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上限金利問題の論点整理・2

2006年09月10日 15時39分31秒 | 社会全般
前の記事に書いたのですが、経済学的理由以外の部分は何かという指摘がありましたので、再び書いてみました。また簡潔明瞭じゃなくて申し訳ありません。


1)多重債務者は「上限引下げで救済できるのか」


これに関しては、あくまで推測でしかないでしょう。ただ、先日の毎日新聞の男性の例から見えてくることはあります。それは、借り手の資金需要と、現実の返済すべき額には大きな乖離が存在しています。そして、そのことは、債務者の収支変動に対する余力を確実に奪っていくと考えています。

(以下の利払い計算は、実際の貸金とはちょっと違ってるかもしれませんが、額がそれほど大きくは違っていないと思います)

あの男性が初期に必要とした資金は50万円に過ぎません。これを仮に5年間1162560円で購入したとみなします(当時のほぼ上限の40%とします)。月々19376円確実に支払を続ければ、返済可能です。しかし、実際には「預貯金が底をついている」とか「低所得」といったことによって、年間23万ちょっとの水準でさえ払いきれない、ということが起こってしまうのですよ。これがもしも20%ならば794820円の総支払額となり、差額367740円分は自分の生活に充てることも可能なのです。

70万円を払った(3年でこれくらいの返済額)時点で、新たな資金需要が発生してしまうと、40%ならば依然462560円残っており、そこで10万円の新たな借入をしてしまえば、3年経過時点での資金需要の実額は60万円に過ぎないのに、既返済分70万円の他に負債を約56万円以上抱えることになるのです。20%ならば、これは大きく緩和されて、残り約20万円の負債で済むのです。これから発生する利払いの差も依然として大きいのです。


元々返済余力の少ない人たちが借り手であるのに、このような返済負担の差は大きいのです。現実には、男性は約8年経過後には120万円まで負債が増えています。途中の時点で、新たな借り入れを行ったことは確かでしょうが、男性の実際に必要としていた資金需要の額は、恐らく100万円未満であると思います。しかし、8年間の支払分と、その他に120万円という負債を抱えることになっているのであり、資金需要の実額よりも、おそらく数倍に膨らんでいるのです。その後も、120万円が700万円まで膨れ上がってしまっているのです。このような需要は、男性自身の資金需要で発生しているのではありません。貸し手が大きく膨らませた結果生じているのです。貸金業界全体で、このような「債務額の拡大」というのが行われ、それを分配していってるのです。


資産のない普通の借り手であれば、実質的に必要な資金需要が1社50万円分だけだとしても、返済負担が重く返済が困難になってしまうことで、膨張スピードの方が早くなり、それを次の貸し手が「貸し出す」ことによって6社300万円まで増えてしまうようなものです。「大きく育てて、6社で回収・分配」ということをやっているのと同じようなものだ、ということです。返済負担は多くの借り手にとっては、「死活水準」なのです。

担保資産もなければ、金融資産もない世帯の返済能力を見ない金融庁のバカ官僚は、一般家庭の返済負担能力は5万円だ、とかぬかしたそうだが、年金生活者の高齢者(月7万円程度しか年金がなけりゃ、どうやって5万も返せるの?)なんかが借り手であれば、そんなに返せる訳がありません。年収200万円未満の若者にしてもそうです。「1万円」「数千円」というのでさえ困難であるのに、数万円も毎月毎月、何年間も返せないのですよ。


