全く知らなかったのですけど、偶然発見した。
福島県で起きた産婦人科の死亡事故に関する記事が、『論座7月号』に掲載されていたらしい。
OPENDOORS:雑誌:論座
この記事を書いたライターの「とりごろう」(鳥集徹)氏がブログ(とりごろうblog)を持っていて、そこでのコメント欄に書かれた意見は考えさせられる内容だった。ブログに掲載されていたリンクで『論座』の記事を読むことができた。これには、専門の立場である医療側にも様々な意見があるだろう。また、書き手である「とりごろう」氏と医師たちとの隔たりというものも、簡単には埋められないような気がする。
話がとんでしまうが、SESC(証券取引等監視委員会、今度は「SEC」と間違えてないですよ)には以前叱咤激励した(笑)のだけれど、そのSESCが5月に出した建議では、公認会計士が処分対象になった場合に監査法人も刑事責任を負わせるべき、ということが出されていた。
耐震偽装のような故意の違反の場合に、設計事務所は刑事責任を問われるのだろうか?病院勤務医師に刑事責任が生じた場合に、病院は刑事責任を生じるのだろうか?分野は別々なのだが、似ている部分もある。それは建築士も公認会計士も医師も、みんな個人の裁量や能力とかに依存する部分が大きい、ということだ。こういう場合に、管理者である法人とか事務所とか病院などに刑事的な責任(ある意味、制裁的な罰)を求めることが、社会的にどれくらい要請されているのか、ということかな?法律上では、個人の責任として刑事責任がそれぞれ発生してしまうことになっている。
医療事故、耐震偽装や監査の不正・過失では、主にシステムの問題である、というのは、理解しやすい。それはそうなのだが、建議にも示されたように、システムの問題を当事者個人の刑事責任以外に、管理者である法人等に刑事罰を与えることがシステム上望ましいのかどうか、というのはよく判らない。
耐震偽装、虚偽監査報告や積極的安楽死のような故意ではなく、単なる過失として「結果責任」を問われる時、どれ位の範囲で刑事罰が必要なのだろうか?現在の所、公認会計士も、建築士も、医師も、実際の過失が認定されれば、個人の責任として刑事罰を与えられてしまう。「プロだから」というのは、その一番の理由なのかもしれない。特別な権利を与えられている為に、それだけの責任を負うのが当然なのだ、と言われれば、そうかもな、とも思うのだが。前置きが長くなってしまったが、そういう部分は法学とかに詳しい人々に考えて頂くとして、脇道に逸れてしまった話を戻そう。
そうした「特別な職種」の人々は、職務上の過失を法的に認定され、個人の責任として刑事・民事・行政責任を負わされることになっているのだが、翻って、例えば「ジャーナリスト」、「評論家」や「(専門家と呼ばれるような)学者」という人々はどうなのだろう?ということに、ふと思い至った。「とりごろう」氏は紛れもなく、ジャーナリストを名乗っている。そのことにも何か関係があるんじゃないか、と思えたりする。
先日、佐々木俊尚氏の記事(CNET Japan Blog - 佐々木俊尚 ジャーナリストの視点:ネット世論の「拠って立つ場所」とは)について、finalventさんが言及していた(finalventの日記 - あられもない言い方は避けるが……)のだが、そこで述べられている文言にちょっとした「ひっかかり」のようなものを感じていた。それは次の部分だ。
(佐々木氏の記事から一部抜粋)
『おそらくその正しい言説は、「ジャーナリストには他の人にはない責任がある」「ジャーナリストを自認するのであれば、責任をとらなければならない」という信念に基づいて書かれている。だが、「私が社会を負っている」という思いに基づくそれら絶対的正義に見える信念は、実のところひとつのコンテキストに過ぎない。
もちろん、ジャーナリストには責任がある――たしかにそうだ。自分自身もジャーナリストを名乗って20年近く活動してきた私も、そう思う。だったら、ジャーナリストを名乗らないブロガーには責任はないのだろうか? もし責任があるとすれば、その責任の度合いは、ジャーナリストと異なるのだろうか?
