いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

統治機構を無視する連中

2007年12月25日 16時18分38秒 | 社会全般
この国は異常だ。


マスコミが煽動すると、日本の統治機構を「なかったことにできる」などという、超法規的措置を可能にするなど狂ってる。


そのまんま東みたいな、判りもしないクセに判ったことを言う「政治家もどき」が存在していることにも、無性に腹が立つ。彼の言い分は、「支持率を上げる方法なんていくらでもありますよ。一律救済すればいいに決まってますよ」とか言ってるのだが、彼は支持率の為とか自分の権力保持の為ならば、法規範を蔑ろにできるのだそうだ。他の国会議員にしても、与野党ともに耳障りのいいことしか言わない連中ばかりだ。真実を述べようという人間は、現れないのである。

FDAで承認取り消しとなったのはHBV感染に対する措置であると思われるが、これはHCV感染を防ぎえたことの理由にはならない。大体、日本で未承認若しくは承認取り消しとなった薬剤が、FDA基準では用いられている例がないということはないだろう。逆もまた同様なのではないか(全薬剤を調べてないので判らないけれども、多分そういう薬はあると思う)。もしも、FDA承認が絶対性を持つ判断基準であるなら、日本での承認制度なんて必要ないのではないか?(笑)全部、オールアメリカンの基準を、パクってそっくりそのまま持ってくればいいだけの話だろう。FDAで決めたことを全て取り入れれば日本での決定過程を省略できて、楽チンだよね。何故そうした提案を誰もしないのか疑問だ。

三宅某とかいう政治評論家にしても、判らないのであれば政治の話だけやってりゃいいものを、自分の知らない分野について間違ったことをテレビで大々的に言うのは、明らかにオカシイ。あるあるの納豆騒動と同じようなものだ、と言ってるんですよ。テレビで「何でも言える」なら、BPOはいらねえな。


裁判の和解では解決できないので政治決断で、という理屈で、立法で救済ということらしいから、訴訟取り下げとなるということですかね?大阪高裁は無駄骨だった、と。再提案の発表も、何らの意味もなかった、と。まあ、しょうがないですわな。総理が決めたことですからね。

で、立法ということになれば、国会で議案を審議し決めるということになるが、その権限を持つのは国会議員であって、一般人の特定利権集団ではないはずだが。どこに、「条文はこれで宜しいでしょうか」とか、特定の関係利害人に聞いたりする国会があるのでしょうか?「こんな法案は呑めません」と言われたら、はいそうですか、と聞いてくれる国会というのは、一体何ですか?そういうごく少数の特定利権集団の意向に合わせた立法措置を可能にしてしまうとなれば、煽動工作を行う特定集団が登場しても常にそいつらの言い分を通す法案を国会で決めるということですか?そうした特定集団は、何の権利をもってそうした活動を許されるのでしょうか?

一般国民は、「こういう法案を作ってくれ」とか「こんな条文には反対だ」という意見表明や要望提出などは可能かもしれないが、国会の立法権にまで立ち入って、法案に対して特定利権集団の意向を反映せよとか受け入れ拒否とか、そういう介入を許すというのは、どのような権力によるものなのだ?その根拠とは何だ?そういうことさえ考えられないマスコミは、異常だ。

支持率の為には、日本の基本的統治機構を乱してもいいのだそうだ。政府のそういう行為や権限行使が許されるのだそうだ。権力維持の為なら、いいのだそうだ。


大阪高裁が和解協議を再開する、という発表があったので、私は個人的意見を書いた。役人が謝罪する方がいい、とも書いたよ。だけど、あれは「非公式協議」であるからであって、公開されない場であるからこそ、感情的なわだかまりを取り去る為の一つの方法だろうと思ったからだ。
だが、今は「立法」で対処するということになったのであるから、謝ってもしょうがないよ。マスコミが喜び勇んで「謝罪会見シーン」を報じるだけだろう。泣き喚き、可哀想だという世間の同情を買うことに成功すれば、官邸まで乗り込んでいって自分たちの意向に沿った立法作業をさせられる、という特権を与えられるのだそうだ。ごく少数集団が、恣意的な立法をさせられるのだそうだ。どういう権利でもって、その集団は提出前の法案を見る権利があるのだろうか?公表されてないものを、自分たちだけは見せてもらえるのだそうだよ。介入できる権力を有しているのだそうだ。その権力の源は、間抜けなマスコミ連中や広告塔議員連中やコメンテーターや論説委員などがバックに付いているから許されるのだそうだよ。……異常だ。

