これは私自身も似たようなことを感じることがあったので、理解できないわけではない。が、恐らく主張点は経済学にはあまり関係がないかもしれないな、と思ったりもする。経済学との対話ということでいうと、言葉や考え方の整理が必要なのかもしれない。
はてなブックマーク - macska dot org Blog Archive 経済学S1/自由貿易--「現状をよりマシにすること」と「正しさ」の違い
簡単に言えば「経済学者たちは”正しい”と言っていながら、実はイデオロギーとか不正義とかを巧妙に隠蔽している」というようなことであろうか。
うん、そうなんだ。
現実にそういうスリカエっぽく言辞を振り回す人たちもいると感じてきた。
けれど、経済学の理屈というのは、悪意的利用を行う人間が登場してくることを想定してはいないだろう。どんなに経済学の理論が素晴らしくても、それを防ぐことはできない。経済学の知識はうまく利用する価値はあるけれども、都合よく利用されてしまうことだってある。
まず、根本的な問題として、「正しい」という場合に経済学者が用いるのは、多分一般的にいう「”経済学的に”正しい」という意図であろうと思う。それは倫理的にどうとか、人道的な立場ではどうとか、そういった判断はあまり示されないことが多いかもしれない。
《例文》
しゃっくりを止めるには、眼球を圧迫するのが正しい
仮に、こういう主張があるものとします。
この文では「正しい」の意図は、当然のことながら「経済学的に」正しいかどうかは不明です。含意としては、通常「”生理学的に”正しい」ということだろうと思います。人道的かどうか、倫理的にどうか、といった判断は示せません。また、これが「ベストである」ということも示すわけではありません。
かといって、根拠のない主張かといえば、そんなことはなくて、副交感神経抑制なのだから眼球圧迫で迷走神経刺激となり、ひいてはしゃっくりを止める効果が期待できる、というような理屈はあるわけです。けれど、「眼球を圧迫するべきだ」とも教えてはくれないし、「眼球圧迫は正しい」ということの絶対的評価のようなものも存在していません。ただ「眼球を圧迫すると~~となるので、しゃっくりを止める効果が期待できる」ということは生理学上正しい議論だろうね、ということだけ(無根拠でない、ということ)。
手短に言う場合には、いちいち全ての語の定義をあげたり確認したりするといった作業は行われません。単に判りやすく「~は正しい」といった表現をとることはあるでしょう。正しさの意味合いとは、概ね「客観的評価に基づいている」ということがあり、その上で(ある特定の専門分野の)学問上ではどう考えられているか、ということがあるのかな、と思います。経済関連の言説のうち、こうした条件を満たしていることはあまり多くはないようにも思えますが、一応は「経済学者が言う」場合というのは、言ってる本人は極めて真面目に自分の説や主張というものが正しい議論なのである、と考えているでしょう。
元の話に戻って、自由貿易は正しい、という主張というのは、これまで考えられてきた経済学上においては「経済学的に正しい」ということを示せるだけであって、本当にその環境下の人々が幸福であるとか「自由貿易のお陰でよかったな」と分るor感じるというものではないでしょう。こうした理論には、基本的前提条件があるのであって、その条件下では正しい、という議論が成立するということを示すので、殊更倫理的評価だの人道上だのといった判断は「何も示しません」ということでしょう。中には、そういう壁を勝手に飛び越えて、社会の合意というものではないものについてまで「これが正しいんだ!」と独自理論をぶちまけている経済ナントカや学者モドキがいることは確かでしょうけれど。
騒ぐと殺すぞ、と脅された場合、被害者が強姦される方が「殺されるよりマシだ、だから両者には効用がある」というような理屈は、経済学の範疇ではないのではないでしょうか。理屈の上では想定して考えることができるかもしれませんが、あくまで想定実験のような試みであるので、実際の学問上の理屈としては「殺されるより強姦されると両者に効用がある、という意見は”正しい”」というふうに、言ったりはしないのでは。比較すること自体が、元々誤りなのでは。あくまで状態比較なので、学問として扱う分野ではない、ということかと。比較するべきは、「犯罪警備の対策コストをCだけ使ったとしても、殺人または強姦を防げる効用の方が大きい」とか、「対策コストCよりも、犯罪者防止教育プログラムのコストC´の方が、抑止効果が高い」とか、そういうことです。
