ここ最近の話題。
読売朝刊に記事が出た日、梅田氏がブログで絶賛したこともあって、注目を集めたようだ。
このままいくと日本語の知的水準は低下してしまうのではないか、他言語に飲み込まれ日本語が消滅してしまうのではないか、そうした危惧があることは、日本にとってはよい兆候かもしれない。その危機感こそが、日本語の知的活動を促す動機となるかもしれないからだ。
参考:「言葉の力」
時代というのは、流れていく。
言語もそうだろうと思う。
大昔であれば、先端知識の多くがヘブライ語とかギリシャ語とかアラビア語だったんじゃないだろうか。よく知らんけど。
ギリシャ哲学は、ギリシャ語だったんじゃないかと思う。だから、昔の知識人はギリシャ語原典を読める人でなければならなかったろう。けれども、ヨーロッパ世界ではギリシャ語はマイナーな存在となっていったろう。代わりにイタリア語とかラテン語なんかが台頭してきたからだろう。
イギリスがノルマンディー候に征服された時、英語は辺境の未開人が用いている言葉でしかなかった。極端に言えば、奴隷や野卑な者どもが用いる言葉であり、フランス語がヨーロッパ貴族階級の言葉であった。イギリス貴族はフランス語で会話できねばならなかった。上流階級の人間たちは、イングランド人であろうともフランス語が使えなければならなかった。このような認識は長く続いたであろう。100年戦争でイングランド軍がフランスの一部を占領していた時代にあってでさえ、そうだった。ジャンヌ・ダルクはイングランド軍を蹴散らしてオルレアンを解放したが、後に宗教裁判で異端とされイングランド軍に処刑された。この時代には、フランス語が知的階級の言葉であり裁判での言葉だった。イングランド軍にジャンヌ・ダルクを引き渡したブルゴーニュ公フィリップは、フランス貴族だったのだけれどもね。
漫画の話で恐縮だが、「小公女セーラ」でもロンドンの私立寄宿学校のフランス語授業のシーンが数多くあった。市長夫人やその取り巻き一派は、全員が「おフランス」語が必須であったし、授業参観(学校への寄付を募りたいが為の学院長の企て)でもセーラさんのフランス語発音が大層褒められていたのだった(時代設定はフランス革命から暫く後で、蒸気機関車が走っていたので、恐らく1800年代の終わりくらいだろうと思う)。つまり、当時のロンドンでさえ、やはりフランス語が上流階級には不可欠の言語であった、ということだ。
フランス語がこれほど広まる以前には、イタリア語だって最先端をいっていた時があったろう。なんたって、文化も金も知識人もローマ界隈とか、イタリアの都市国家なんかに多かったから、イタリア語こそが「花形」だったとしても不思議じゃない。世界初の大学だって、イタリアで誕生した。知の共有財産の多くは、イタリア上流世界にあったのだろうな、と。ルネサンス期にも、イタリア人が大活躍したしね。そんなイタリア語であっても、今では共通語でも何でもない。
その頃の英語と言えば、やはり、ド田舎の方言でしかなかった。金を稼ぎたいが為に、貧乏人のイングランド人はフランスとの戦争で経験値と金を稼ぎ、もっと金になるイタリアに一攫千金を夢みてやって来ていた。恐らく誰も英語なんか使ってなかったろう(笑)。戦闘では、きっと鳴り物(ドラみたいなもの?それとも太鼓や角笛みたいなもの?)で合図を決めていただろうから、外人部隊(例えばイングランド人、スイス人、ドイツ人など)の傭兵軍団が共通の言葉なんかを知らないとしても、何とか戦えたんだろうなと思う。
植民地支配領域の多かったスペインは、世界中にスペイン語を拡散した。だから未だにスペイン語を公用語としている国は多数ある。そうやって一時期世界の言語圏に影響を与えることは幾度か発生し、どの言語が重要になってくるかは時代によって移り変わる。政治的な情勢によっても、変わってしまうのだ。例の「最後の授業」っぽいことだって、起こりえるのだ。
確かフリードリヒ2世だったと思うが、「スペイン語は神に話しかける語、フランス語は貴族の語、ドイツ語は馬丁の語だ」と言った。ヨーロッパ世界での言語というのは、そうした価値観みたいなものが長らく残っていたのではないかと思う。
フランス語は今でも国連の公用語になっていたと思うが、欧州的価値観が長らく続いていた時代には、最終的に君臨することになったのはフランス語だったと思う。
