正直、「ニート」論議には、徒労感が漂う(笑)。もういいんじゃないか、と。
『太田光の私が総理大臣になったら』という番組を初めて知ったんですけれども、そこでのテーマがニートだったようです。で、「ニート対策禁止法案」の審議、ということだったらしい。
Freezing Point - 『太田光の私が総理大臣になったら』、「ニート対策禁止法案」
呼ばれた「ホンモノ・ニート」の方々の微妙な感じ、という面は確かにあるか。「働いたら負け」とか、「放っておいてくれ」というのも、判るような気がする。そういう人たちなんですよね。要するに、相手にすれば相手にするほど、反発・無効になる、という部分があるのではないかと思える。昔と同じく、「支援を必要とする人たち」に対しては、ひっそりとNPOなどを中心に支援を続ければよいし、「イラネーよ」という人たちは「放置」しておくしかないのかもしれない。「判ってくれ」というのは、基本的に無理なんじゃなかろうか、と。どこまで行っても平行線でしかない、「線路は続くよ、どこまでも」状態(笑)。もしも「根性叩きなおし」を本格的に実行するとなれば、究極的には「徴兵制」のような強制力がないとできないんじゃないか、と思う。表立って議論をすればするほど、逆効果が強くなっていくのではないか、とさえ感じる。実際どうなんでしょ?
試しに、「完全ニート計画」を考えてみよう。
あるニートさんと親との年齢差が何歳かにもよるが、とりあえず父親と30歳、母親と25歳離れた一人っ子だと仮定しよう。
父親が退職し収入を失う年齢を65歳としよう。この時点では息子が35歳、母親60歳である。そこから退職金と年金で3人が生活できれば、息子は働かなくても済む。その時点までに「住宅ローン」は完済しておいてもらえればよい(それか、退職金で残債を全額返済してもらうとか)。15年後父親(80歳)が他界したとして、生命保険金が入ってくることが多いだろう。この時点で、息子50歳、母親75歳。年金生活であっても、生命保険金が入ってくるから、贅沢しなければ生活可能だろう。自宅があるし。この10年後母親が85歳で他界したとすると、息子は60歳となっている。この時点で、母親の生命保険金が入ってくるとすれば、65歳時点までそれで生活すればいいかもしれない。息子が65歳時点では年金未加入の為年金は貰えないが、ちょっとした病気などがあって就業が難しければ生活保護になってしまうだろう。
この例では、父親が一定以上の収入があったサラリーマンで、3人が年金生活となる期間(15年)を乗り切れれば息子が働かなくても生きていける。この時、3人のうち誰か1人でも無駄遣いしたいとか、贅沢したいとか、世界一周旅行に行きたいとか(笑)、そういう野望を抱くと生活基盤のバランスが崩れるかもしれないが、そうでなければ生きて行けると思う。特に、退職直後の父親65歳、母親60歳、息子35歳という時期から、その後の5~10年間くらいは、3人ともアクティビティがそれなりに高い(両親がもっと高齢になっていけば、病気したり外出が面倒になってきたり、といったことがあるかな?)と思うので、金もそれに応じて出て行ってしまうかも。しかし、両親が死ぬまでに、「自宅」と「生命保険」(他の財産があればなおいい)を相続財産に残してくれれば、残りの期間は息子一人でも生存可能だと思う。特に、父親が公務員だったりするなら、十分可能ではないかな。共済年金は支給額が多いからね。
というわけで、「完全ニート計画」は達成可能と判定しました(笑)。
条件は①親が協力的、②父親が現役時代にある程度の収入水準(当然厚生年金か共済年金の権利)を有している、③最低でも「持ち家+生命保険」の相続財産、というところか。現状でも、大卒後にニート化した息子を養っている親は少なくないと思うので、その時点で十分協力的だし、家計的には生活可能なのではないか。