経済学上では比べられないものとは、例えば「超高層ビルの火災です。脱出用パラシュートが一つしかない時、自分の親を助けるか、それとも恋人または配偶者を助けるか、どちらが正しいですか?」といった問いだ。これは経済学が答えを出してくれるものではない、ということかな。なので、極端な例を出して、「~の方がマシだ」という状態比較を行うのは、全ての場合に「経済学が答えを出せる」といった完璧性を求めているのと同じようなことになってしまうのでは。
使い道として、「経済学理論では答えられないでしょう?そんなに過信していてもいいんですか?」ということでなら意味はあると思うけれども、自由貿易の議論をすることはできても、理論を「強盗」なんかに置き換えるのはできないだろう。だって、ほぼ全ての場合に「殺されるより~した方がマシだ(効用が上がる)」理論は通用してしまうからだ(笑)。それは学問ではないような気がする。
自由貿易の理屈は、大抵の場合に正しいということが身近な部分から感じ取れるだろう。
狩りの上手な人と、皮なめしの上手な人が、分業した方がより効率的になるだろう、ということは容易に予想されるからだ。狩りの上手な人は獲物を出し、皮なめし専門の人は毛皮を出す。これを交換することで、それぞれが効用がアップする、ということだ。皮なめし技術の無い世界だと、狩りの上手な人がどんなに頑張って獲物を取ってきても、財の種類が増えないし獲物から得られる効用には限界が訪れる。物理的に「獲得できる獲物」には限界があるからだ。けれども、交換が成立する世界だと、それぞれの側の効用は高くなるし、財の種類が2つになっているし、狩りの上手な人が皮なめしをやるより、はるかに効率よく毛皮になるのだから。それがそれぞれ国であっても多分同じだろうな、と。
自由貿易の理屈は、奴隷制や植民地が正しいとかそれをすべきだ、ということを分るようにはしてくれないだろう。言えるのは、ただ単に「経済学的にはどうか」、ということだけ。
ある支配国の甲があるとする。甲は武力で征服した植民地の乙を有しており、乙の住民は無理矢理労働に狩り出されてしまう。
支配国の甲では「綿織物」を作り、乙の人間に供給。乙は甲の命令でゴム園の作業に従事させられる。乙から甲にゴムを供給するのだ。さて、植民地支配として考えると、甲の立場では「綿織物を多く買わせたい」ということと、「ゴム生産を安く大量にやって欲しい」ということがある。乙側としては、安い賃金で作業させられ、労働力を搾取されてしまう、と。それまで乙では好きな時に魚を獲ったり、木の実を採取したりして、のんびり暮らしていたのに、甲がやってきてからは労働を強制された。こんな生活は不幸せだ、と、乙の住人が感じたとしても不思議ではないだろう。
取引形態としては、甲からは綿織物、乙からはゴムが輸出される。で、この交換を通じて、乙では「それまでなかった綿織物」を着るとか生活全般に利用できるようになったよ、と。これを効用が上がった、というのであろう。で、貨幣経済が浸透していくことになり、安い労賃ではあるけれども、それを目的として労働する人々が乙の中から大量に出てくるようになる、と。乙の人々にとって、貨幣も綿織物も「幸せかどうか」と感じることとは違う。経済学的には「効用が上がった」という結論であるとしても、それが「みんなが望んでいる幸せな社会か」という結論とは違う、ということかな。経済学的に正しい、という意見は、多くの人々の幸せを意味するものでない。甲の住人にとっては「幸せだ」と多くが感じるのに、他の地域では「全然幸せとは感じない」ということは起こり得るであろう。なので、乙の住人たちが、「ゴム栽培ができてよかった、よかった、乙が豊かな国になれてよかった」と多くが感じるかどうかは分らない。
