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イジメと自殺のこと

2006年10月17日 14時28分33秒 | 教育問題
ここの所、イジメで自殺した事件がよく報じられている。丁度うちの子も中二(ところで、「中ニ病」とか見かけますが、?です)なので、他人事ではないなと思っています。確かにイジメは悪い。そんなことをしているヤツは、アホじゃ、とは思う。でも・・・・


文部科学省の統計では、イジメは「ゼロ」ということらしい。
全国で?ウソだよね、どう見ても。
ただ、学校側が隠蔽というか、コトを荒立てたくない、表沙汰にしたくない、ということはあるから、そこで止まってるんだろうと思う。そういうのが、「教育委員会の責任だ」とか、「文科省がなってないからだ」とかの批判にすぐ繋がるのもどうかと思う。


自分の経験だけしか知らないが、イジメは昔からあった。本格的なイジメではなかったかもしれないけど。
自分が小学校~中学校の頃には、割とよくあったと思う。変な「あだ名」とか、酷い呼ばれ方とかなんて、ごく普通だった。私も例に漏れず「変なあだ名」をいくつか頂戴していた。書いてしまうとバレたら困るから書かないけど(笑)。男子数人が女子にチョッカイを出して、泣かしたりもごく普通にあった。そして別な女子に先生に言いつけられて、怒られてた。体育だったか運動会でフォークダンスなんかをするから、男子同士で「オマエ、○○の手を触っただろー!!やーい、やーい」みたいな感じで囃し立てられたりもあった。何故その女子の手に触れてはいけないのか、理由など全く判らなかったが、何となくそういうのはあった。体育のジャージ姿の時に、他の男子がイタズラをして廊下を歩いている時などに、誰かのジャージを引きずり降ろしたりとかも普通にあった。女子に見られる場所でワザとそういうことをするのだ。学生帽(昔はあったんですよ!鉄道マンみたいな帽子だった。知ってる?)をフリスビーみたいに、「ホーレこっち、今度はこっち」と投げられてたりとか。男子数人で1人を担いで、窓から外に放り投げたり(勿論、2階とか3階ではないよ)もあった。雪の上だから痛くないのだけれど。そういう、今なら「トンデモナイ出来事」はいくつもあって、日常的だったと思う。

こういうのを見ている時、仮にイジメ風であったりしても、「止めたまえ、君たち」なんてことを、私は言ったりはしなかった。積極的に加担することはなかったと思うが(力も弱かったので、笑)、傍観者的に見ているだけであった。自分も窓から放り投げられたこともある。これは「ヤメレ」とか言ったが為に、今度は自分が投げられてしまうのだ(笑)。誰でもやられてしまうのですから、しょうがないのですよ。


近所の子ども同士で遊ぶ時にも、必ずいざこざが起こるし、打たれたり泣かされたりする子は出てくる。年齢が離れてる子も結構いるからね。少なくとも、力の強い年長の者が弱い下の子をイジメることは許されなかった。上級の子は、必ず年下の子の面倒を見て、仲裁する立場だった。小集団の中でルールを適用するのは、年長の子に求められる役割だった。


大人の社会だって、酷い連中はいると思う。自分の周りでは殆ど見ないが、女子の話を聞いたりなんかすれば、それこそ「イジメ」は日常茶飯事だろう。昔の「大奥」だってイジメの巣窟、オンパレードだったじゃないか、と思う(変なドラマの観すぎ?、笑)。なので、子どもの世界に限ったことじゃない。どうしてこのようなことが起こってしまうのかは、不明だ。人間の深層心理的な問題なのか、遺伝子的な何かなのか、それとも生い立ちとか何かの環境要因なのか、誰にも判らないが、昔からあったのは確かなのではないか。これを根絶することが果たして「可能なのか?」という根本的問題がある。どうしてもなくせないものならば、それをいくら責めてもしょうがないように思う。


