国会での総理答弁は「安全運転だ」とか、「棒読みだ」というような批判があるようですね。別にいいじゃないですか(笑)。皆さんは、一体何を首相に求めているのでしょうか?コメディアンになる必要性など何処にもありませんよ。「安全運転」なら、「なおよし」ではないですか。何処の世界に、宰相に向かって「酩酊運転で行ってくれ」「暴走運転を見せてくれ」などということを求める人がいますか。全くアホか、と。
小泉さんの時の、「劇場型だったから、大衆は騙されて動員されたんだ」みたいな批判を散々出していたクセに、「優等生」の答弁はご不満なのでしょうか?何だかんだ言って劇場型が好きで、「ドラマチック」な答弁とか、「ユニーク」な答弁でも期待しているんじゃありませんか?(笑)
総理大臣が俳優、三流タレントや無責任コメンテーターみたいなキャラクターである必要性など全くありません。「安全運転」が確実にできて、道を大きく外れたりせずにきちんと進んでいってもらえれば、それが一番いいのですよ。決まってるじゃありませんか。派手なスタンドプレーも、危険な綱渡りも、全く必要ない。こんな当たり前のことが判らんような連中は、批判なんぞ百万年早いわ。「安全運転」をあたかも悪いものであるかのように揶揄し、「危険運転」を助長するような発言は、不謹慎にもほどがありますね。折りしも、飲酒運転などがクローズアップされているのに、「安全運転」をバカにするな。
真紀子さんのツッコミもそれなりにあったようですが、下らない口喧嘩みたいなもんですね。いくつか見てみましょう。
Yahooニュース - 読売新聞 - “真紀子節”で首相批判「パパの靴履き危なっかしい」
この記事から。
「小さな子供がパパの革靴をイタズラで履き、道路に出てきた印象だ。右の方に右の方に寄って歩いていきそうで、危なっかしい」
これへの回答としては、
「交通法規では、歩行者は”右側通行”と決まっている。ルールに則り右側を歩くことが、何か悪いことですか。自分勝手に”左側”を歩くことの方が危険だし、問題ではありませんか(笑)」
でどうでしょう?
次は、菅さんのヘンな質問。
Yahooニュース - 毎日新聞 - 衆院予算委 歴史認識で揺さぶり 菅氏が追及
記事より、一部抜粋。
5日にスタートした衆院予算委員会で、野党のトップを切った民主党の菅直人代表代行は、歴史認識や靖国神社参拝にポイントを絞り、安倍晋三首相の見解をただした。首相が代表質問で、こうした問題をめぐり「安全運転」とも言える控えめ答弁を繰り返しており、「本音を隠しているのではないか」と揺さぶりをかけたのだ。中韓・両国訪問を控え答弁に慎重にならざるを得ない首相は守勢に回った印象だ。
「首相になる前は歯切れが良かった。今や逃げる政治家になったというのが私の感想だ」。菅氏は質疑でこう語り、首相になる前と就任後の国会での発言が変化していると挑発した。首相が中韓両国への配慮から、もともとは自らの歴史観と一致しない「村山談話」や「河野談話」を政治的妥協で受け入れている、との論法だ。特に、河野談話については「(慰安婦の)強制性を検証する文書が出てきていない」として談話の前提が成り立たない--とした首相の過去の国会質問を取り上げて追及。首相は「当時は『狭義の強制性』に疑問があったが、その後『広義の強制性』に議論が変わった」と苦しい答弁をした。
祖父の岸信介元首相の戦争責任についても「間違った判断だった」と責任を認めたが、さらに岸氏が戦前に関与した「満州国」経営について菅氏から論評を求められると、「歴史認識については政治家が神のごとく判断するのは間違っている」と反論した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/apples.gif)
まず問題と思うのは、身内批判を敢えてやっていること。品位に欠ける。岸さんの失敗は、「安倍総理の失敗」なんかではないのですよ。まるで中国や韓国が、「昔の日本人はこんなヒドイことをやったんだろ。お前らが悪い」と今の日本人を責め立てる論法にソックリです。個人攻撃にも限度というものがあろう。「○○総理のやった、~~という政策は失敗だったのではないか」という程度ならまだしも、たとえば祖父や父親の失敗を持ち出して、「その反省を(お前が)しろ」「償う気持ちを言え」という姿勢は非難されるべきである。血族に個人的な責任を負わせようとするのは、不見識も甚だしい。国会の場には相応しくない発言だろう。