昔の乙の稼ぎだと、魚を獲るか木の実採取くらいなので、”労賃に換算”する(甲の基準の貨幣価値)とたったの「1」だったものが、ゴム栽培をするようになって飛躍的に”向上”し「10」になったじゃないか、それは裕福になったということなんだ、みたいな理屈を述べられる時に、嫌悪感を催すのだろうと思う。それは乙の人々が自由意志で選んでなったわけじゃない。選択余地なんかなかったのに、甲基準の”換算”を勝手に行われてしまい、挙句に「植民地のおかげで裕福になった」とかの評価を受けてしまうことが、あまりに疑問なのである。貨幣価値に置き換えて考える、というその思考方法そのもの、評価の仕方そのものが、あくまで「甲基準」なのである。ゴム園で労賃10もらうのと、過去のように魚を獲ったり木の実を食べて生活するのと、どっちが幸せなんだよ、という時、乙の人間が決めればいいことなのだから。甲の人間がやってきて、「乙はド田舎の不便な場所だな、よくこんなところに住めるな、なんて未発達なんだ」とか御託を並べて不満を述べてもらう必要性というのは、そもそもないのである。呼びもしないのに、勝手に「征服」にやってきて、挙句に甲の自分勝手な基準で全部を評価されてしまうのだから。もしも甲がやってこなかったら、稼ぎが1のままの乙は不幸であったか、というのは、本当のところは誰にも分らないのである。少なくとも、甲の人間が考えて分ることじゃない。
貨幣価値に換算するという思考法は、あくまで一つの評価方法ということでしかない。実験でいえば、測定手技の一つ、というだけだ。もっと優れた評価方法や測定手技が編み出されれば、全然違った結果になるかもしれない。甲と乙の関係は、まだいい方だろうと思う。乙の住人が貨幣で何か買える、ということがあるからだ。
アフリカの奴隷売買なんかだと、一方的にごそっと搾取されていった、というだけである。インカ帝国やマヤ文明のような金銀財宝もなければ、不毛な土地で採れる作物とて、これといってないわけだ。そうなると、搾取できるものと言えば、労働力そのものくらいしかないわけで、これは昔からの奴隷の慣習があったが故に、さしたる抵抗もなく社会に浸透していたのであろう。別に後ろ暗さとか、倫理的に良くないな、とか、そういう感覚は一切なかったであろうと思う。もしそんな罪悪感があるなら、早々に廃止されていたであろう。しかし、数百年に及ぶ制度であったので、西欧では当たり前の出来事であった、ということだろう。当時においては、「倫理的に間違ってない」ということさえあるかもしれない。道徳観念なんてものは、時代が変われば大きく違うし、社会の慣習とか歴史とかそういうものでいくらでも異なるということだと思う(「捕鯨」がいい例だろう)。
この奴隷搾取というのは、喩えて言うなら、隣の家のヤクザが時々我が家に乗り込んできては、我が子の誰かをさらって行くのである。抵抗する者には、ヤクザの暴力が待っているのだ。銃で撃たれるか、しこたま殴られるか、日本刀でバッサリ切りつけられるか、そういう目に遭うので、子どもたちがさらわれていくのが阻止できないのである。或いは、我が家の入っている家の大家が、隣のヤクザに「あの家にさらいに行ってもいいぜ」とか勝手に言い、するとヤクザが乗り込んできて子どもをさらっていく、ということになる。大家は勿論ヤクザからの礼をたっぷりもらっていたりするのである。こんなのは、そもそも貿易なんかではない。貿易でないものに、自由貿易の論理を適用しても、あんまり役立たないのではないかな、と思ったりする。
最後に、不正義という話について。
よくエセっぽい学者たちが、いかにもそれらしく「科学の装い」で人々を惑わせることはあると思う。不正義を隠蔽しつつ、理論的に正しいだの、論理的or科学的or経済学的思考をせよだの、説教を垂れていることが珍しくはないからだ。けれども、不正義を経済学の理論から明らかにしていくことは、かなり難しいのではないかと思える。経済学という道具立てでは、正義と不正義をより分ける機能はないのでは。「経済学は不正義を検出できる」みたいなことが、未だ明らかになっていないからではないかな、と。それは経済学のせいでも、経済学者のせいでもないように思える。
不正義を正当化する為の道具に使う、というのは、経済学という学問そのものには何の罪も責任もないであろう。それを用いる人間にこそ、不正義の芽が潜んでいるのであり、その萌芽を防げないのは経済学がまだ不完全で不十分な成果しか得られていないからであろう。正当化する為の道具にしている人間を「簡単に排除」できないのは、その証拠ということである(笑)。
