sociologicさん経由で発見。
日本でも結構当てはまると思うけど・・・ふーむ、今の学生さんたちはどう思っているんでしょうか。
コンピューターに駆逐されない仕事を選ぶには ロバート・シラー:NBonline日経ビジネス オンライン
(記事より一部引用、引用部は『 』)
『学生たちによれば、現代の情報技術(IT)主導のグローバル経済では、仕事の「コモディティー(日用品)化」が進むという懸念が広がっているという。数年後には、高度な技術を有する者ですら無差別に雇われたり解雇されたりして、まるで大量の銅や箱入り冷凍七面鳥のように売買されるようになる。
(中略)
中には、「売買」されるより売ったり買ったりする方がよいと考えて、経営や金融、あるいは法律の分野の能力を身につけるべきだと判断する学生がいる。学生たちは管理される側ではなく、管理する側にいられるような能力や、国際レベルでも通用し、雇用の安定や将来性が見込めるスキルを求めている。一方、医学やエンジニアリングのような職業━━国際経済の舵取りには役立ちそうにない非常に専門的な技術的知識を含め━━が特にコモディティー化に弱いと考えている。』
これを見れば、労働力が消耗品の一部に過ぎないということなのかもしれない。前にも書いたが、仮に全員が同じ教育を受け、同じような職業能力を身に付けていたとしても、全員がアナウンサー、医者や弁護士とかその他高給取りにはなれないのです。なれるのは一部の人たちだけなのですよ。他の余った人々は、たとえ大学卒だろうが、大学院卒だろうが、安い給料の仕事に就く以外にないんですよ。イスの数には限りがあるのですから。
なので、どんな教育制度であっても、有利なイスの争奪戦になるだろうな、と。そして、冷凍七面鳥のように売買される労働力になるよりも、売買する側に回る為の戦略が必要になるということですね。その時に有利なのは、「国際経済の舵取りに役立つスキル」ということですか。シラー先生のような経済学者が言うから(笑)ではないかとも思えますが、それを考慮しても、やはり国際的な「経営・金融・法律」という分野が強そう、ということですね。
理想例を考えると、「各国の税務・会計制度に精通した国際弁護士が、自ら金融コンサルタント業を営む経営者である場合」という感じでしょうか。このような人ならば、将来に渡って生き残れる可能性が高く、「コモディティー化」の波からは逃れられうる、ということですね。ふーむ、私は最初から道の選択を誤ってしまったようです(笑)。歳が歳だけに、あと40年とか残ってるわけじゃないから、いいよ別に。負け惜しみっぽい?そうだよね(笑)。
で、逆に「コモディティー化」されやすいのは、「医療」と「専門的エンジニアリング」ということだそうですよ!そうか、理系は厳しいのか。金融と法律、これ最強。これの駆使に精通していれば、某ファンドのような敗北はないし、グローバルな戦場で「ガッポリ」稼げる公算が高そう、ということですね。
超天才が最強プログラムを作ったりできないのかな?人間が取引すると感情や誤った判断などが存在することになるけど、純粋なプログラムによる取引だけならば「弱気」も「強気」もないし、数値的に計測されたものだけで取引されるよね。でも、そういうのが難しいのと、LTCMの破綻で見られたような失敗もあるから、理論通りというのは案外難しいのかもしれないし。遠い未来に、人間が一切取引しなくなれば、全部が同じようなプログラムを用いるようになる為に、それこそ「買い」か「売り」しか存在しなくなって、取引が成立しなくなるのでは?答えが完全に一致してしまうから。
バラツキがあることに意味があるのかもしれないですよね。
話が大きく逸れましたけれども、コンピュータに代替されないで残る部分というのは次の二つだと述べられています。
『レヴィとマーネインによれば、重要なことは、最も将来有望な職業は、「優れた思考法」と「複雑なコミュニケーション能力」のどちらかに立脚しているものだ、という点である。』
「優れた思考法」と「複雑なコミュニケーション能力」を身につけることが大切なのだ、と。では、この能力とはどうやったら身につけられるのか?その問いには、次のような回答が用意されていた。
『学生諸君が肝に銘じるべき重要な点は、最終的にどんな分野を選ぼうと、真のエキスパートとしての役割を全うするには、今学んでいる学問を丸暗記ではなく、深く理解できるよう意欲を持って取り組むべきだということである。同時に、コミュニケーション能力の習得も怠ってはいけない。これも同じように出世には欠かせない。
このような類の教育を修めるのは、恐らくそれが金融であろうと生理学であろうと、本人が興味があって面白いと思うことの追究を意味している。学生たちは心配ばかりしていないで、好きな分野の学問に没頭し、そうさせてくれた人々に感謝すべきだ。手の届かない贅沢と思われかねないことが本当は、拒絶できない必需品なのである。』