フラットなネットの地平線の中において、ジャーナリストの言説とブロガーのエントリーは相対化されつつある。その相対化されつつある現状の中で、ジャーナリストとブロガーの責任の度合いは相対化される可能性はあるのだろうか?』
私の勝手な個人的解釈で申し訳ないのだが、ある意味、「白旗」というか完全降伏宣言にも近いように感じてしまった。それは「ジャーナリスト」というある種の「プロ」ということに、自ら他の一般ブロガーとの違いなどないのではなかろうか、という問い(或いは疑問のようなもの)があるのではないか、と思えたからだ。自らの存在意義というか、その正統性を、「ブロガー」という存在と「相対化」してしまって、「フラット」に考えているのかな、と。つまり、ジャーナリスト個人は、数百万人もいるブロガーの中の1人に過ぎず、その中で割りと知られたブロガーの中に組み込まれている、というような意味なのかと思えた。
上述した前置きの中で、建築士や公認会計士や医師といった特殊なプロの人間なら、個人的に負うべき責任には相当のリスクがある。それは日常の職務の中に当然包埋されているのだ。ところが、メディアの人間―新聞記者やテレビの人や雑誌記者、フリージャーナリストのような人たち―は、通常の業務の中では個人が「法的責任」というものを負っていないことが普通なのだ。せいぜいが「名誉毀損」という程度なのではないだろうか。これは一般人のHPだろうが、ブログだろうが、法的な責任の範囲には大きな違いなどないように思える。つまり、メディアの人間だからといって、特別な責任を負うことはないのだ。何を書こうが、何を報道しようが、何を言おうが、関係がないということである。彼らは日常的な職務の中に、自らの法的リスクを負うことなどないのだ。
医師が患者を救えず死なせてしまったら、警察や検察の取調も受けるし、裁判にもかけられるし、過失が認定されれば刑事罰を受けねばならない。そうなれば勿論、民事上も賠償責任を負わされるし、行政処分も受けねばならない。しかし、ジャーナリストはそういう心配がない。掲示板などにいい加減なことを書き込んだり脅迫めいたことを書いて逮捕される人がいたりするが、そういうのと同じレベルの注意義務で済むのだ。法的責任には、ジャーナリストと一般個人に特段の違いなど存在しないと思える。むしろ、メディアの方が有利な場合もあるかもしれない。個人で弁護士を雇わなくていいし(これは全然関係ないけど、笑)。
要するに、メディアの人々は何かの「プロ」っぽく見せてるけれども、その割りに負ってる責任があんまりなくて、結果責任を問われることがない、というのが多いのだと思う。そのことへの反発というか、ネットやブログの登場で多数の一般個人が「(法的責任の代わりに)裁定を下す」ということになってきたのではないか、ということなのかもしれない。ダイレクトに「結果責任」が問われたりするようになり、そういう大衆側の批判を、従来は「プロ」側にいた人々が単に知る機会がなかったのだが、それが「見える形」で知ることができるようになってきた、ということだと思う。なので、多くの一般人が著名人のブログなんかに色々と言ったりするのは、そうした結果責任を求めているのだろうと思う。花岡氏の所のコメントスクラムだか、炎上だかも、そういったものなのかもしれない。全く読んでないから、知らないのだけれど。
「評論家」や「学者」といった人々も、メディアの人たちや「ジャーナリスト」たちと似ていて、あまり結果責任を問われることがなかった。研究面では多少は出てきたかもしれないが、批判に耐えうるような成果を出しているかといえば、必ずしもそうではないかもしれない。だが公認会計士は、「結果が全て」と言っても過言ではない。過誤があり過失認定されると、下手すりゃ会社ごと業界から消滅する危機を常に背負うことになっているのだ。そういうリスクを背負いながら日常の職務を行っているか、という部分で、ジャーナリストや評論家等は緊張感が少なく、あまりに「ヌルイ」、と感じてしまう。
そこに、プロ意識―プロフェッショナルとしての高い志、誇り、職務遂行能力、倫理観や使命感・・・等々―の欠落というものが、一般大衆から見ても感じられる、ということで、ブロガー・ネット住人たちの佐々木氏や花岡氏等への批判となって顕在化したのかもしれない。そうしたプロ意識の希薄化は、佐々木氏の記事に書かれた『その責任の度合いには、ジャーナリストと異なるのだろうか?』という自問に繋がっているのではないか、と思う。それか、旧来のジャーナリストの能力よりも優れたor影響力の大きな一般個人が存在する、と認めてしまっているのかもしれない。それはまるで、公認会計士が行う業務なのに、それ以上に優れた仕事ができてしまう普通の個人がいて、同じ責任を負うことを求めるようなものではないかと思える。