問題は両親との年齢差がもっと離れていたりする場合とか、自分以外に兄弟がいる場合だろうか。年齢差が大きいと、両親が他界した後で、生活保護になれるまでの時間が長くなると予想され、その間に相続財産が底をついてしまう可能性が高くなる。兄弟がいたりすると、相続財産の財産分与で大きく目減りする。なので、「完全ニート計画」達成のためには、親の財産が多いことが必要。で、自分が生活保護を受ける時点までには、金融資産を残さないように遣い切ることが必要だろうね。なので、申請直前に「一か八か」で(笑)、大量にオタクグッズを買い込むとか、何かの「ブツ」に変えておく必要がある。できれば後に「オークション」などに出品したりできて、換金性の高い「ブツ」が望ましい。評価額の目減りの少ないものが最も望ましい。役所の人が家を見に来ても、「財産価値」としてよくわからないだろうし。金融資産がなければ、「生活保護決定ー!」だろね、きっと。で、決定後に、自宅はリバースモーゲージを活用。65歳以降の人生は大して残ってないので(まあ、普通は10~15年くらい)、生活できるでしょう。
一般人が腹が立つと考えることとしては、「働いている我々が税金や、年金等各種保険料を払ってるのに、コイツらはいってみれば薩摩守じゃないか」ということだろうと思う(古!高校の時、古文の先生が言ってた。薩摩守=忠度(タダノリ)からキセル乗車のことを昔はこう呼んでいたそうだ)。「権利だけは主張してくる」ということでもある。それはそうだけど、どうにもできないのが現状です。「働いたら負け」というのが、ある意味本当にそうなんですよね。
ある小学校のクラスで、何かの動物を飼っているとしよう。そうだな、ウサギでもいいか。このクラスには絶対的なルールがあって、「月に一度は、ウサギと遊べる」という大原則があるとしましょう。でも、ウサギ小屋の清掃当番があって、みんな順番に当番が回ってきます。ある時、クラスで問題が持ち上がりました。
A君「オレは、清掃当番をやりたくないから、外してくれ」
クラスメート「A君、それはズルイよ。みんな平等に当番をやるんだから君もやれよ」
A君「だって、ウサギがいなくても、オレは困らないから」
クラスメート「でも、クラス全体で飼ってるんだから・・・」
A君「オレは飼ってくれ、って頼んでないし。みんなが好きで勝手に飼ってるだけだろ」
・・・・・
こうしてA君は「当番を絶対にやらない」と言いはって、みんなの意見を聞き入れようとしません。仕方なく、クラスメートたちは、当番からA君を外しました。
でも、ある日のこと、ウサギを抱きかかえているA君の姿がみんなの目に止まりました。
クラスメート「A君はウサギなんかどうでもいい、って言ってたじゃないか」
A君「ヤだな、いなくても困らない、って言ったんだよ」
クラスメート「当番に入ってないんだから、ウサギと遊ぶなよ」
A君「遊ぶのは全員の権利なんだから、いいんだよ。”クラス全員”のウサギだし」
クラスメート「だって、A君は一度も掃除してないし、ズルイぞ」
A君「ズルイもんか。ウサギを飼ってなけりゃ、オレだって遊んだりはしないさ」
クラスメート「だって、だって、・・・・」
A君「ヤだな、これはルールなの。何なら、みんなが飼うのを止めればいいんだよ」
・・・・
A君「当番やったモンの負けなの。悔しかったら、皆も同じように当番サボるか、飼うのを止めれば?」
このように、A君は勝利します(笑)。確かに当番をやった者の負けなんですね。このようなタダノリを防ぐ方法があるかというと、当番を外れた時の罰(言葉が良くないか。不利益と言うべきかな)が極めて弱いか存在しないことが、A君の戦略を可能にしてしまいます。全員が当番を放棄するか、飼うのを止めるという選択も、全員が「それを選べない」ということを知っている時、有効となります。全員が一致してA君と同じことができるかというと、それは無理な話なんですよね。こういう時には、自分勝手に振舞える人が有利になってしまいます(有利でもないね。非難が集中するけど、それをはね返せるなら問題なし。普通はかなり難しいと思うけど)。
なので、強制的な実行力のある方法で無理やり当番をさせるか、重い罰・不利益を与えない限りこれを回避することはできないんですよね。そんなことはできるはずもないんですけど。
そもそも、そういうクラスメートのことを問題にしたり、話し合う時間とか労力とかが無駄になるし、それをやったことろで「ありがた迷惑」とか「ほっといてくれ」とか永遠に分かり合えないので、結局無意味な感じになるんですよね。それもまた、「タダノリ側の勝利」に繋がるんですけど(笑)。どっちにしても、しょうがないんではないかと。