注意義務の水準は、法による判断よりも、人民が「注意が足りない」認定による、という無法地帯のようなことになっている、と。人民(→具体的には誰なのかは不明なのである)の認定を受けてしまうと、法的過失の有無に関係なく賠償義務を負わされるのである。


Xはあるテストの問題を解き答案を作成するものとする。
Xは答案の誤りがないように、一度作成した答案を再び全て見直すという注意を払っていた。更に、これでは不十分であると思い、Yに問題を解いて答案を作成してもらうことを依頼し、Xの作成した答案と照合し全て点検した。
この時、Xの払った注意とは、「自分で点検」「Yに依頼し照合して点検」ということである。この答案結果は、1000点満点で900点であったならば、「ミスが100点もあった」と非難される、ということである。訴訟になれば、法的に「ミスが何点までは許容されるか」という判断を行うのであり、例えばミスが100点以内であれば「自ら点検と照合して点検の注意を払っていたので、注意義務を果たしていた、故に過失は認めなかった」という具合に判断されるだろう。

しかし、時には「注意をしていた、けれどもまだ足りない」という、より高度な義務を課せられることは少なくない。医療裁判などでは、そうした傾向や判決が見られることがある。普通のレベルで考えると、1000点満点で950点であって「ミスの範囲はとても少ない」ということであっても、「注意が足りなかった」(=お前ら、もっと注意しとけ)ので過失認定となるのである。弁護士や裁判官や検察官がこれほどの義務を課せられているとは思われないが、「お前らもっと注意しとけ」と言われるのである。
更に、「肝炎一律救済」派の主張の如く、人民による「過失認定」を受けてしまうと、法に根拠のない義務を課せられるのである。10000点満点で9999点であったとしても、「1点ミスってるだろ」というような恣意的認定を人民が自由に行うことが許され、この罰を与えんが為に直接行動を行い、政府や政党を動かしさえすれば自由に過失認定が可能となるのだそうだ。過失を犯したのだから、「ペナルティを受けろ」と人民に求められ、これが当然とまで言われるのである。

全部のマスコミが
「たとえ1点でも、ミスってるだろ、ミスはミスだろ、ミスがあると認めろ、それを認めないというのかコノヤロ、人の命を何だと思ってんだ、ミスがあったのか無かったのかどっちだよ、あったんだったら認めろ、ミスを認めてお前ら謝れ、責任取って金払え」
と主張しているのだ。

ミスの程度とか、違法なミスであったかに無関係に、責任を負え、と。専ら「ミス」と主張しているのは、特定少数集団の人々とマスコミの無知無法の連中なのである。司法にミスかどうか判断を聞くよりも、自分たちの判定の方が「何よりも」優先されるのである。
テストの答案作成について、Xはどの程度まで注意義務を負わされるのか法的に判断されず、マスコミの知ったかぶりの連中が判断するのだそうだ。で、Xは点検、YやZに依頼して点検、国内外のA、B、C、…に照会して点検、どんだけやっても1000点満点で950点とか980点とか999点くらいはいくけど、満点は無理なのだ。でも、マスコミは「まだ足りない」とか勝手に言い、「10000点満点で9999点か、10万点満点で99999点くらいの精度になってなきゃダメだ。人の命を何だと思ってるんだ、それくらいの注意をするのは当たり前だろ」ということを求めるのである。


恐ろしい。