貸金は、こうやって借り手を太らせて、参加(貸し込み)業者も増えて、みんなで分配しているようなものです。


多重債務発生や自殺が防げるか、というのは正確に判るわけはないですが、実質的な資金需要に近い資金を満たすことができ、それが過大な負担とならない範囲であれば、恐らく減ると思っています。膨大に債務を太らされるよりも、簡易な利払い減免等の処理も可能になると思います。借り始めて短期間内での自殺というのは、恐らく少ないと思います。借入枠がいよいよ厳しくなってきて、他からの資金調達の目処がつかなくなり、度重なる取立てや長年の自転車操業という苦闘の末、遂には自殺することが多いのではないでしょうか(実態はよく知りませんが)。そういうのが現実ならば、減らせるはずです。それに負債総額が300万円に到達しているのと、50万円程度であれば、後者の方が心理的負担は少ないのではないかと思えます。「50万円なら何とか・・・」という風に考えられる余地はあるのではないかと。



2)経済学理論は全てに優先されるのか


一番不思議に思うことは、経済学理論を掲げる人々というのは、例えば「法的判断」よりも「経済学理論の方が正しい」という立場をとっているのではないかと思えることです。他の判断や価値観よりも、「明らかに優位にあるべき」ということです。

「法的には利息制限法に従うべき」
という意見に対して、

「経済学理論では利息制限法に従うのはよくない」
という意見をぶつけてくるのです。

結果、「裁判官は経済学無知だからさ」とか、「経済学理論を考えない弁護士や裁判官はアホ」という意見に結びついているように見えます。


「法学理論」という全く異なった評価・判断を必要とすることにまで、「経済学理論」の優位性を主張しているようなものです。そういう思考が全く理解できない。ハッキリ言えば、経済学徒は一体「何様のつもり?」と思っています。何度か書いてますが、経済学理論から考えられる意見というのは、「ただ一つの立場の表明」でしかありません。裁判所判断は、法に基づく判断なのであり、それに対抗するのであれば、「法学理論」という土俵上で対抗するべきでしょう。評価軸が同一の場でないなら、「経済学的立場」と「法学的立場」が互角に衝突してしまうだけで、問題解決には繋がらないでしょう。最終的には、「どの意見、立場、判断等を優先するか」ということが選択されていくのではないでしょうか。


ところが、経済学徒は違う。初めから「結論」を出しており、経済学的評価以外の評価を認めようとしないし、他の価値観は無視・侮蔑という態度しか示さない。故に、信頼することは到底できないのです。私だって、別に経済学徒の論点を好きで取り組んでいるわけではありません。彼らが「経済学という土俵」でしか、反論を認めないからです。他の理由は、全て却下されるからですよ。


現在の法体系の下では、「利息制限法に従うべき」ということは、明確になっているのです。ところが、貸金業者たちは、「刑事罰があるから出資法を守る」というだけであり、「刑事罰がないから利息制限法は守らなくてよい」という脱法行為を続けているのです。こんなことが社会規範において、許されるべきと思いますか?違法行為は違法に決まっているではありませんか。そんなの、経済学理論がどうのこうのなんて関係ないではありませんか。

大体、上場企業ですら、まともに利息制限法を守っているとは言えないではありませんか。そんな企業が公然と違法な企業活動が許されていいという判断を、経済学理論から導き出してくるとすれば、そのような理論はトンデモとしか思わないですね。会計監査法人に刑事罰がないからといって、監査法人は利益を優先するなら違法行為を繰り返すことが望ましい(たとえ社員が逮捕されたとしても)、などという理屈はどこにもないと思います。


タクシーに乗るとメーターが自動的に上がっていきますが、今、清算する時に支払う金額が表示され、それが2000円であるとしましょうか。あなたが支払う時の2000円のうち、支払い義務のある決められた運賃は1500円で、500円分は実はタクシー運転手へのチップで、支払は任意であるとします。まあ、経済学理論を掲げる人々は、この500円は当然払うのでしょうけど。メーターが上がっていくたびに、本当は料金を上乗せされていた、ということです。で、このチップがなければ「タクシーが営業できなくなるから」という理由で、違法なチップが上乗せされるメーターを取り付け、このタクシーの営業を認めるなんていうことは、「経済学理論」以前の問題なのです。乗客が知らないで払わされるような違法メーターは止めろ、ということです。これまでの法体系・行政の管理下において、こうした違法営業が常態化していたのであるから、遵法姿勢という点において信頼に足る業者・業界とは到底考えられず、ならば、それなりに応じた厳しい措置を取るというのは、むしろ自然な判断だと思います。旧法において、「貸金業取締法」だったのですから、取り締まる対象だというのは昔から何ら変わっていない、ということでしょうか。