『太田光の私が総理大臣になったら』という番組を初めて知ったんですけれども、そこでのテーマがニートだったようです。で、「ニート対策禁止法案」の審議、ということだったらしい。
Freezing Point - 『太田光の私が総理大臣になったら』、「ニート対策禁止法案」
呼ばれた「ホンモノ・ニート」の方々の微妙な感じ、という面は確かにあるか。「働いたら負け」とか、「放っておいてくれ」というのも、判るような気がする。そういう人たちなんですよね。要するに、相手にすれば相手にするほど、反発・無効になる、という部分があるのではないかと思える。昔と同じく、「支援を必要とする人たち」に対しては、ひっそりとNPOなどを中心に支援を続ければよいし、「イラネーよ」という人たちは「放置」しておくしかないのかもしれない。「判ってくれ」というのは、基本的に無理なんじゃなかろうか、と。どこまで行っても平行線でしかない、「線路は続くよ、どこまでも」状態(笑)。もしも「根性叩きなおし」を本格的に実行するとなれば、究極的には「徴兵制」のような強制力がないとできないんじゃないか、と思う。表立って議論をすればするほど、逆効果が強くなっていくのではないか、とさえ感じる。実際どうなんでしょ?
試しに、「完全ニート計画」を考えてみよう。
あるニートさんと親との年齢差が何歳かにもよるが、とりあえず父親と30歳、母親と25歳離れた一人っ子だと仮定しよう。
父親が退職し収入を失う年齢を65歳としよう。この時点では息子が35歳、母親60歳である。そこから退職金と年金で3人が生活できれば、息子は働かなくても済む。その時点までに「住宅ローン」は完済しておいてもらえればよい(それか、退職金で残債を全額返済してもらうとか)。15年後父親(80歳)が他界したとして、生命保険金が入ってくることが多いだろう。この時点で、息子50歳、母親75歳。年金生活であっても、生命保険金が入ってくるから、贅沢しなければ生活可能だろう。自宅があるし。この10年後母親が85歳で他界したとすると、息子は60歳となっている。この時点で、母親の生命保険金が入ってくるとすれば、65歳時点までそれで生活すればいいかもしれない。息子が65歳時点では年金未加入の為年金は貰えないが、ちょっとした病気などがあって就業が難しければ生活保護になってしまうだろう。
この例では、父親が一定以上の収入があったサラリーマンで、3人が年金生活となる期間(15年)を乗り切れれば息子が働かなくても生きていける。この時、3人のうち誰か1人でも無駄遣いしたいとか、贅沢したいとか、世界一周旅行に行きたいとか(笑)、そういう野望を抱くと生活基盤のバランスが崩れるかもしれないが、そうでなければ生きて行けると思う。特に、退職直後の父親65歳、母親60歳、息子35歳という時期から、その後の5~10年間くらいは、3人ともアクティビティがそれなりに高い(両親がもっと高齢になっていけば、病気したり外出が面倒になってきたり、といったことがあるかな?)と思うので、金もそれに応じて出て行ってしまうかも。しかし、両親が死ぬまでに、「自宅」と「生命保険」(他の財産があればなおいい)を相続財産に残してくれれば、残りの期間は息子一人でも生存可能だと思う。特に、父親が公務員だったりするなら、十分可能ではないかな。共済年金は支給額が多いからね。
というわけで、「完全ニート計画」は達成可能と判定しました(笑)。
条件は①親が協力的、②父親が現役時代にある程度の収入水準(当然厚生年金か共済年金の権利)を有している、③最低でも「持ち家+生命保険」の相続財産、というところか。現状でも、大卒後にニート化した息子を養っている親は少なくないと思うので、その時点で十分協力的だし、家計的には生活可能なのではないか。