例えば、「ウソをついてはいけない」ということがあるとしても、現実的に「ウソをつく」ことを根絶することができないのと似たようなものだ。いかに「ウソをつかないように対策を立てろ」とか責め立てられても、どうにもできない。ならば、ウソをつかないように指導するのは当然としても、善後策というか「ウソは有り得る」として対策を考える方が有効だろう。「ウソをなくすにはどうするか」というのをいくら考えても、根本的な原因が判らないから、根治的アプローチは難しいものだろな、と。病気とは違うのかもしれないが、「病気」があっても共に生きるという東洋医学的なアプローチで考えた方がよくて、西洋医学的な「悪い部分は完全に切り取る」というような方法は難しそうなんじゃないだろうか。


だから、「イジメを根絶しよう」というのは難しいと思う。なくそうと思っても、現実的に有効な方法が思い浮かばない。


昔は、イジメというか、そういうことへの「耐性」を子ども時代に作っていって、それで乗り越えることが多かったのではないかと思う(もしも、耐性がなかったら上に書いたようなことが日常的に起こっていたので、命がいくつあっても足りなかっただろう・・・・)。今の子どもたちは、昔よりもはるかに「きれい」で「大人しく」、「上品」だと思うよ。上に書いたようなトンデモナイことは、学校で起こらないでしょ?(笑)昔って、かなりいい加減というか、大雑把というか、のんびりとしていたんじゃないかと思う。田舎だったからかな?都会では、昔からこんなことはなかったのかもしれないけどね。


最近報道などで思うことは、「学校の責任」というのが厳しく追及されたり、教育委員会の無責任なんかが言われるのだけれど、実際、見たことも会ったこともない学校の児童・生徒の1人ひとりについて、教育委員会は把握したりなんかできないと思う。学校側からの報告が上がってきて、それに適切に対処することは求められるかもしれないが、いくら教育委員会の事後的対応のまずさを追及しても、自殺を事前に止められた訳でもなく、イジメを止めさせられたわけでもない。はっきり言って、親は何をしていたんだろうか、とは思う。

学校という空間の中で、一人の教師が子どもに接する時間なんて限られているし、家庭よりも多いとも言えない。もしも、家庭で家族と過ごす時間より、学校での時間の方が長いとすれば、そこに問題があると思う。問題教師がいて、不適切な発言や酷い言い方をしたりすることは是正されるべきだし、教師の資質としてそもそも問題がある場合もあるだろう。けれども、子どもが最も頼れて守ってくれるのが「親」でなくて、誰がいるのか、とは思う(中には親が酷い家庭もあるのかもしれないけど)。子どもの「SOS」のサインを見逃すな、とか言うが、学校の教員が判って、家庭で親が判らないってことはマズイだろうと思う。学校の出来事を親が知ることはできない、という面はあると思うが、子どもが話すことは可能だし、教師だって四六時中1人の生徒に付きっ切りなんてことはできないのは同じだと思う。他人に判って、親が判らないのであれば、まず家庭での問題があると思ってしまう。子どもとのコミュニケーションは、果たして問題がなかったと言えるだろうか?学校や教師を責めたい気持ちは判る。自分が子どもを失えば、きっと冷静ではいられなくなるし、責任を追及しようとする気持ちにもなるだろう。でも、本当に教師だけのせいなのか?教育委員会のせいなのか?


「イジメ」は悪い、よくないことなんだから、絶対にしてはいけない、というのは、誰も反対しないと思う。そのことと、イジメが自殺の誘引となることについては、対策は別に考えるべきではないかと思う。自殺した事件については、個別に問題点や原因について考えてみるべきだと思う。学校の「ことなかれ主義」的な対応がまずかったにせよ、学校だけにその責任を押し付けることはできない。イジメが社会全体から根絶できない限り、常にその危険性に晒されていく。小学校では対応を頑張ってるところだったとしても、中学や高校では違うかもしれない。就職した先で、誰も守ってくれない環境でイジメに遭うかもしれない。どこでそうした状況に見舞われるか予測は難しいので、当たり前すぎなんだけれど、やっぱり有効なのは、自分が自分で守れること、対応できる能力を身に付けること、だろうと思うのだ。


子ども時代では、自分だけの判断では対応が難しい場面もあったり、答えが分らずに苦しむ場合もある。そういう時は、やっぱり家庭が基本であり、それをサポートするのが学校であったり地域社会であったりするのだろうと思う。イジメは難しい問題であり、なくせないものだと思って取り組む以外にはないのではないかと思う。