結局、知的探究心のようなもの、その方向性は「いかに自分が面白いと思うか」というようなことなのだろうと思う。仕事のコモディティー化を心配するよりも、はるかに意味があるだろう。
内田先生の記事でも、ちょっと関連した話が出てた。
内田樹の研究室 代々木ゼミナールにて
『報告したいことはたくさんあるのだけれど、とりあえず重要な論点ひとつだけご報告しておこう。
それはこれから先、大学の階層化が進行するということである。「大学淘汰」というが、淘汰という場合は「生き残る大学」と「滅びる大学」の二分法であるが、それに先行して、それに並行して、「大学らしい大学」と「大学らしくない大学」の二分化が進む。「大学らしくない大学」にも生き残る可能性があるように、「大学らしい大学」であっても淘汰される可能性がある。
「大学らしくない大学」とは専門学校化した大学である。
大学の専門学校化と専門学校の大学化は同時に進行している。ご存じのとおり、過去10年間で18歳人口は30%以上減少しているのに、大学の数は132校も増えている。新設大学は医療・看護・福祉系が圧倒的に多い。これらは主に「スキル」と「資格」を提供するための機関である。専門学校化した大学では「老舗の暖簾」やブランド・イメージや人間的ネットワークはほとんど意味を持たない。学生たちが欲しいのは卒業時における「スキル」であり「情報」であり「資格」であるのだから、入学偏差値が低く、サービスがよく、立地のよい大学(つまり「勉強と教育投資」というコストに対する費用対効果がすぐれた大学)が選択されるのは当然のことである。』
確かに大学教育というものが何なのか、という基本的な問いがあるかもしれない。
「優れた思考法」や「複雑なコミュニケーション能力」というのは、たった1人で本を読んで勉強を続けたとしても、必ずしも培われないものだと思う。大学教育はそういった能力を育てる場のはずだが、現実にはどうなんだろうか。大学教官という特別な”人種”にも、色々あると思うしね。必ずしも、「人生の出会い」をもたらすような教官ばかりとも言えないし、教官自身のコミュニケーション能力に大いに問題がある場合も少なくないかもしれないしね。
あと、「老舗の暖簾」だけに安住しようとする大学もまた、淘汰されて然るべきではないかと思える。新興勢力というのは、参入直後から「老舗ブランド」ではない為に、そこでの競争は不利に決まっているのだから。当然他の部分で勝負をしようと挑んでくるに決まっていると思える。スキル重視の医療・看護・福祉系大学にしたって、上記記事によれば「コモディティー化」からは逃れられないばかりか、他の業種に比べると「弱い」のであるから、相当数が淘汰されていくだろう。前にちょっと書いたが、アメリカのメディカル・スクールは20世紀前半では乱立していたけれども、その多くが淘汰されたはずです。教育水準が高い学校だけが生き延び、その結果「世界最低水準」と恐れられていた米国の医療レベル(笑)は向上したらしい。
学校のブランドというのは、そのブランドがある水準の「品質」を示しており、その品質に価値が認められるから「ブランド価値」があるのだろうと思う。「老舗の暖簾」とは、暗黙の信頼性ということであって、経験則による「品質」水準の評価なのではないだろうか。当然「品質」とは、提供される教育水準であり、その教育成果であるところの「学生」の水準であると思う。暗黙の信頼性でみれば、そこの卒業生ならば「まあ、ハズレは少ない」とか、「比較的安心」「大体この程度のレベル」といった評価が存在する、ということだと思う。そういう暗黙の信頼性が損なわれたり、「品質管理」に失敗した学校は、評価が下げられて当然であろう。
ただし、「ブランド最強」ということであるならば、やはり「東大」「慶応」「早稲田」みたいな有名ブランド校に「入ること」が目的化してしまい、大学教育というのが「何なのか」ということには中々辿り着けないかもしれません。学生時代という期間も、同じ先生から授業を受ける期間も結構短いからね。それはそれで、仕方がないかな。高校生とかそれくらいでそういうことを考えられる方が、特別なのかもしれません。
まずは、「よくわからんけど、入ってみたい」ということで大学に入ってみて、とりあえず一生懸命やっているうちに、「先生が好きだから」とか、「誰(or何)かに出会ったから」とか、「自分の興味の方向に気付いたから」とか、そういう変化がやってくるかもしれない、と思ってみるくらいなのかな・・・。よく考えると、会社に入るのもそうかも。入ってみて、実際やってみなけりゃ、よく判らんものね(笑)。