戦争責任は、「国家の責任」として今の国民にも共有されるべきで、その時代に「存在」さえしていなかった子孫に個人的責任を押し付けるのはオカシイ。これまで、歴史から何を学んできたのか。
歴史認識に関する回答を考えた。
「国会答弁におきまして、私見としての歴史を述べる必要性はない。歴史的事実を知りたいのであれば、ご自身が歴史研究を紐解けば済むことである。一般論として申し述べれば、歴史というのは、研究成果によって変わっていくことが多々ある。聖徳太子の例もありますが、いくつかの検証を積み重ねることで、解釈は変化することは有り得るわけです。(慰安婦に関する)過去の国会質問は、「歴史」としての検証が十分なされていなかった、或いは研究が進んでいなかったのではないか、それ故「事実として明らかとなっていなかったのではないか」という疑問があったからこそ質問しているわけです。既に検証が済んでいて、歴史的事実として評価が確定し、広くそれが認識されていたのであれば、質問することもなかったでしょう(笑)。事実として明らかになっていなかった部分があったからこそ、質問する意味があろうというものです。村山談話や河野談話に限らず、過去の国会討論・政府答弁等を踏まえた上で、周辺各国と協力して平和な社会を構築していく努力を今後も続けて参りたいと考えている」
岸さんの責任云々については、
「終戦以前の、国の運営等につきましては、誤りがなかった、ということではないと思っております。何がしかの誤りがあったが故に、戦争という事態を生じたものと思います。こうした過去の惨禍を乗り越えて、戦争を2度と繰り返さないような国際関係を築いていくことが重要で、戦争責任について、どの行為や判断が個人的責任に帰属しているかを、現時点から過去を振り返ってわたくしが判断することは適切ではないと考えます。それは私や政府の役割ではなく、歴史研究家の役割であろうかと思います」
こんな感じではダメでしょうか?
って、私が答弁を考えても無意味なんですけどね。
折角補佐官がいるのですから、安倍総理個人の「考え、意見」というものについては、単なる「コメント」として発表してもいいのではないでしょうか。必ずしも「口喧嘩」に強いわけでなければ、時間を少しおいてから「じっくり考えた後」で反論することもアリなんじゃないのかな、と。その場合、国会答弁のように議事録として「永遠に」残らないし(永久保存版だとうっかり軽はずみなことも言えないですし、笑)、自分は「こう考えている」ということを国民にも説明できますよね。大抵は、言葉足らずにならないように上手に説明をするのは、ぶっつけ本番だと難しいですからね。なので、答弁なんかの「自分の言いたかったこと」の不足を補うには、補佐官が行う「総理のコメント」としての発表が役立つのではないでしょうか。広報担当補佐官の発表は、政府(内閣)の公式発表ばかりでなくてもいいのですよね?「安倍総理は~~と述べました」という発表形式が許されるのであれば、できそうな気もするけど。どうなんでしょうか、活用法としては。
中国や韓国へは、かなり「明確なメッセージ」として好意的に受け止められているようです。このまま行けば、出だしの成果としては、非常に良かったのではないでしょうか。姿勢が「一貫していない」とかの批判も止める方がいいですよ。それって、中国や韓国との関係が良くなると「面白くない」ということですか?もっと悪くなることを望んでいるのでしょうか?(笑)
Yahooニュース - サーチナ・中国情報局 - 【中国】人民日報:安倍首相の訪中歓迎「強硬な態度を修正」
大義を前にして、滅私奉公に努めてくれるのですから、有り難いではありませんか(笑)。外交姿勢としては、まず「対話をしていきましょう」というメッセージによって、関係改善に向けた雰囲気を僅かでも醸成していこう、ということなのですから、高く評価できると思いますよ。今後は、個別の問題等については、必ずしも全てを「譲歩する」という確約をしているのでもないわけですから、色々な立場から判断が必要になるでしょう。でも、まず互いに「テーブルにつきましょう」という方向に踏み出せたのは、素直に「良かったね」ということでいいと思いますね。勇気ある決断だったと思いますよ。