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簡単に言えば「経済学者たちは”正しい”と言っていながら、実はイデオロギーとか不正義とかを巧妙に隠蔽している」というようなことであろうか。
うん、そうなんだ。
現実にそういうスリカエっぽく言辞を振り回す人たちもいると感じてきた。
けれど、経済学の理屈というのは、悪意的利用を行う人間が登場してくることを想定してはいないだろう。どんなに経済学の理論が素晴らしくても、それを防ぐことはできない。経済学の知識はうまく利用する価値はあるけれども、都合よく利用されてしまうことだってある。
まず、根本的な問題として、「正しい」という場合に経済学者が用いるのは、多分一般的にいう「”経済学的に”正しい」という意図であろうと思う。それは倫理的にどうとか、人道的な立場ではどうとか、そういった判断はあまり示されないことが多いかもしれない。
《例文》
しゃっくりを止めるには、眼球を圧迫するのが正しい
仮に、こういう主張があるものとします。
この文では「正しい」の意図は、当然のことながら「経済学的に」正しいかどうかは不明です。含意としては、通常「”生理学的に”正しい」ということだろうと思います。人道的かどうか、倫理的にどうか、といった判断は示せません。また、これが「ベストである」ということも示すわけではありません。
かといって、根拠のない主張かといえば、そんなことはなくて、副交感神経抑制なのだから眼球圧迫で迷走神経刺激となり、ひいてはしゃっくりを止める効果が期待できる、というような理屈はあるわけです。けれど、「眼球を圧迫するべきだ」とも教えてはくれないし、「眼球圧迫は正しい」ということの絶対的評価のようなものも存在していません。ただ「眼球を圧迫すると~~となるので、しゃっくりを止める効果が期待できる」ということは生理学上正しい議論だろうね、ということだけ(無根拠でない、ということ)。
手短に言う場合には、いちいち全ての語の定義をあげたり確認したりするといった作業は行われません。単に判りやすく「~は正しい」といった表現をとることはあるでしょう。正しさの意味合いとは、概ね「客観的評価に基づいている」ということがあり、その上で(ある特定の専門分野の)学問上ではどう考えられているか、ということがあるのかな、と思います。経済関連の言説のうち、こうした条件を満たしていることはあまり多くはないようにも思えますが、一応は「経済学者が言う」場合というのは、言ってる本人は極めて真面目に自分の説や主張というものが正しい議論なのである、と考えているでしょう。
元の話に戻って、自由貿易は正しい、という主張というのは、これまで考えられてきた経済学上においては「経済学的に正しい」ということを示せるだけであって、本当にその環境下の人々が幸福であるとか「自由貿易のお陰でよかったな」と分るor感じるというものではないでしょう。こうした理論には、基本的前提条件があるのであって、その条件下では正しい、という議論が成立するということを示すので、殊更倫理的評価だの人道上だのといった判断は「何も示しません」ということでしょう。中には、そういう壁を勝手に飛び越えて、社会の合意というものではないものについてまで「これが正しいんだ!」と独自理論をぶちまけている経済ナントカや学者モドキがいることは確かでしょうけれど。
騒ぐと殺すぞ、と脅された場合、被害者が強姦される方が「殺されるよりマシだ、だから両者には効用がある」というような理屈は、経済学の範疇ではないのではないでしょうか。理屈の上では想定して考えることができるかもしれませんが、あくまで想定実験のような試みであるので、実際の学問上の理屈としては「殺されるより強姦されると両者に効用がある、という意見は”正しい”」というふうに、言ったりはしないのでは。比較すること自体が、元々誤りなのでは。あくまで状態比較なので、学問として扱う分野ではない、ということかと。比較するべきは、「犯罪警備の対策コストをCだけ使ったとしても、殺人または強姦を防げる効用の方が大きい」とか、「対策コストCよりも、犯罪者防止教育プログラムのコストC´の方が、抑止効果が高い」とか、そういうことです。