しかし、大英帝国が世界最強の覇権国家となり、その後には欧州という旧大陸ではなく米国が最も大きな影響力を持ったので、過去100年とかの「短い」(笑)スパンで見れば、英語が頂点を極めたかのように見えるのである。英米とたまたま英語圏の国が連続だったのだから。これは、基軸通貨と同じような意味合いだろうと思う。ドルが基軸となったのは確かだが、だからといって、他の通貨が無価値になるとか、全ての通貨が消えるということにはならないだろう。世界の重心は常に動いてきた。だから、英語は今後にも「便利語」としての意味はあるだろうと思うけれども、知の財産を英語以外には殆ど集積できない、とする考え方には必ずしも賛同できないかな。
ロシア語であろうと、アラビア語、中国語や日本語であろうと、知的活動は行われていく。古典が消えることがないのであれば、ドンキホーテが読み継がれてきたように、長期間残る可能性はあると思う。ロシア文学が消えてなくなるわけでもないだろう。結局のところ、世界は通貨圏が広がったのと同じように、基軸通貨と同じく共通理解を得る為の言語が必要とされるであろう。
現在だって、「レッセ・フェール」とか「ノブレス・オブリージュ」とか「レゾンデートル」とか言うじゃないですか。「マニフェスト」も使っていますね。「アウフヘーベン」だの「ゲゼルシャフト」だのとか使うこともありますよね。日本語に翻訳された言葉で伝わるものもあれば、原典通りのものが用いられることもある。
日本語だって、日本語でしか「音」「リズム」みたいなものが伝わらないものもある。詩や歌や俳句ばかりではなく、落語、講談や浪曲みたいなものだってそうだ。それらは、勉強とか強制とかではなく、文化を遺そうとする意志によるのではないかと思う。どんな形でもよいのだが、「日本語で書かれた原典」を読ませるような気を興させることこそが必要なのだと思う。それは日本人がフランス語やドイツ語や英語で書かれた原典を、日本語ではなく元の言語で読みたいと思わせたのと同じだ。それには、他の言語圏の人々を惹き付けるような「何か」がなければならない。何もなければ、日本を知る為に日本語を理解しようとする人たちは生まれてこなくなっていくかもしれない。
読売朝刊に記事が出た日、梅田氏がブログで絶賛したこともあって、注目を集めたようだ。
このままいくと日本語の知的水準は低下してしまうのではないか、他言語に飲み込まれ日本語が消滅してしまうのではないか、そうした危惧があることは、日本にとってはよい兆候かもしれない。その危機感こそが、日本語の知的活動を促す動機となるかもしれないからだ。
参考:「言葉の力」
時代というのは、流れていく。
言語もそうだろうと思う。
大昔であれば、先端知識の多くがヘブライ語とかギリシャ語とかアラビア語だったんじゃないだろうか。よく知らんけど。
ギリシャ哲学は、ギリシャ語だったんじゃないかと思う。だから、昔の知識人はギリシャ語原典を読める人でなければならなかったろう。けれども、ヨーロッパ世界ではギリシャ語はマイナーな存在となっていったろう。代わりにイタリア語とかラテン語なんかが台頭してきたからだろう。
イギリスがノルマンディー候に征服された時、英語は辺境の未開人が用いている言葉でしかなかった。極端に言えば、奴隷や野卑な者どもが用いる言葉であり、フランス語がヨーロッパ貴族階級の言葉であった。イギリス貴族はフランス語で会話できねばならなかった。上流階級の人間たちは、イングランド人であろうともフランス語が使えなければならなかった。このような認識は長く続いたであろう。100年戦争でイングランド軍がフランスの一部を占領していた時代にあってでさえ、そうだった。ジャンヌ・ダルクはイングランド軍を蹴散らしてオルレアンを解放したが、後に宗教裁判で異端とされイングランド軍に処刑された。この時代には、フランス語が知的階級の言葉であり裁判での言葉だった。イングランド軍にジャンヌ・ダルクを引き渡したブルゴーニュ公フィリップは、フランス貴族だったのだけれどもね。
漫画の話で恐縮だが、「小公女セーラ」でもロンドンの私立寄宿学校のフランス語授業のシーンが数多くあった。市長夫人やその取り巻き一派は、全員が「おフランス」語が必須であったし、授業参観(学校への寄付を募りたいが為の学院長の企て)でもセーラさんのフランス語発音が大層褒められていたのだった(時代設定はフランス革命から暫く後で、蒸気機関車が走っていたので、恐らく1800年代の終わりくらいだろうと思う)。つまり、当時のロンドンでさえ、やはりフランス語が上流階級には不可欠の言語であった、ということだ。
