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「成長」は耳ざわりが良すぎるか

2006年10月19日 18時56分39秒 | 経済関連
経済財政諮問会議の議論で、福井総裁は懸念を述べた。懸念というよりも、ある種の「不快感」というべきものかもしれない。それは、「成長」を基盤として財政再建や規制改革を行っていくことに対しては、嫌悪感を抱いているということである。名目成長率を上げること、即ち日銀の政策運営が今後議論の「ターゲット」にされそう(笑)なことに、そういう感情を抱いているようにも見える。


議事要旨から福井総裁の発言を見てみましょう。

第22回議事要旨


(以下に引用)

「成長なくして未来なし」という理念の下で提案された民間議員のペーパーを拝読し、私も基本的に考え方に賛成である。気持ちの上で少し気になるのは、「成長なくして未来なし」というフレーズが、一般の国民の皆さんにちょっと耳ざわりがよすぎないか。

かつての日本経済の中での成長、これから先の日本経済の中での成長といった場合に、成長へのアプローチが違う。かつては潜在成長能力がもともと高い上で成長をいかに実現するか。これからは低い潜在成長能力を上げながら、かつ現実の成長を実現していくという、いわばツーステップアプローチになっているところが基本的に違うと思う。潜在成長能力を引き上げていくためにイノベーション、オープン化、その他ここに掲げられたプログラムを実行していくわけだが、この部分は決して甘い課題ではない。国民の皆さん1人ひとりにとっても決して甘い課題ではなくて、最終的な成長の実現までにまず時間がかかる。潜在成長能力を上げながら実現していくという意味で、目先、短期的に高い成長を実現するわけではないということが1つある。また、オープン化も、規制緩和も、これまでかなり進んでいるが、これから進めていく過程で、なお短期的にはこれを苦痛と受け止める方が少なくないのではないか。

もう1つ重要な点は、イノベーションを進め、経済のオープン化を図るということは、経済全体として競争相手国との関係でこれを見た場合には、いわゆる要素価格均等化定理はもっと徹底的にしみ込んできて、日本の国内で見た場合には、イノベーションを身につけた人と、イノベーションをなかなか身につけられない人との間の所得の差は、むしろ、さらに広がるということを相当覚悟しておかなければいけないのではないか。

そういう差はむしろ縮まるんだという幻想を余り容易に与えない方がいいのではないか。非常に難しい課題だと思うが、社会の中で新しいバランス感覚を人々が持たれるようにすることは、経済の世界ではなくて、まさに政治そのものの葛藤の中で最終的に出てくる課題ではないかと思う。日本の経済成長も随分これまでの試練を経て、感覚が塗り替えられてきており、単純な過去の高度成長の余韻を気持ちの上ではもう余り残していないと思うが、結果平等というセンスは、まだ相当尾を引いているのではないか。

したがって、成長戦略といった場合に、まず潜在成長能力を上げながら、さらに現実の成長力を上げるというツーステップアプローチの意味を多くの人が理解できるように、諮問会議で打つ出すプログラムが、一々そういうものだということがわかるように、具体的なプレゼンテーションが必要ではないか。





このようなご発言だったわけです。文は長いのですが、大まかにまとめてみますと次のようなことです。

・昔と(バブル期以降?は)違う
・昔は潜在成長力高く、今は低い
・ツーステップ必要
 =①潜在成長力を上げる、②成長実現の2段階
・昔は②だけで済んだ
・②の達成までは時間がかかる
・①と②の両方はかなり困難
・イノベーションとオープン化で格差は拡大する
・格差縮小幻想は与えるべきでない
・「結果の平等」という「センス」が国民の意識に残存
・潜在成長率upと現実の成長率upは違うと説明しておくべき


2段階のうち、①はいいとしても、②は(日銀としては)無理だ、という意味合いではないかと思いました。②を目標に課せられた場合、日銀にもその政策実現の一端を担わされ、達成できない場合の責任所在とされる可能性が高くなるからであろうと思います。要するに、「日銀は成長率達成などという政策には関与したくない、その責任を負わされることもゴメンだ」ということでしょう。本音の部分ではそういうことだろうな、と。今までの失敗の責任を負おうとしないばかりか、今後も「無責任でいさせてくれ」という決意表明ですね。


流石は「福井総裁」です。破廉恥極まりないスキャンダルにまみれても、総裁の座に留まり続けられる強心臓と図々しさがありますから、新総理の初会合であっても放言は構わない、というところでしょうか。


さて、この後安倍総理のご発言を見れば、次のように述べております。


確かに、規制改革の分野においても大変固い岩盤が残っているのも事実であり、「溳滴岩を穿つ」という言葉があるが、そんな悠長なことは言ってられず、我々の責任として、しっかりと全ての改革に取り組んでいきたい。
(中略)

「創造と成長」というのは極めていい言葉ではないかと思う。小泉政権のときに、成長戦略によって2.2%の実質成長を達成、3%の名目成長という目標を立てたわけであるが、皆さんが示されたこの方向を進めていただくことによって、更に潜在成長力を伸ばしていけば、私はこの3%を超えていくことは不可能ではないと思うので、是非そうした諸課題に取り組んでいただきたい。




福井総裁の「現実の成長」段階には到達困難、という意見に対して、割とハッキリと述べていますね。
「3%の名目成長という目標を立てたわけであるが、・・・この3%を超えていくことは不可能ではないと思う」ですから。