経済学上では比べられないものとは、例えば「超高層ビルの火災です。脱出用パラシュートが一つしかない時、自分の親を助けるか、それとも恋人または配偶者を助けるか、どちらが正しいですか?」といった問いだ。これは経済学が答えを出してくれるものではない、ということかな。なので、極端な例を出して、「~の方がマシだ」という状態比較を行うのは、全ての場合に「経済学が答えを出せる」といった完璧性を求めているのと同じようなことになってしまうのでは。
使い道として、「経済学理論では答えられないでしょう?そんなに過信していてもいいんですか?」ということでなら意味はあると思うけれども、自由貿易の議論をすることはできても、理論を「強盗」なんかに置き換えるのはできないだろう。だって、ほぼ全ての場合に「殺されるより~した方がマシだ(効用が上がる)」理論は通用してしまうからだ(笑)。それは学問ではないような気がする。
自由貿易の理屈は、大抵の場合に正しいということが身近な部分から感じ取れるだろう。
狩りの上手な人と、皮なめしの上手な人が、分業した方がより効率的になるだろう、ということは容易に予想されるからだ。狩りの上手な人は獲物を出し、皮なめし専門の人は毛皮を出す。これを交換することで、それぞれが効用がアップする、ということだ。皮なめし技術の無い世界だと、狩りの上手な人がどんなに頑張って獲物を取ってきても、財の種類が増えないし獲物から得られる効用には限界が訪れる。物理的に「獲得できる獲物」には限界があるからだ。けれども、交換が成立する世界だと、それぞれの側の効用は高くなるし、財の種類が2つになっているし、狩りの上手な人が皮なめしをやるより、はるかに効率よく毛皮になるのだから。それがそれぞれ国であっても多分同じだろうな、と。
自由貿易の理屈は、奴隷制や植民地が正しいとかそれをすべきだ、ということを分るようにはしてくれないだろう。言えるのは、ただ単に「経済学的にはどうか」、ということだけ。
ある支配国の甲があるとする。甲は武力で征服した植民地の乙を有しており、乙の住民は無理矢理労働に狩り出されてしまう。
支配国の甲では「綿織物」を作り、乙の人間に供給。乙は甲の命令でゴム園の作業に従事させられる。乙から甲にゴムを供給するのだ。さて、植民地支配として考えると、甲の立場では「綿織物を多く買わせたい」ということと、「ゴム生産を安く大量にやって欲しい」ということがある。乙側としては、安い賃金で作業させられ、労働力を搾取されてしまう、と。それまで乙では好きな時に魚を獲ったり、木の実を採取したりして、のんびり暮らしていたのに、甲がやってきてからは労働を強制された。こんな生活は不幸せだ、と、乙の住人が感じたとしても不思議ではないだろう。
取引形態としては、甲からは綿織物、乙からはゴムが輸出される。で、この交換を通じて、乙では「それまでなかった綿織物」を着るとか生活全般に利用できるようになったよ、と。これを効用が上がった、というのであろう。で、貨幣経済が浸透していくことになり、安い労賃ではあるけれども、それを目的として労働する人々が乙の中から大量に出てくるようになる、と。乙の人々にとって、貨幣も綿織物も「幸せかどうか」と感じることとは違う。経済学的には「効用が上がった」という結論であるとしても、それが「みんなが望んでいる幸せな社会か」という結論とは違う、ということかな。経済学的に正しい、という意見は、多くの人々の幸せを意味するものでない。甲の住人にとっては「幸せだ」と多くが感じるのに、他の地域では「全然幸せとは感じない」ということは起こり得るであろう。なので、乙の住人たちが、「ゴム栽培ができてよかった、よかった、乙が豊かな国になれてよかった」と多くが感じるかどうかは分らない。