日本でも結構当てはまると思うけど・・・ふーむ、今の学生さんたちはどう思っているんでしょうか。
コンピューターに駆逐されない仕事を選ぶには ロバート・シラー:NBonline日経ビジネス オンライン
(記事より一部引用、引用部は『 』)
『学生たちによれば、現代の情報技術(IT)主導のグローバル経済では、仕事の「コモディティー(日用品)化」が進むという懸念が広がっているという。数年後には、高度な技術を有する者ですら無差別に雇われたり解雇されたりして、まるで大量の銅や箱入り冷凍七面鳥のように売買されるようになる。
(中略)
中には、「売買」されるより売ったり買ったりする方がよいと考えて、経営や金融、あるいは法律の分野の能力を身につけるべきだと判断する学生がいる。学生たちは管理される側ではなく、管理する側にいられるような能力や、国際レベルでも通用し、雇用の安定や将来性が見込めるスキルを求めている。一方、医学やエンジニアリングのような職業━━国際経済の舵取りには役立ちそうにない非常に専門的な技術的知識を含め━━が特にコモディティー化に弱いと考えている。』
これを見れば、労働力が消耗品の一部に過ぎないということなのかもしれない。前にも書いたが、仮に全員が同じ教育を受け、同じような職業能力を身に付けていたとしても、全員がアナウンサー、医者や弁護士とかその他高給取りにはなれないのです。なれるのは一部の人たちだけなのですよ。他の余った人々は、たとえ大学卒だろうが、大学院卒だろうが、安い給料の仕事に就く以外にないんですよ。イスの数には限りがあるのですから。
なので、どんな教育制度であっても、有利なイスの争奪戦になるだろうな、と。そして、冷凍七面鳥のように売買される労働力になるよりも、売買する側に回る為の戦略が必要になるということですね。その時に有利なのは、「国際経済の舵取りに役立つスキル」ということですか。シラー先生のような経済学者が言うから(笑)ではないかとも思えますが、それを考慮しても、やはり国際的な「経営・金融・法律」という分野が強そう、ということですね。
理想例を考えると、「各国の税務・会計制度に精通した国際弁護士が、自ら金融コンサルタント業を営む経営者である場合」という感じでしょうか。このような人ならば、将来に渡って生き残れる可能性が高く、「コモディティー化」の波からは逃れられうる、ということですね。ふーむ、私は最初から道の選択を誤ってしまったようです(笑)。歳が歳だけに、あと40年とか残ってるわけじゃないから、いいよ別に。負け惜しみっぽい?そうだよね(笑)。
で、逆に「コモディティー化」されやすいのは、「医療」と「専門的エンジニアリング」ということだそうですよ!そうか、理系は厳しいのか。金融と法律、これ最強。これの駆使に精通していれば、某ファンドのような敗北はないし、グローバルな戦場で「ガッポリ」稼げる公算が高そう、ということですね。
超天才が最強プログラムを作ったりできないのかな?人間が取引すると感情や誤った判断などが存在することになるけど、純粋なプログラムによる取引だけならば「弱気」も「強気」もないし、数値的に計測されたものだけで取引されるよね。でも、そういうのが難しいのと、LTCMの破綻で見られたような失敗もあるから、理論通りというのは案外難しいのかもしれないし。遠い未来に、人間が一切取引しなくなれば、全部が同じようなプログラムを用いるようになる為に、それこそ「買い」か「売り」しか存在しなくなって、取引が成立しなくなるのでは?答えが完全に一致してしまうから。
バラツキがあることに意味があるのかもしれないですよね。
話が大きく逸れましたけれども、コンピュータに代替されないで残る部分というのは次の二つだと述べられています。
『レヴィとマーネインによれば、重要なことは、最も将来有望な職業は、「優れた思考法」と「複雑なコミュニケーション能力」のどちらかに立脚しているものだ、という点である。』
「優れた思考法」と「複雑なコミュニケーション能力」を身につけることが大切なのだ、と。では、この能力とはどうやったら身につけられるのか?その問いには、次のような回答が用意されていた。
『学生諸君が肝に銘じるべき重要な点は、最終的にどんな分野を選ぼうと、真のエキスパートとしての役割を全うするには、今学んでいる学問を丸暗記ではなく、深く理解できるよう意欲を持って取り組むべきだということである。同時に、コミュニケーション能力の習得も怠ってはいけない。これも同じように出世には欠かせない。
このような類の教育を修めるのは、恐らくそれが金融であろうと生理学であろうと、本人が興味があって面白いと思うことの追究を意味している。学生たちは心配ばかりしていないで、好きな分野の学問に没頭し、そうさせてくれた人々に感謝すべきだ。手の届かない贅沢と思われかねないことが本当は、拒絶できない必需品なのである。』