そうですね。21世紀ビジョンにおいても示された、3%台半ばを達成せねばならんのですから、超えていかねばならんのですよ、この壁を。これには、日銀の姿勢というのが大きく影響するのですね。本当に、ツーステップなんて「悠長なこと」を言ってられないんですよ。伊藤先生とか塩崎長官も、「同時に進めていく」という立場で意見表明しておりました。


結局のところ、日銀としては「名目成長率達成目標」には知らぬふりを通して、責任を負いたくもないし、非難も浴びたくない、ということでしょう。これを世の中では、「無責任」と言います(笑)。困難である、というのは確かにそうかもしれない。でも、やらねばどの道再建なんてできないのだからね。


それから、もう一点。福井総裁発言で目を引いたのは、「要素価格均等化定理」です。これって、以前の・・・だね。一応、資料を載せておきます。野口先生のご登場と相成りました、というわけです。

デフレへの対応を巡って

ヘクシャーオリーンの定理 - Wikipedia


福井総裁は「要素価格均等化定理がもっと徹底的にしみ込んでくる」と脅すわけですが、そういう問題ではないでしょうね。上の議論をお読み頂ければ、ほぼ決着がついているように思われます。この中では、伊藤隆敏先生が登場するのですが、他にもYaleの浜田先生、日銀の岩田氏や白塚氏、大和総研に行かれた原田氏なんかも質問者として登場しているのですね。これはこれで、中々面白いですよね。「フレンドシップを失わない」ような議論(笑)というところに、狭い世界というイメージを感じさせます。


日本の産業で「足を引っ張るドメスティック」分野(by 伊藤氏)というのは、恐らく農業部門ということになるでしょうか。改革のターゲットとしては、逃れられないでしょう。海外との競争環境に十分晒されていない、不適切な規制や保護が残されている、といった分野ではないかと思われます。これを考える時には、以前に書いたような「炭鉱」を思い浮かべてしまいます(産業変化の調整コスト)。


かつて石炭産業自体は日本の近代化に貢献してきたし、日本のあちこちに炭鉱はあったわけですが、今ではほぼ全てが「撤退」となりました。雇用政策上でも炭鉱閉山に係る政策というのはいくつもあったのですね。もしも、かつての選択をしなかったとしたら、どうなっていたのかというのは判りません。かつての選択とは、石炭産業を止める、という決断のことです。日本で石炭を掘ることを止めるという決断が多くの失業を生み出し、街をゴーストタウンのような廃墟に変え、運搬用の鉄道も廃線に追い込まれた、ということです。夕張市のように、破綻する街も出てくる、似たような産炭地の破綻懸念先自治体はまだまだ控えている、という状況です。


石炭を掘るのを止めれば、必然的に何十万人分か判りませんけれども、その雇用を失うことになるわけです。海外の安い輸入品は入ってくるのですからね。他の代替エネルギーも当然あります。でも、この苦しい決断をしなかったとしたら、「お荷物産業」として現在も更に多くの損失を生み出していたでしょう。閉山の痛みはあったし、街を死に追いやったし、人々の生活を奪ったかもしれない。でも、社会全体で見れば、もっと生産性の高い効率的な仕事に就く人が増えて、良い結果だったのですよね、多分。農業もそういうようなものなのです。


農業は全部なくなるわけではないし、必要な部分はまだまだ沢山ありますよね。ただ就業人口の問題とか、生産効率の問題なんかはあるのでしょう。競争力のあるブランド品、生花、野菜、米なんかはなくなることはないでしょう(因みに私は米食が好きです。「ごはん」が一番好きなんですよね)。なので、農業の規制改革が行われたとしても、全てが悲惨な結果ということもないでしょうから、産業としての再編は起こってくるでしょう。炭鉱よりはマシですよ、きっと。そもそも高齢化とか跡取りがいない問題とか、そういうのは既にあるわけですし。ああ、趣味の農業は生き残れると思う。釣りとか盆栽なんかと同じく、「自分で育ててみよう!」みたいな趣味の講座として農業技術指導は、サービス産業の一部になるかも。案外と、農業栽培を「やってみたい」とか思う人たちはいるからね。


総人口が減少していく中で、収益水準の低い農業人口が多いと社会全体の生産が増えないということになるので、農業を辞めてもらいもっと別な仕事に人員をシフトした方がいい、ということになるのでしょう。ある水準まで少なくなると、少ない生産者で利益を分けることができ、自然と1人当たり売上高が高くなり、見合いの収入が得られる、ということなんでしょうね。なので、就業人口が減っても農業生産量が必ずしも減るかどうかは判らないし、極端に減る必要性もないんですけどね。ある程度の需要はあるわけですし。契約農家なんかも企業が囲い込みを行っている面がありますからね。外食産業とか給食もあったりするし、観光産業では食も重要な商品の一つですし。


まあ、福井総裁の指摘していた、「要素価格均等化定理」がしみ込んでくるのかもしれないが(笑)、いずれは農業分野の産業構造の変化は必要だろうし、試練にさらされるだろう。炭鉱が消えていったのと同じく、タバコ生産農家の村が消滅したり、人口減少の進んだ過疎地は廃墟になるだろう。遺跡なんかに見られる古代の都市も、当時は繁栄を誇っていたかもしれないが、ある時から廃れるのと変わらない。そうした時に、人々の間で格差は広がっているかもしれず、うまく脱出できなかった人々は今の夕張市民のように、寂れた街に取り残されたまま不便でサービス水準の低い生活が待っているかもしれない。この変化は逃れられないだろう。仕方がないのですよ。そういう時代なのです。