小泉さんの時の、「劇場型だったから、大衆は騙されて動員されたんだ」みたいな批判を散々出していたクセに、「優等生」の答弁はご不満なのでしょうか?何だかんだ言って劇場型が好きで、「ドラマチック」な答弁とか、「ユニーク」な答弁でも期待しているんじゃありませんか?(笑)
総理大臣が俳優、三流タレントや無責任コメンテーターみたいなキャラクターである必要性など全くありません。「安全運転」が確実にできて、道を大きく外れたりせずにきちんと進んでいってもらえれば、それが一番いいのですよ。決まってるじゃありませんか。派手なスタンドプレーも、危険な綱渡りも、全く必要ない。こんな当たり前のことが判らんような連中は、批判なんぞ百万年早いわ。「安全運転」をあたかも悪いものであるかのように揶揄し、「危険運転」を助長するような発言は、不謹慎にもほどがありますね。折りしも、飲酒運転などがクローズアップされているのに、「安全運転」をバカにするな。
真紀子さんのツッコミもそれなりにあったようですが、下らない口喧嘩みたいなもんですね。いくつか見てみましょう。
Yahooニュース - 読売新聞 - “真紀子節”で首相批判「パパの靴履き危なっかしい」
この記事から。
「小さな子供がパパの革靴をイタズラで履き、道路に出てきた印象だ。右の方に右の方に寄って歩いていきそうで、危なっかしい」
これへの回答としては、
「交通法規では、歩行者は”右側通行”と決まっている。ルールに則り右側を歩くことが、何か悪いことですか。自分勝手に”左側”を歩くことの方が危険だし、問題ではありませんか(笑)」
でどうでしょう?
次は、菅さんのヘンな質問。
Yahooニュース - 毎日新聞 - 衆院予算委 歴史認識で揺さぶり 菅氏が追及
記事より、一部抜粋。
5日にスタートした衆院予算委員会で、野党のトップを切った民主党の菅直人代表代行は、歴史認識や靖国神社参拝にポイントを絞り、安倍晋三首相の見解をただした。首相が代表質問で、こうした問題をめぐり「安全運転」とも言える控えめ答弁を繰り返しており、「本音を隠しているのではないか」と揺さぶりをかけたのだ。中韓・両国訪問を控え答弁に慎重にならざるを得ない首相は守勢に回った印象だ。
「首相になる前は歯切れが良かった。今や逃げる政治家になったというのが私の感想だ」。菅氏は質疑でこう語り、首相になる前と就任後の国会での発言が変化していると挑発した。首相が中韓両国への配慮から、もともとは自らの歴史観と一致しない「村山談話」や「河野談話」を政治的妥協で受け入れている、との論法だ。特に、河野談話については「(慰安婦の)強制性を検証する文書が出てきていない」として談話の前提が成り立たない--とした首相の過去の国会質問を取り上げて追及。首相は「当時は『狭義の強制性』に疑問があったが、その後『広義の強制性』に議論が変わった」と苦しい答弁をした。
祖父の岸信介元首相の戦争責任についても「間違った判断だった」と責任を認めたが、さらに岸氏が戦前に関与した「満州国」経営について菅氏から論評を求められると、「歴史認識については政治家が神のごとく判断するのは間違っている」と反論した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/apples.gif)
まず問題と思うのは、身内批判を敢えてやっていること。品位に欠ける。岸さんの失敗は、「安倍総理の失敗」なんかではないのですよ。まるで中国や韓国が、「昔の日本人はこんなヒドイことをやったんだろ。お前らが悪い」と今の日本人を責め立てる論法にソックリです。個人攻撃にも限度というものがあろう。「○○総理のやった、~~という政策は失敗だったのではないか」という程度ならまだしも、たとえば祖父や父親の失敗を持ち出して、「その反省を(お前が)しろ」「償う気持ちを言え」という姿勢は非難されるべきである。血族に個人的な責任を負わせようとするのは、不見識も甚だしい。国会の場には相応しくない発言だろう。