一部のフリージャーナリストのような場合だと、単なる個人事業主のようなものなので、いつも不評であったりすれば、それ以後仕事が入ってこなくなるかもしれない。けれども、それは下請け的な業界の仕組みに過ぎず、結果責任という部分では、新聞社やその他メディアの記者等が相応のリスクを背負って仕事をしているかというと、それはあまりないのではないかと思われる。ごく一部の社員の過失という責任を問われて、新聞社やテレビ局が業界から消滅する訳ではないからだ。
ジャーナリストの個人的な意見表明すら不可能なのか?という問いもあるかもしれない。必ずしも原稿料というような対価を受け取っていない場合があるからだ。通常は、個人の考えを述べることは自由だろう。例えば政治的態度・信条や宗教的信条などの表明があるかもしれない。しかし、そこには「公表」というハードルがあるわけで、その意図は「自由に評価してくれ」ということでもある。従って、「勝手に評価するな」ということを読み手に求めたりしても、ほとんど意味がない。純粋に個人的感情や意見などを述べたいのであれば、匿名でやるか、世の中に公表されている自分の名前から完全に離れて行う以外にないと思う。そもそも対価を得ずとも公表するという措置を選択するのは何か別な目的があるからであって、そこには各人異なった色々なものがあるだろう。ジャーナリストのそうした意図を全て汲み取れ、というのは、難しいのではないかと思う。なので、自分の評価をして欲しくない部分については、公表するべきではないだろう。どんなに「ジャーナリストの○○ではない、全くの普通の個人の意見なのだ」と言ってみたとしても、読み手は同一の人物を重ねてしまうだろうし、その評価は「ジャーナリストの○○」として行ってしまうことが多いと思う。
メディア関係の人々やジャーナリストたちへの一般からの責任を問う声や批判が多いのは、ジャーナリストの資格というか要件が建築士や公認会計士や医師のように法的に規定されているものでもないにも関わらず、「特権的」な振る舞いや影響力行使ということが行われるからであろう。
昨日たまたま仕事のコモディティー化を書いたのだが、どうやらここにも代替可能な職業が出現しつつあるのかもしれない。コモディティー化の波に飲み込まれていくのは、ジャーナリストということになるのだろうか。
佐々木氏や「とりごろう」氏の記事をたまたま取り上げたのだが、これは彼らの姿勢や記事の中身についてまで非難をするつもりなのではない。いい仕事をしたい、というような思いはきっとあるはずで、それがなければ彼らを駆り立てる何か、取材をして原稿を書いていくエネルギーは持続できないであろうことは想像できる。
しかし、「フラット」な言説の中に、ジャーナリストたちが埋没してくのであれば、それも仕方のないことなのだろうと思っている。それを招いたのは、彼ら自身だからだ。そういうレベルに堕していったのは、彼ら自身であり、「消費される言葉の濁流」に身を任せてきたのは、メディア業界そのものだろう。だが、私の個人的な印象を言えば、プロのジャーナリストたちが絶滅するとは考えていない。それは、自らの生命を賭してまで、世界に「真実」を伝えようとした先人たちがこれまで存在してきたからであり、その歴史が簡単には押し流されたりしないはずだと信じたい、という思いが心の何処かにあるからなのかもしれない。
見えない真実を浮かび上がらせる作業というのは、甚だ困難なことだろうと思う。絡んだ糸をほぐし、無関係に見える事柄を丹念に紡いだりしながら、一つひとつの事実を積み上げていくということを、素人ブロガーたちが本当にでき得るのか、ということでもある。多くの人々が見過ごして気付かない、或いは、事実が悪意によって覆い隠されている時、真実へと先導し、人々の目を開かせるのが、プロの役割ではないのか。
素人ブロガーたち以下の言説しか持てないジャーナリストしか存在しなくなれば、全て代替されるだろう。プロとしての仕事を自らが作り上げていかない限り、いずれ絶滅の危機に晒されるだろう。
付記:
上の内容とは直接に関係しないのですが、ちょっと触れておきたい。