勿論、上限を守って営業している消費者金融業者も存在しており、キャッシング金利を以前から18%以下でちゃんとやってきているのです。そういう業者との公平性も保てなくなると思えます。しかも、「違法メーターをなくしたら、タクシー業者が失業し、客を乗せられなくなる」とかいうのも、理論でも何でもないでしょ。他にも営業している業者がたくさんあるのですから。貸金業の一部が失業したとしても、最大でも十数万人(業界全部が失業しても)、もっと少ない可能性の方が高い。それよりも貸金で被害に遭う数の方が、圧倒的に多い。営業できなくなる、という市場からの退出を理由に反対しているのは、オカシイですね。そんなことは他業種でもあるのですから。


経済学理論だけで社会の問題解決が可能とでも思っているならば、それは大きな誤りであると思います。



3)「経済学徒が知っている」経済学理論の限界を知るべき


経済学理論は大切だ、それは理解できないわけではありません。が、それを現実世界に適用する時に、「考えるべきこと」が必ずあるはずです。ところが、経済学徒たちは「理論的に明らか」ということでしか考えられないようです。そのことが、本当に不思議でなりません。完全競争市場を想定するのは構いませんが、現実にそれは起こりえないではありませんか。そもそも、そのような架空の市場は、現実世界には存在しえません。ただ、理論を理解する上で役立つだけです。置かれている前提・条件が、あまりに違いすぎるのですよ。完全情報とか、全てに平等なアクセスなんてことが、この世の中でありますか?しかも、その理論と現実世界との乖離の程度とか、適合度とかは「誰も知らない」し、まずそれを調べてから適用するのでもないのです。「頭から」それが絶対的に正しい論理であるとして、疑わないのです。これは大学の研究者レベルでもそうなのですから、まあ、仕方がないのでしょうけど。


リンゴの落下のお話を頂いたので、それに因んで経済学徒の主張の異常さを表現してみましょうか。私自身は研究者でも何でもないので、うまく説明できないかもしれませんが、一応トライしてみます。


ニュートン力学では、所謂古典的な力学を扱います。普通は、物体が高い所から重力に従い落下すると、「位置エネルギー」は物体の「運動エネルギー」に変わりますが、エネルギー保存の法則によって「位置エネルギー」に等しいエネルギーが物体に与えられます。空から雨が降ってくる場合もこれと同じ原理であり、リンゴもそうですね。初速0のリンゴは木から落ちてくる時、位置エネルギーはリンゴの運動エネルギーとして与えられるのです。これを式で表せば次のようになります。

mgh=1/2*mv^2 (vの部分は2乗を表す)

m:質量、g:重力加速度、h:地上からの高さ


これは定式化されており、成り立つと考えられていますね。確かにその通りです。前提としては、例えば物体の大きさはゼロで受ける空気抵抗などが存在しない(正確に言えばきっと色々な条件があると思うが、とりあえず)、重力加速度は均一で一定とされています。これは「確立された理論」として、一般的には理解されていますね。経済学徒たちが言うような、「価格」「需給」などといった理屈と似ています。で、経済学徒たちの不思議なところは、これが「現実に起こっている現象」に必ず適用できる、と信じて疑わないことです。


普通、観測される現象というのは、この理論通りに起こっているかどうかはよく判らないですよね。なので、実際に測定してみたりして、理論が現実とどのように適合しているか、何が異なる要因なのか、などといったことを調べるのです。すると、実際の出来事とは、若干違うんじゃないか、と疑問も出てくるのです。ところが、経済学徒たちは、「これは理論的にも実証的にも正しい、明らか」と豪語するんですよ。本当にそうなの?


