ってる知識を総動員して考える」ということです。これが正しいことは少ないかもしれませんが、少なくとも「誰々が言ってたから」というような理由だけでは、賛成したり、採用したりはしません。大抵は、まず疑ってみます(笑)。


ですが、中には「それが時間の無駄なんだよ」と言う人もいるかもしれません。初めから、専門家の意見を選択し、それを採用すれば手間が省けますね。でも、その時に、判定や評価はどうやってできるのか、そこが問題です。なにせ、専門家同士の中でさえ、あーだ、こーだ、と意見が分かれるような不完全な理論であるのに、普通の素人が考えたって判るわけがないのです。そうなれば、残りは自分の個人的な評価を採用するしかなさそうな気がします。そういう経済学理論に基づいて、世界が記述できると信じている人は、経済学以外の判断基準を用いたりすると、大いに不満に思うかもしれません。


「経済学理論が最も大事なんだ」とか、「常に論理的に考えるのが正しい」とか、そういうことを力説し、他人の判断にさえも、そういう思考を求める人も存在するかもしれませんが、それはそれでいいと思いますけれども、では、どの程度それが実行可能なのか、ということになると、現実的には難しい場合も少なくないのではないかと思えますね。

で、そういうことを主張する人間そのものが、果たしてどの程度の水準で実行しているか、となれば、実は全然ダメだったりする可能性だってあるのですね。例えば、推定理由が明らかにオカシイにも関わらず、容易に「推測が可能」とか主張したりするんですね。他人に求めている科学的とか論理的といったことが、自身では案外と実行できないものなのです。普通はそういう厳密な水準で考えたり、理屈を連ねることが重要なのではなくて、考える道筋とか意見が作られていく過程というものが大事なのだと思いますね。試行錯誤が含まれたり、間違いがあっても仕方がないものだと思います。それらを全て否定できる人々というのは、ある意味不思議です。


特に経済学で考えるのであれば、間違える経済主体が存在すること自体にも意味があるように思えます。株式売買では、全員が一致して同じ考えしか持ち得ない時には、誰も売買できません(笑)。経済学的に一つだけの価格が決定されれば、全員が「売り」か全員が「買い」しか存在しないのではないでしょうか。従って、そういう間違いや多数派とは逆の行動を選択するということさえも、「許容する」という程度でいいのではないかと思うのだが。



経済学素人が、とある研究所の研究費の出所を勘繰ったりすると、特定の分野の人々にとってみれば、これは大変不愉快なことなんだそうです。しかしながら、有名ブロガー、特に社会的信用のある人物が、「研究費の出所」に何某かの疑問を表明していても、それには何とも思わない人もいるかもしれません。このような違いは何処から生じてくるかと言えば、表現方法の違いか、何処の馬の骨ともつかないようなバカが言ったら不愉快だが著名人ならいい、という社会的信用度の違いか、正確には分りませんがそういったことかもしれませんね。因みに、このような疑いの表明者が有名ブロガーの場合には快くTBする、という人もいるかも(笑)。


私自身は論文を正確に読んだりできる程の能力は持ち合わせていませんから、不正確かもしれませんけれども、通常であればそれなりの「レベル」にある論文の場合に、グラントを書かないことなんてないんじゃないか、と思います。一定レベル以上の客観的な評価を受けようと思えば、当然そうした論文の形式は守られることが多いのではないかと思うのですが。それを外れているのは、総説的な読み物とか、単なる論評とか、そういう扱いであるかと思います。普通は、研究論文ではないと思います。特に、米国のような場合には、グラントの数も額も大きいと思うので、大抵の論文にはそうしたグラントは掲載されるのではないでしょうか。それを隠しておくことは、研究論文の信頼性に関わると考えるからだろうと思いますね。それから、論文途中でコントロール群を変えるとか操作するということは極めて珍しいのではないか(というか、普通の論文では有り得ないでしょ)と思ったのですが、そういうことはある特定の領域では普通なんでしょうね。その特定領域とか、コミュニティでの約束事は知らないのですけど。


ところが、他の領域とか科学的な態度には無関心だからなのか不明ですけれども、それが理解できない人たちもいるんですね。それを指摘されていても、何故そういう部分に考えが及ばないのかと言えば、他人の意見や考えを初めから見下しているとか、自分の知っている狭い理屈でしか判断できない程度の人だからでしょうか。それ故、「陰謀論を持ち出してくる」などという考えしか浮かばないのかもしれませんね(笑)。これも、「自分は全てを知っている」という、ある意味自己全能感とか何とかいうヤツですかね、今ハヤリの。経済学を信奉している人々の中に、そういう人が存在しているかどうかは私には判りかねますが。



中毒死?