私の中では、finalventさんの書いている記事の意味がよく理解できていなかった。多分、「ことのは問題」からは距離を置いていて、中身を殆ど見てないということもある。それ以上に、難解な、というか、示唆的な感じなので、実はよく消化できていない。
しかし、次の言葉には、自分の中に自然に吸い込まれるという感覚が、なんとなくある。
『ブロガーはジャーナリズムのプロではない。』
『ブログの言葉のなかに友愛と連帯を通してどのような意見のぶつかり合いと合意があるかが問われている。』
福島県で起きた産婦人科の死亡事故に関する記事が、『論座7月号』に掲載されていたらしい。
OPENDOORS:雑誌:論座
この記事を書いたライターの「とりごろう」(鳥集徹)氏がブログ(とりごろうblog)を持っていて、そこでのコメント欄に書かれた意見は考えさせられる内容だった。ブログに掲載されていたリンクで『論座』の記事を読むことができた。これには、専門の立場である医療側にも様々な意見があるだろう。また、書き手である「とりごろう」氏と医師たちとの隔たりというものも、簡単には埋められないような気がする。
話がとんでしまうが、SESC(証券取引等監視委員会、今度は「SEC」と間違えてないですよ)には以前叱咤激励した(笑)のだけれど、そのSESCが5月に出した建議では、公認会計士が処分対象になった場合に監査法人も刑事責任を負わせるべき、ということが出されていた。
耐震偽装のような故意の違反の場合に、設計事務所は刑事責任を問われるのだろうか?病院勤務医師に刑事責任が生じた場合に、病院は刑事責任を生じるのだろうか?分野は別々なのだが、似ている部分もある。それは建築士も公認会計士も医師も、みんな個人の裁量や能力とかに依存する部分が大きい、ということだ。こういう場合に、管理者である法人とか事務所とか病院などに刑事的な責任(ある意味、制裁的な罰)を求めることが、社会的にどれくらい要請されているのか、ということかな?法律上では、個人の責任として刑事責任がそれぞれ発生してしまうことになっている。
医療事故、耐震偽装や監査の不正・過失では、主にシステムの問題である、というのは、理解しやすい。それはそうなのだが、建議にも示されたように、システムの問題を当事者個人の刑事責任以外に、管理者である法人等に刑事罰を与えることがシステム上望ましいのかどうか、というのはよく判らない。
耐震偽装、虚偽監査報告や積極的安楽死のような故意ではなく、単なる過失として「結果責任」を問われる時、どれ位の範囲で刑事罰が必要なのだろうか?現在の所、公認会計士も、建築士も、医師も、実際の過失が認定されれば、個人の責任として刑事罰を与えられてしまう。「プロだから」というのは、その一番の理由なのかもしれない。特別な権利を与えられている為に、それだけの責任を負うのが当然なのだ、と言われれば、そうかもな、とも思うのだが。前置きが長くなってしまったが、そういう部分は法学とかに詳しい人々に考えて頂くとして、脇道に逸れてしまった話を戻そう。
そうした「特別な職種」の人々は、職務上の過失を法的に認定され、個人の責任として刑事・民事・行政責任を負わされることになっているのだが、翻って、例えば「ジャーナリスト」、「評論家」や「(専門家と呼ばれるような)学者」という人々はどうなのだろう?ということに、ふと思い至った。「とりごろう」氏は紛れもなく、ジャーナリストを名乗っている。そのことにも何か関係があるんじゃないか、と思えたりする。
先日、佐々木俊尚氏の記事(CNET Japan Blog - 佐々木俊尚 ジャーナリストの視点:ネット世論の「拠って立つ場所」とは)について、finalventさんが言及していた(finalventの日記 - あられもない言い方は避けるが……)のだが、そこで述べられている文言にちょっとした「ひっかかり」のようなものを感じていた。それは次の部分だ。
(佐々木氏の記事から一部抜粋)
『おそらくその正しい言説は、「ジャーナリストには他の人にはない責任がある」「ジャーナリストを自認するのであれば、責任をとらなければならない」という信念に基づいて書かれている。だが、「私が社会を負っている」という思いに基づくそれら絶対的正義に見える信念は、実のところひとつのコンテキストに過ぎない。
もちろん、ジャーナリストには責任がある――たしかにそうだ。自分自身もジャーナリストを名乗って20年近く活動してきた私も、そう思う。だったら、ジャーナリストを名乗らないブロガーには責任はないのだろうか? もし責任があるとすれば、その責任の度合いは、ジャーナリストと異なるのだろうか?