昔の乙の稼ぎだと、魚を獲るか木の実採取くらいなので、”労賃に換算”する(甲の基準の貨幣価値)とたったの「1」だったものが、ゴム栽培をするようになって飛躍的に”向上”し「10」になったじゃないか、それは裕福になったということなんだ、みたいな理屈を述べられる時に、嫌悪感を催すのだろうと思う。それは乙の人々が自由意志で選んでなったわけじゃない。選択余地なんかなかったのに、甲基準の”換算”を勝手に行われてしまい、挙句に「植民地のおかげで裕福になった」とかの評価を受けてしまうことが、あまりに疑問なのである。貨幣価値に置き換えて考える、というその思考方法そのもの、評価の仕方そのものが、あくまで「甲基準」なのである。ゴム園で労賃10もらうのと、過去のように魚を獲ったり木の実を食べて生活するのと、どっちが幸せなんだよ、という時、乙の人間が決めればいいことなのだから。甲の人間がやってきて、「乙はド田舎の不便な場所だな、よくこんなところに住めるな、なんて未発達なんだ」とか御託を並べて不満を述べてもらう必要性というのは、そもそもないのである。呼びもしないのに、勝手に「征服」にやってきて、挙句に甲の自分勝手な基準で全部を評価されてしまうのだから。もしも甲がやってこなかったら、稼ぎが1のままの乙は不幸であったか、というのは、本当のところは誰にも分らないのである。少なくとも、甲の人間が考えて分ることじゃない。
貨幣価値に換算するという思考法は、あくまで一つの評価方法ということでしかない。実験でいえば、測定手技の一つ、というだけだ。もっと優れた評価方法や測定手技が編み出されれば、全然違った結果になるかもしれない。甲と乙の関係は、まだいい方だろうと思う。乙の住人が貨幣で何か買える、ということがあるからだ。
アフリカの奴隷売買なんかだと、一方的にごそっと搾取されていった、というだけである。インカ帝国やマヤ文明のような金銀財宝もなければ、不毛な土地で採れる作物とて、これといってないわけだ。そうなると、搾取できるものと言えば、労働力そのものくらいしかないわけで、これは昔からの奴隷の慣習があったが故に、さしたる抵抗もなく社会に浸透していたのであろう。別に後ろ暗さとか、倫理的に良くないな、とか、そういう感覚は一切なかったであろうと思う。もしそんな罪悪感があるなら、早々に廃止されていたであろう。しかし、数百年に及ぶ制度であったので、西欧では当たり前の出来事であった、ということだろう。当時においては、「倫理的に間違ってない」ということさえあるかもしれない。道徳観念なんてものは、時代が変われば大きく違うし、社会の慣習とか歴史とかそういうものでいくらでも異なるということだと思う(「捕鯨」がいい例だろう)。
この奴隷搾取というのは、喩えて言うなら、隣の家のヤクザが時々我が家に乗り込んできては、我が子の誰かをさらって行くのである。抵抗する者には、ヤクザの暴力が待っているのだ。銃で撃たれるか、しこたま殴られるか、日本刀でバッサリ切りつけられるか、そういう目に遭うので、子どもたちがさらわれていくのが阻止できないのである。或いは、我が家の入っている家の大家が、隣のヤクザに「あの家にさらいに行ってもいいぜ」とか勝手に言い、するとヤクザが乗り込んできて子どもをさらっていく、ということになる。大家は勿論ヤクザからの礼をたっぷりもらっていたりするのである。こんなのは、そもそも貿易なんかではない。貿易でないものに、自由貿易の論理を適用しても、あんまり役立たないのではないかな、と思ったりする。
最後に、不正義という話について。
よくエセっぽい学者たちが、いかにもそれらしく「科学の装い」で人々を惑わせることはあると思う。不正義を隠蔽しつつ、理論的に正しいだの、論理的or科学的or経済学的思考をせよだの、説教を垂れていることが珍しくはないからだ。けれども、不正義を経済学の理論から明らかにしていくことは、かなり難しいのではないかと思える。経済学という道具立てでは、正義と不正義をより分ける機能はないのでは。「経済学は不正義を検出できる」みたいなことが、未だ明らかになっていないからではないかな、と。それは経済学のせいでも、経済学者のせいでもないように思える。
不正義を正当化する為の道具に使う、というのは、経済学という学問そのものには何の罪も責任もないであろう。それを用いる人間にこそ、不正義の芽が潜んでいるのであり、その萌芽を防げないのは経済学がまだ不完全で不十分な成果しか得られていないからであろう。正当化する為の道具にしている人間を「簡単に排除」できないのは、その証拠ということである(笑)。