戦争責任は、「国家の責任」として今の国民にも共有されるべきで、その時代に「存在」さえしていなかった子孫に個人的責任を押し付けるのはオカシイ。これまで、歴史から何を学んできたのか。
歴史認識に関する回答を考えた。
「国会答弁におきまして、私見としての歴史を述べる必要性はない。歴史的事実を知りたいのであれば、ご自身が歴史研究を紐解けば済むことである。一般論として申し述べれば、歴史というのは、研究成果によって変わっていくことが多々ある。聖徳太子の例もありますが、いくつかの検証を積み重ねることで、解釈は変化することは有り得るわけです。(慰安婦に関する)過去の国会質問は、「歴史」としての検証が十分なされていなかった、或いは研究が進んでいなかったのではないか、それ故「事実として明らかとなっていなかったのではないか」という疑問があったからこそ質問しているわけです。既に検証が済んでいて、歴史的事実として評価が確定し、広くそれが認識されていたのであれば、質問することもなかったでしょう(笑)。事実として明らかになっていなかった部分があったからこそ、質問する意味があろうというものです。村山談話や河野談話に限らず、過去の国会討論・政府答弁等を踏まえた上で、周辺各国と協力して平和な社会を構築していく努力を今後も続けて参りたいと考えている」
岸さんの責任云々については、
「終戦以前の、国の運営等につきましては、誤りがなかった、ということではないと思っております。何がしかの誤りがあったが故に、戦争という事態を生じたものと思います。こうした過去の惨禍を乗り越えて、戦争を2度と繰り返さないような国際関係を築いていくことが重要で、戦争責任について、どの行為や判断が個人的責任に帰属しているかを、現時点から過去を振り返ってわたくしが判断することは適切ではないと考えます。それは私や政府の役割ではなく、歴史研究家の役割であろうかと思います」
こんな感じではダメでしょうか?
って、私が答弁を考えても無意味なんですけどね。
折角補佐官がいるのですから、安倍総理個人の「考え、意見」というものについては、単なる「コメント」として発表してもいいのではないでしょうか。必ずしも「口喧嘩」に強いわけでなければ、時間を少しおいてから「じっくり考えた後」で反論することもアリなんじゃないのかな、と。その場合、国会答弁のように議事録として「永遠に」残らないし(永久保存版だとうっかり軽はずみなことも言えないですし、笑)、自分は「こう考えている」ということを国民にも説明できますよね。大抵は、言葉足らずにならないように上手に説明をするのは、ぶっつけ本番だと難しいですからね。なので、答弁なんかの「自分の言いたかったこと」の不足を補うには、補佐官が行う「総理のコメント」としての発表が役立つのではないでしょうか。広報担当補佐官の発表は、政府(内閣)の公式発表ばかりでなくてもいいのですよね?「安倍総理は~~と述べました」という発表形式が許されるのであれば、できそうな気もするけど。どうなんでしょうか、活用法としては。
中国や韓国へは、かなり「明確なメッセージ」として好意的に受け止められているようです。このまま行けば、出だしの成果としては、非常に良かったのではないでしょうか。姿勢が「一貫していない」とかの批判も止める方がいいですよ。それって、中国や韓国との関係が良くなると「面白くない」ということですか?もっと悪くなることを望んでいるのでしょうか?(笑)
Yahooニュース - サーチナ・中国情報局 - 【中国】人民日報:安倍首相の訪中歓迎「強硬な態度を修正」
大義を前にして、滅私奉公に努めてくれるのですから、有り難いではありませんか(笑)。外交姿勢としては、まず「対話をしていきましょう」というメッセージによって、関係改善に向けた雰囲気を僅かでも醸成していこう、ということなのですから、高く評価できると思いますよ。今後は、個別の問題等については、必ずしも全てを「譲歩する」という確約をしているのでもないわけですから、色々な立場から判断が必要になるでしょう。でも、まず互いに「テーブルにつきましょう」という方向に踏み出せたのは、素直に「良かったね」ということでいいと思いますね。勇気ある決断だったと思いますよ。