フラットなネットの地平線の中において、ジャーナリストの言説とブロガーのエントリーは相対化されつつある。その相対化されつつある現状の中で、ジャーナリストとブロガーの責任の度合いは相対化される可能性はあるのだろうか?』
私の勝手な個人的解釈で申し訳ないのだが、ある意味、「白旗」というか完全降伏宣言にも近いように感じてしまった。それは「ジャーナリスト」というある種の「プロ」ということに、自ら他の一般ブロガーとの違いなどないのではなかろうか、という問い(或いは疑問のようなもの)があるのではないか、と思えたからだ。自らの存在意義というか、その正統性を、「ブロガー」という存在と「相対化」してしまって、「フラット」に考えているのかな、と。つまり、ジャーナリスト個人は、数百万人もいるブロガーの中の1人に過ぎず、その中で割りと知られたブロガーの中に組み込まれている、というような意味なのかと思えた。
上述した前置きの中で、建築士や公認会計士や医師といった特殊なプロの人間なら、個人的に負うべき責任には相当のリスクがある。それは日常の職務の中に当然包埋されているのだ。ところが、メディアの人間―新聞記者やテレビの人や雑誌記者、フリージャーナリストのような人たち―は、通常の業務の中では個人が「法的責任」というものを負っていないことが普通なのだ。せいぜいが「名誉毀損」という程度なのではないだろうか。これは一般人のHPだろうが、ブログだろうが、法的な責任の範囲には大きな違いなどないように思える。つまり、メディアの人間だからといって、特別な責任を負うことはないのだ。何を書こうが、何を報道しようが、何を言おうが、関係がないということである。彼らは日常的な職務の中に、自らの法的リスクを負うことなどないのだ。
医師が患者を救えず死なせてしまったら、警察や検察の取調も受けるし、裁判にもかけられるし、過失が認定されれば刑事罰を受けねばならない。そうなれば勿論、民事上も賠償責任を負わされるし、行政処分も受けねばならない。しかし、ジャーナリストはそういう心配がない。掲示板などにいい加減なことを書き込んだり脅迫めいたことを書いて逮捕される人がいたりするが、そういうのと同じレベルの注意義務で済むのだ。法的責任には、ジャーナリストと一般個人に特段の違いなど存在しないと思える。むしろ、メディアの方が有利な場合もあるかもしれない。個人で弁護士を雇わなくていいし(これは全然関係ないけど、笑)。
要するに、メディアの人々は何かの「プロ」っぽく見せてるけれども、その割りに負ってる責任があんまりなくて、結果責任を問われることがない、というのが多いのだと思う。そのことへの反発というか、ネットやブログの登場で多数の一般個人が「(法的責任の代わりに)裁定を下す」ということになってきたのではないか、ということなのかもしれない。ダイレクトに「結果責任」が問われたりするようになり、そういう大衆側の批判を、従来は「プロ」側にいた人々が単に知る機会がなかったのだが、それが「見える形」で知ることができるようになってきた、ということだと思う。なので、多くの一般人が著名人のブログなんかに色々と言ったりするのは、そうした結果責任を求めているのだろうと思う。花岡氏の所のコメントスクラムだか、炎上だかも、そういったものなのかもしれない。全く読んでないから、知らないのだけれど。
「評論家」や「学者」といった人々も、メディアの人たちや「ジャーナリスト」たちと似ていて、あまり結果責任を問われることがなかった。研究面では多少は出てきたかもしれないが、批判に耐えうるような成果を出しているかといえば、必ずしもそうではないかもしれない。だが公認会計士は、「結果が全て」と言っても過言ではない。過誤があり過失認定されると、下手すりゃ会社ごと業界から消滅する危機を常に背負うことになっているのだ。そういうリスクを背負いながら日常の職務を行っているか、という部分で、ジャーナリストや評論家等は緊張感が少なく、あまりに「ヌルイ」、と感じてしまう。
そこに、プロ意識―プロフェッショナルとしての高い志、誇り、職務遂行能力、倫理観や使命感・・・等々―の欠落というものが、一般大衆から見ても感じられる、ということで、ブロガー・ネット住人たちの佐々木氏や花岡氏等への批判となって顕在化したのかもしれない。そうしたプロ意識の希薄化は、佐々木氏の記事に書かれた『その責任の度合いには、ジャーナリストと異なるのだろうか?』という自問に繋がっているのではないか、と思う。それか、旧来のジャーナリストの能力よりも優れたor影響力の大きな一般個人が存在する、と認めてしまっているのかもしれない。それはまるで、公認会計士が行う業務なのに、それ以上に優れた仕事ができてしまう普通の個人がいて、同じ責任を負うことを求めるようなものではないかと思える。