結局、知的探究心のようなもの、その方向性は「いかに自分が面白いと思うか」というようなことなのだろうと思う。仕事のコモディティー化を心配するよりも、はるかに意味があるだろう。
内田先生の記事でも、ちょっと関連した話が出てた。
内田樹の研究室 代々木ゼミナールにて
『報告したいことはたくさんあるのだけれど、とりあえず重要な論点ひとつだけご報告しておこう。
それはこれから先、大学の階層化が進行するということである。「大学淘汰」というが、淘汰という場合は「生き残る大学」と「滅びる大学」の二分法であるが、それに先行して、それに並行して、「大学らしい大学」と「大学らしくない大学」の二分化が進む。「大学らしくない大学」にも生き残る可能性があるように、「大学らしい大学」であっても淘汰される可能性がある。
「大学らしくない大学」とは専門学校化した大学である。
大学の専門学校化と専門学校の大学化は同時に進行している。ご存じのとおり、過去10年間で18歳人口は30%以上減少しているのに、大学の数は132校も増えている。新設大学は医療・看護・福祉系が圧倒的に多い。これらは主に「スキル」と「資格」を提供するための機関である。専門学校化した大学では「老舗の暖簾」やブランド・イメージや人間的ネットワークはほとんど意味を持たない。学生たちが欲しいのは卒業時における「スキル」であり「情報」であり「資格」であるのだから、入学偏差値が低く、サービスがよく、立地のよい大学(つまり「勉強と教育投資」というコストに対する費用対効果がすぐれた大学)が選択されるのは当然のことである。』
確かに大学教育というものが何なのか、という基本的な問いがあるかもしれない。
「優れた思考法」や「複雑なコミュニケーション能力」というのは、たった1人で本を読んで勉強を続けたとしても、必ずしも培われないものだと思う。大学教育はそういった能力を育てる場のはずだが、現実にはどうなんだろうか。大学教官という特別な”人種”にも、色々あると思うしね。必ずしも、「人生の出会い」をもたらすような教官ばかりとも言えないし、教官自身のコミュニケーション能力に大いに問題がある場合も少なくないかもしれないしね。
あと、「老舗の暖簾」だけに安住しようとする大学もまた、淘汰されて然るべきではないかと思える。新興勢力というのは、参入直後から「老舗ブランド」ではない為に、そこでの競争は不利に決まっているのだから。当然他の部分で勝負をしようと挑んでくるに決まっていると思える。スキル重視の医療・看護・福祉系大学にしたって、上記記事によれば「コモディティー化」からは逃れられないばかりか、他の業種に比べると「弱い」のであるから、相当数が淘汰されていくだろう。前にちょっと書いたが、アメリカのメディカル・スクールは20世紀前半では乱立していたけれども、その多くが淘汰されたはずです。教育水準が高い学校だけが生き延び、その結果「世界最低水準」と恐れられていた米国の医療レベル(笑)は向上したらしい。
学校のブランドというのは、そのブランドがある水準の「品質」を示しており、その品質に価値が認められるから「ブランド価値」があるのだろうと思う。「老舗の暖簾」とは、暗黙の信頼性ということであって、経験則による「品質」水準の評価なのではないだろうか。当然「品質」とは、提供される教育水準であり、その教育成果であるところの「学生」の水準であると思う。暗黙の信頼性でみれば、そこの卒業生ならば「まあ、ハズレは少ない」とか、「比較的安心」「大体この程度のレベル」といった評価が存在する、ということだと思う。そういう暗黙の信頼性が損なわれたり、「品質管理」に失敗した学校は、評価が下げられて当然であろう。
ただし、「ブランド最強」ということであるならば、やはり「東大」「慶応」「早稲田」みたいな有名ブランド校に「入ること」が目的化してしまい、大学教育というのが「何なのか」ということには中々辿り着けないかもしれません。学生時代という期間も、同じ先生から授業を受ける期間も結構短いからね。それはそれで、仕方がないかな。高校生とかそれくらいでそういうことを考えられる方が、特別なのかもしれません。
まずは、「よくわからんけど、入ってみたい」ということで大学に入ってみて、とりあえず一生懸命やっているうちに、「先生が好きだから」とか、「誰(or何)かに出会ったから」とか、「自分の興味の方向に気付いたから」とか、そういう変化がやってくるかもしれない、と思ってみるくらいなのかな・・・。よく考えると、会社に入るのもそうかも。入ってみて、実際やってみなけりゃ、よく判らんものね(笑)。