いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

続・旧体制の反攻

2006年06月05日 14時01分29秒 | 俺のそれ
前の記事の続きを書いてみました。何度も言うようですが、単なる空想に過ぎないですからね。誤解なきよう、お願いしますね(笑)。


元官僚のもう一人の男、彼もまた、株式市場という戦場では以前から特異な存在として注目を集めていた。キャッシュリッチ企業への仕掛けでは、名を馳せた。


メディア企業やプロ野球の球団を保有する親会社の株買占めを実行したのだが、まさしく先に失脚した男と同じ道を歩いてしまっていた。意図したものか、或いは意図せざるものなのか、本人以外には判らないであるが。旧体制側の逆鱗に触れたのだった。

ただ、彼にはチャンスが少しだけ残されていた。価格交渉で譲歩し、売却に同意してさえいたなら、彼の手から大量に買い占めた株を取り上げられることはなかったであろう。経営への影響力を素直に手放してさえいたなら、メディアでベラベラとしゃべったりせずにいたなら、彼の生き延びられるチャンスは残されていたであろう。先にお縄を頂戴した男のように、テレビという洗脳装置に露出して、大衆の前で旧体制批判と体制破壊賛美の刺激的言辞を弄したりせねば、少なくとも社会からの抹殺だけは逃れられたかもしれない。


旧体制を守り続けてきた閉鎖社会は、目に見えない所で影響力を行使することができるはずだった。しかし、大衆の前に登場した時代の旗手たちは、危険な存在そのものであった。彼らが成功を収めてしまうことは、次々と「体制打破」を目論む者たちを生み出してしまうということに繋がるからだ。そして、「体制破壊者」としての称揚と、「成功者」としての賛美を、大衆から受けるということを意味していた。大衆の拍手喝采を受けた者―それはまさしく破壊を掲げて登場してきた「政治体制を変えた男」と同じだ―が、その影響力を背景にして、暗闇を切り裂き、今まで影だった部分に強い光を当て、秩序ある閉鎖社会で序列を乱さずに守っていた人々を駆逐し、座っていたイスから追い立てていくのを目の当たりにしたのだ。彼らは二度とそういう人物を生き延びさせないように、徹底的に潰すことに腐心した。そして、その反攻作戦は成功した。


大衆の前から「反逆者」を消し去ること、これが最も重要なことなのだ。
人々は直ぐに忘れ去るだろう。そして、再び飼い馴らされていくだろう。「刃向かうことの困難さ」を実感するだろう。

権力には、対抗してはいけないのだ。恭順と恐懼を示す者だけが、体制の一部に組み込まれ、仲間の列に加わることが許されるのである。

造作もなく葬り去られた2人の男たちに共通していたのは、マネーゲームに強かったことと、株式相場の歪みの中に隠された「甘い蜜」を見つけ出すこと、この両方に長けていたことだろう。どんな場合でも、ゲームに勝ちすぎてはいけないのである。そして、「一人勝ち」は最も忌むべき所作なのである。それが旧体制の掟なのだ。勝ちを譲ることも、分け前を与える事も、秩序を守る為のルールなのである。


日本とはそういう国なのだ。



旧体制の反攻

2006年06月05日 00時00分22秒 | 俺のそれ
ホリエモンに続いて、村上ファンドにも司直の手が及んだ。かつて書いた記事(プロ野球界の「壁」)での自分の印象というのが、非常に甘いものであったと思い知らされた。日本という特別な社会を支えている人たちというのは、易々と退場などしないものなのだ。日本社会のルールをつくり、日本人を支配し、集団をコントロールする人たちは、未だに影の存在として君臨しているのだ・・・。

日本という社会は、本当は何も変わってなどいなかった。


以下に、単なるフィクションを書いてみようと思う。


表舞台から消し去られた守旧派たちは、ひっそりと息を潜めていた。彼らは、それまで占めていた主要なポジションを次々と追われていった。反乱軍の先頭を突き進んできたのは、時代の旗手と目された人たちだった。


華々しく登場した最初の男は、時代の寵児ともてはやされたが、羨望と怨嗟の渦に身を投じて、法の裁きを受けることとなってしまった。まさか自分自身にそうした災難が降りかかることになるとは、予想だにしていなかったであろう。

結果的に、彼があぶり出すことになってしまった閉鎖的序列社会の長老たちは、次々と非難を浴びて社会の日影に追いやられてしまった。それまで築き上げてきたものを、奪われてしまうことになった。その時の恨みの大きさというのは、筆舌に尽くしがたいものであったろう。永遠に癒すことのできない深い傷を負わされることになった彼の所業は、憎んでも憎み切れない、激しい嫌悪感と怨恨を心に刻みつけた。彼の、完全な破滅をもたらすまでは、長老たちが彼を許すことなど絶対に有り得なかった。

そうして、彼は追い込まれていった。自らの勝利を確信したことが、大きな油断を招いた。順調と思えた戦果には、「埋伏の毒」と同じく息の根を止める為の計略が仕込まれていた。一時的な敗北や撤退は、最終的な目標―彼を葬り去ること―の大きさに比べれば、ささいな損害に過ぎなかった。恐らく、もう1人の成功者のように、閉鎖社会の掟に従い、長老たちの末席に列するという選択をしていれば、彼は抹殺されることはなかったであろう。

権力に傅き、年長者を敬い、長老たちから差し伸べられる手に素直にキスをする覚悟があれば、きっと成功者の1人として、長きに渡り権力の一部の恩恵に浴し、歴史にも名を残すことができたであろう。しかし、彼にはそういった臭いを発しているような長老たちへの拒絶感と、あくなき欲望と、自己への絶対的な自信があったのだった。彼がもっと貧乏で、愚かで、そして、低い志しか持たず誰にでも靡きやすい、野心のない男であったなら、旧体制を破壊することもなく、静かに空いた席についていたに違いない。それが彼にとっては最も望ましい選択となっていたはずだ。だが、そうした道を選んだりしなかった。そのことが彼の破滅への、もう一つの道へと彼を導いていったのだ。

大衆はそうした道の行く先を知ることはない。どこの道を歩くのか、興味深々ではあっても、道の選択も行く先にも無責任なのだ。そして、地獄への道を選択してしまった時、堕ちて行った者へも、その後の顛末にも興味を失う。というより、忘れる。それが、もてはやした人々の流儀でもある。


彼の破壊した秩序と体制は、外から見れば無残にも壊れてしまったように見えるが、実際には完全破壊から免れていた。その破壊の代償は、彼にとって非常に大きなものとなった。

特捜部の逮捕劇―それは彼の最も好きな作戦、「電撃作戦」で行われたのだった。