一部のフリージャーナリストのような場合だと、単なる個人事業主のようなものなので、いつも不評であったりすれば、それ以後仕事が入ってこなくなるかもしれない。けれども、それは下請け的な業界の仕組みに過ぎず、結果責任という部分では、新聞社やその他メディアの記者等が相応のリスクを背負って仕事をしているかというと、それはあまりないのではないかと思われる。ごく一部の社員の過失という責任を問われて、新聞社やテレビ局が業界から消滅する訳ではないからだ。
ジャーナリストの個人的な意見表明すら不可能なのか?という問いもあるかもしれない。必ずしも原稿料というような対価を受け取っていない場合があるからだ。通常は、個人の考えを述べることは自由だろう。例えば政治的態度・信条や宗教的信条などの表明があるかもしれない。しかし、そこには「公表」というハードルがあるわけで、その意図は「自由に評価してくれ」ということでもある。従って、「勝手に評価するな」ということを読み手に求めたりしても、ほとんど意味がない。純粋に個人的感情や意見などを述べたいのであれば、匿名でやるか、世の中に公表されている自分の名前から完全に離れて行う以外にないと思う。そもそも対価を得ずとも公表するという措置を選択するのは何か別な目的があるからであって、そこには各人異なった色々なものがあるだろう。ジャーナリストのそうした意図を全て汲み取れ、というのは、難しいのではないかと思う。なので、自分の評価をして欲しくない部分については、公表するべきではないだろう。どんなに「ジャーナリストの○○ではない、全くの普通の個人の意見なのだ」と言ってみたとしても、読み手は同一の人物を重ねてしまうだろうし、その評価は「ジャーナリストの○○」として行ってしまうことが多いと思う。
メディア関係の人々やジャーナリストたちへの一般からの責任を問う声や批判が多いのは、ジャーナリストの資格というか要件が建築士や公認会計士や医師のように法的に規定されているものでもないにも関わらず、「特権的」な振る舞いや影響力行使ということが行われるからであろう。
昨日たまたま仕事のコモディティー化を書いたのだが、どうやらここにも代替可能な職業が出現しつつあるのかもしれない。コモディティー化の波に飲み込まれていくのは、ジャーナリストということになるのだろうか。
佐々木氏や「とりごろう」氏の記事をたまたま取り上げたのだが、これは彼らの姿勢や記事の中身についてまで非難をするつもりなのではない。いい仕事をしたい、というような思いはきっとあるはずで、それがなければ彼らを駆り立てる何か、取材をして原稿を書いていくエネルギーは持続できないであろうことは想像できる。
しかし、「フラット」な言説の中に、ジャーナリストたちが埋没してくのであれば、それも仕方のないことなのだろうと思っている。それを招いたのは、彼ら自身だからだ。そういうレベルに堕していったのは、彼ら自身であり、「消費される言葉の濁流」に身を任せてきたのは、メディア業界そのものだろう。だが、私の個人的な印象を言えば、プロのジャーナリストたちが絶滅するとは考えていない。それは、自らの生命を賭してまで、世界に「真実」を伝えようとした先人たちがこれまで存在してきたからであり、その歴史が簡単には押し流されたりしないはずだと信じたい、という思いが心の何処かにあるからなのかもしれない。
見えない真実を浮かび上がらせる作業というのは、甚だ困難なことだろうと思う。絡んだ糸をほぐし、無関係に見える事柄を丹念に紡いだりしながら、一つひとつの事実を積み上げていくということを、素人ブロガーたちが本当にでき得るのか、ということでもある。多くの人々が見過ごして気付かない、或いは、事実が悪意によって覆い隠されている時、真実へと先導し、人々の目を開かせるのが、プロの役割ではないのか。
素人ブロガーたち以下の言説しか持てないジャーナリストしか存在しなくなれば、全て代替されるだろう。プロとしての仕事を自らが作り上げていかない限り、いずれ絶滅の危機に晒されるだろう。
付記:
上の内容とは直接に関係しないのですが、ちょっと触れておきたい。
私の中では、finalventさんの書いている記事の意味がよく理解できていなかった。多分、「ことのは問題」からは距離を置いていて、中身を殆ど見てないということもある。それ以上に、難解な、というか、示唆的な感じなので、実はよく消化できていない。
しかし、次の言葉には、自分の中に自然に吸い込まれるという感覚が、なんとなくある。
『ブロガーはジャーナリズムのプロではない。』
『ブログの言葉のなかに友愛と連帯を通してどのような意見のぶつかり合いと合意があるかが問われている。』