2006年05月18日 16時17分30秒 | 社会全般
先日記事の中で、保険金殺人事件での薬物中毒と書いたのですが(薬物規制の境界線)、これが私の思っていた事件と同じなのか違うのかは定かではありませんが、私の大きな勘違いである可能性があります。申し訳ありません。


昔、ニュースなどを賑わしていたような記憶があって、それで記事を書いてしまいました。まさか今頃になって、そんな昔のことが訴訟などになっているとは思ってもいなかったので。


asahicom:「保険金目的で死なせた」男性中毒死、民事で認定-社会


こちらの事件は、そもそも「殺人事件」としては扱われていなかったようです。それと、ブログの記事中では「アセトアミノフェン」と書いてしまったのですが、こちらの方は「サリチル酸」だそうです。サリチル酸は、アセチルサリチル酸(代表的なのはアスピリンですね)かサリチル酸メチル(アンメルツヨコヨコとかサロメチールとか、かな?)などの形で薬剤に含まれていることが多いかもしれないです。元々飲ませたとされる薬が何だったかは知らないので、何とも言えませんが。ところで、昔高校時代にあまり好きではなかった有機化学を思い出しました(笑)。


この判決については、現時点では、事件性や実際の死因とかは警察捜査が進展しなければ何とも言えませんが、もしかすると殺人事件に発展する可能性はあるかもしれません。ただ、先入観は判断を狂わせるかもしれませんし、マスコミ被害ということにもなりかねないので、今の状況では警察がどのようにするか、というところだと思います。


普通に考えれば、薬物中毒を企図するような場合は、錠剤をすりつぶして粉にし、飲料など(特にお酒でしょうか、味が判りにくくできるかもしれないので)に溶解させて大量摂取させることを狙う、という感じでしょうか。たとえ一度に摂取させられなくとも、代謝されて血中濃度がある程度低下する前に次の大量投与が可能であれば、複数回に分けたとしても、中毒量に達する可能性は有り得ると思います。決して私がそのようなことを企んでいる、ということはありませんよ、勿論(笑)。


中毒と言えば、植物の中毒は意外に多いらしくて、最近では何と「スイセン」で中毒というのが報道されてました。ニラとそっくりなんですって。


西日本新聞 暮らし・レジャー スイセンをニラと間違える 9人食べ、中毒で一時入院

記事より、以下に抜粋。


北海道食品衛生課は16日、北海道美瑛町で、スイセンをニラと間違えて食べた女性9人が、嘔吐(おうと)や頭痛などの食中毒症状を訴え一時入院したと発表した。全員ほぼ回復しているという。同課によると15日午前6時半ごろ、美瑛町にある会社の寮の庭で栽培していたニラの近くにあったスイセンを、20代から30代の女性従業員が卵とじスープにして食べた。




見分けがつかないというのは、「へえ~」ですけど、でも、ニオイで判りそうなのでは、と思ったんだけど。食べた時の味も似てるんでしょうか?我が家では、ニラとかその他の山菜取りなどには行かないので(キノコ類や山菜の判別が全く出来ないので。フキやワラビは判るけど、もしも似てるヤツとかあったら困るし。「~モドキ」のようなヤツ?)、まずスイセンを間違って食べることはないと思います。やっぱり野生のものはコワイかな・・・


古来より、植物の研究がなされて、毒物(別な見方をすれば治療薬)として色々と用いられてきたでしょう。漢方とかも、元を辿ればそういう感じなのでしょうか。麻薬も勿論そういう毒物研究の成果の一つでしょう。

暗殺を企むような場合には、「毒」というのは結構仕込みやすいのかもしれませんね。何故なら、知っている者と知らない者の間には、その知識には大きな隔たりがあるので。知らなければ、仕掛けられた側は全く気付かないからですね。実際、トリカブトによる毒殺事件もあったくらいですので。