経済学徒の主張に置き換えて具体的に表現してみると、次のようなものです。

◎高度1万mから落下してくる雨滴は、エネルギー保存の法則によって位置エネルギーは全て運動エネルギーに変換されている。従って、地上(高度ゼロ)での速度は音速を超えるのが当然である。


「ええーっ?」って思うでしょ?普通。雨が降ってきた時に、そんなに速い速度の雨だれに当たったら死んでしまうよ(爆)。なので、感覚的に「それは違うんじゃないか?」と疑問を投げかけると、「いや、理論上でもこれは正しい。それが経済学の教えである」と強硬に主張するんですよ。


「そんな現象は実際に起こってないし、普段は観察できないでしょ」と言うと、
「理論的にも実証的にも明らか」とか「具体的な例を考えても意味はない」とか言うわけです。おまけに「現実の感覚、素人考えというのは、得てしてそういうものであり、理論を判っていないからそういうことを言うんだ」と主張するのですね。確かにエネルギー保存の法則とか、位置エネルギーは運動エネルギーに変換される、というのは正しいんだろうけど、実際音速の雨だれが落ちてくる現象は起こってないじゃないか、という疑問は残るわけです。すると、「高度が低いところからたまたま落下してきている滴を見ているだけだ」とか、そういうことを言うんですよ。「ニュートン力学の式を見てみろ、式を。これは多くの科学者が認めているんだから、絶対に正しい」と言うのですよ。そうは言っても、こりゃおかしいでしょ、と思うわけです。


普通ならば、「雨滴の速度を実際に計測してみよう」「高度の違いで影響があるか調べてみよう」「計測誤差とか観察方法の誤りかもしれないので、調べてみよう」とか、色々と考えるじゃないですか。経済学徒は違うんですよ。「あの式は絶対に正しい。エネルギー保存の法則も成立している」と決して譲らないんですね。でも、実際に調べて行けば、前提条件とされていた、「空気抵抗がない」ということに問題があるのではないか、ということにも行き着くわけですよね?

そういう訳で、雨滴は空気抵抗を受けるので、落下速度は一定以上の速度にはなりえず、ある高度を超える高さから落ちてきても、一定速度でしか落下してこないということが判るのです。


しかし、経済学徒は違います。まず、「教科書嫁」です。ニュートン力学を知らないからそういう疑問を言うのだ、と。いつまで経っても、「実際に観察される現象」というものを見ようとしません。前提条件が違うからではないだろうか、などとも決して考えません。「これは普通の計算テクニックであり、ニュートンの式を批判しても意味はない」というようなことを言うのですよ。


「経済学では、これが一般的だ」
これは殺し文句なのです。そこから先へは決して進めないのですよ。絶対的に正しい、と信じてるから。観察されている現象を理解しようとも思わないから。通説の理論を、「まるまま」現実世界に適用させられる、と信じて疑わないから。


経済学徒は理論が全てであり、上の例でいうと、ニュートン力学の理論に従って、弾丸並みの速度で落下してくる雨滴によって頭を打ちぬかれてしまう(!)ことを信じているのでしょう。これをヘンだと思わないのが、謎なのですよ。そういうレベルなのだ、と言われりゃ、そうですか、としか言えませんが。


現実世界に適用するのが難しいハズの経済学理論にも関わらず、「最重要理論」として他の立場の意見を排撃し、自分たちが「最善・最上の理論を持っており、全てが見通せる」と勘違いしている輩が多く観察されるのが、経済学ということです。そもそも前提条件が成立しているのかどうかさえ経済学徒たちには判らないクセに、結果だけは出してくるし、仮想の理論が現実世界全てに通用すると信じてるのですよ。経済学分野では、そういう思考が本当にごく普通なのだとしたら、経済学からは失望しか学べないでしょう。