フランス語がこれほど広まる以前には、イタリア語だって最先端をいっていた時があったろう。なんたって、文化も金も知識人もローマ界隈とか、イタリアの都市国家なんかに多かったから、イタリア語こそが「花形」だったとしても不思議じゃない。世界初の大学だって、イタリアで誕生した。知の共有財産の多くは、イタリア上流世界にあったのだろうな、と。ルネサンス期にも、イタリア人が大活躍したしね。そんなイタリア語であっても、今では共通語でも何でもない。
その頃の英語と言えば、やはり、ド田舎の方言でしかなかった。金を稼ぎたいが為に、貧乏人のイングランド人はフランスとの戦争で経験値と金を稼ぎ、もっと金になるイタリアに一攫千金を夢みてやって来ていた。恐らく誰も英語なんか使ってなかったろう(笑)。戦闘では、きっと鳴り物(ドラみたいなもの?それとも太鼓や角笛みたいなもの?)で合図を決めていただろうから、外人部隊(例えばイングランド人、スイス人、ドイツ人など)の傭兵軍団が共通の言葉なんかを知らないとしても、何とか戦えたんだろうなと思う。
植民地支配領域の多かったスペインは、世界中にスペイン語を拡散した。だから未だにスペイン語を公用語としている国は多数ある。そうやって一時期世界の言語圏に影響を与えることは幾度か発生し、どの言語が重要になってくるかは時代によって移り変わる。政治的な情勢によっても、変わってしまうのだ。例の「最後の授業」っぽいことだって、起こりえるのだ。
確かフリードリヒ2世だったと思うが、「スペイン語は神に話しかける語、フランス語は貴族の語、ドイツ語は馬丁の語だ」と言った。ヨーロッパ世界での言語というのは、そうした価値観みたいなものが長らく残っていたのではないかと思う。
フランス語は今でも国連の公用語になっていたと思うが、欧州的価値観が長らく続いていた時代には、最終的に君臨することになったのはフランス語だったと思う。
しかし、大英帝国が世界最強の覇権国家となり、その後には欧州という旧大陸ではなく米国が最も大きな影響力を持ったので、過去100年とかの「短い」(笑)スパンで見れば、英語が頂点を極めたかのように見えるのである。英米とたまたま英語圏の国が連続だったのだから。これは、基軸通貨と同じような意味合いだろうと思う。ドルが基軸となったのは確かだが、だからといって、他の通貨が無価値になるとか、全ての通貨が消えるということにはならないだろう。世界の重心は常に動いてきた。だから、英語は今後にも「便利語」としての意味はあるだろうと思うけれども、知の財産を英語以外には殆ど集積できない、とする考え方には必ずしも賛同できないかな。
ロシア語であろうと、アラビア語、中国語や日本語であろうと、知的活動は行われていく。古典が消えることがないのであれば、ドンキホーテが読み継がれてきたように、長期間残る可能性はあると思う。ロシア文学が消えてなくなるわけでもないだろう。結局のところ、世界は通貨圏が広がったのと同じように、基軸通貨と同じく共通理解を得る為の言語が必要とされるであろう。
現在だって、「レッセ・フェール」とか「ノブレス・オブリージュ」とか「レゾンデートル」とか言うじゃないですか。「マニフェスト」も使っていますね。「アウフヘーベン」だの「ゲゼルシャフト」だのとか使うこともありますよね。日本語に翻訳された言葉で伝わるものもあれば、原典通りのものが用いられることもある。
日本語だって、日本語でしか「音」「リズム」みたいなものが伝わらないものもある。詩や歌や俳句ばかりではなく、落語、講談や浪曲みたいなものだってそうだ。それらは、勉強とか強制とかではなく、文化を遺そうとする意志によるのではないかと思う。どんな形でもよいのだが、「日本語で書かれた原典」を読ませるような気を興させることこそが必要なのだと思う。それは日本人がフランス語やドイツ語や英語で書かれた原典を、日本語ではなく元の言語で読みたいと思わせたのと同じだ。それには、他の言語圏の人々を惹き付けるような「何か」がなければならない。何もなければ、日本を知る為に日本語を理解しようとする人たちは生まれてこなくなっていくかもしれない。