問題は両親との年齢差がもっと離れていたりする場合とか、自分以外に兄弟がいる場合だろうか。年齢差が大きいと、両親が他界した後で、生活保護になれるまでの時間が長くなると予想され、その間に相続財産が底をついてしまう可能性が高くなる。兄弟がいたりすると、相続財産の財産分与で大きく目減りする。なので、「完全ニート計画」達成のためには、親の財産が多いことが必要。で、自分が生活保護を受ける時点までには、金融資産を残さないように遣い切ることが必要だろうね。なので、申請直前に「一か八か」で(笑)、大量にオタクグッズを買い込むとか、何かの「ブツ」に変えておく必要がある。できれば後に「オークション」などに出品したりできて、換金性の高い「ブツ」が望ましい。評価額の目減りの少ないものが最も望ましい。役所の人が家を見に来ても、「財産価値」としてよくわからないだろうし。金融資産がなければ、「生活保護決定ー!」だろね、きっと。で、決定後に、自宅はリバースモーゲージを活用。65歳以降の人生は大して残ってないので(まあ、普通は10~15年くらい)、生活できるでしょう。
一般人が腹が立つと考えることとしては、「働いている我々が税金や、年金等各種保険料を払ってるのに、コイツらはいってみれば薩摩守じゃないか」ということだろうと思う(古!高校の時、古文の先生が言ってた。薩摩守=忠度(タダノリ)からキセル乗車のことを昔はこう呼んでいたそうだ)。「権利だけは主張してくる」ということでもある。それはそうだけど、どうにもできないのが現状です。「働いたら負け」というのが、ある意味本当にそうなんですよね。
ある小学校のクラスで、何かの動物を飼っているとしよう。そうだな、ウサギでもいいか。このクラスには絶対的なルールがあって、「月に一度は、ウサギと遊べる」という大原則があるとしましょう。でも、ウサギ小屋の清掃当番があって、みんな順番に当番が回ってきます。ある時、クラスで問題が持ち上がりました。
A君「オレは、清掃当番をやりたくないから、外してくれ」
クラスメート「A君、それはズルイよ。みんな平等に当番をやるんだから君もやれよ」
A君「だって、ウサギがいなくても、オレは困らないから」
クラスメート「でも、クラス全体で飼ってるんだから・・・」
A君「オレは飼ってくれ、って頼んでないし。みんなが好きで勝手に飼ってるだけだろ」
・・・・・
こうしてA君は「当番を絶対にやらない」と言いはって、みんなの意見を聞き入れようとしません。仕方なく、クラスメートたちは、当番からA君を外しました。
でも、ある日のこと、ウサギを抱きかかえているA君の姿がみんなの目に止まりました。
クラスメート「A君はウサギなんかどうでもいい、って言ってたじゃないか」
A君「ヤだな、いなくても困らない、って言ったんだよ」
クラスメート「当番に入ってないんだから、ウサギと遊ぶなよ」
A君「遊ぶのは全員の権利なんだから、いいんだよ。”クラス全員”のウサギだし」
クラスメート「だって、A君は一度も掃除してないし、ズルイぞ」
A君「ズルイもんか。ウサギを飼ってなけりゃ、オレだって遊んだりはしないさ」
クラスメート「だって、だって、・・・・」
A君「ヤだな、これはルールなの。何なら、みんなが飼うのを止めればいいんだよ」
・・・・
A君「当番やったモンの負けなの。悔しかったら、皆も同じように当番サボるか、飼うのを止めれば?」
このように、A君は勝利します(笑)。確かに当番をやった者の負けなんですね。このようなタダノリを防ぐ方法があるかというと、当番を外れた時の罰(言葉が良くないか。不利益と言うべきかな)が極めて弱いか存在しないことが、A君の戦略を可能にしてしまいます。全員が当番を放棄するか、飼うのを止めるという選択も、全員が「それを選べない」ということを知っている時、有効となります。全員が一致してA君と同じことができるかというと、それは無理な話なんですよね。こういう時には、自分勝手に振舞える人が有利になってしまいます(有利でもないね。非難が集中するけど、それをはね返せるなら問題なし。普通はかなり難しいと思うけど)。
なので、強制的な実行力のある方法で無理やり当番をさせるか、重い罰・不利益を与えない限りこれを回避することはできないんですよね。そんなことはできるはずもないんですけど。
そもそも、そういうクラスメートのことを問題にしたり、話し合う時間とか労力とかが無駄になるし、それをやったことろで「ありがた迷惑」とか「ほっといてくれ」とか永遠に分かり合えないので、結局無意味な感じになるんですよね。それもまた、「タダノリ側の勝利」に繋がるんですけど(笑)。どっちにしても、しょうがないんではないかと。