いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

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石川遼くんは本当に立派だな

2008年11月23日 22時33分03秒 | いいことないかな
この前優勝して、随分と気持ちが楽になったのだろうと思うが、やっぱ本物だな。
並み居るプロを前にして優勝争いに絡んでくるのだから。まだ高校生とは思えない、期待以上の活躍と言っていいだろう。

遼クン、惜しい!1打差2位/男子ゴルフ(日刊スポーツ) - Yahooニュース


今年前半は、注目されているということもあったろうが、もっと彼を苦しめたのは待遇がとりわけ優遇されていたことだろう。彼だって、予選会から勝ち上がってくるプロが大勢いることは当然知っているだろうから。それが、ポッと出の苦労知らずみたいな若造なのに、苦労人たちを差し置いて招待選手として試合に出られるのだから、精神的に苦しまないはずがないだろう。「自分が背負っているもの」への責任感だって、かなり強く感じていたであろう。それ故に、「結果を出すしかない」という切羽詰ったような、強迫観念にも似たプレッシャーがあったのではないかな。野球で言えば、「自分がエースなんだから、自分がしっかりしなきゃ」みたいな。男子プロゴルフをたった一人で背負ってしまったのかもしれない。


こうしたメンタル面の不調を引きずっていたので、下部の大会に出て気分を変えたりもしていたようだが、それでも連続予選落ちの苦渋を味わうこととなった。きっと、あの時期が一番辛かったろう。人一倍練習もしてるし、自分の体調もそれなりに良いと思える時でさえ、どういうわけか結果が出ない。気負いが空回りする。大事に行かなきゃと思って、余計にミスる。ゴルフは(私は一度もやったことないけど)メンタルスポーツとか言うけれど、きっとその通りなんだろうと思う。


そんな泥沼から抜け出すキッカケになったのは、多分、あの青木さんとのラウンドの時だったのではないかな。
それまでは大会運営側の思惑なんかがあって、トッププロと組まされることが割りと多かったように思うが、あの時は誰が采配したのかは知らないが、「世界の青木」さんと組ませたのだな。丁度、「孫とおじいちゃん」という、ほのぼの組だったわけだ。これが、真にナイスなマッチアップだったんだろうと思うのですよ。

あの日を境にして、遼くんは蘇った。
あの大会以降、直ぐに結果を出した―勿論、優勝という最高の結果だ。
やはり、「世界の青木」、ただ者ではないな(笑)。
青木さんとのラウンド中に、青木さんがどんな語りをしたのかは知らない。例の、あの口調で喋りながら、多分「かわいい孫」に接するように目を細めて、一緒にプレーしてくれたんだろうと思う。いや、見たわけじゃないから、全然知らないんだけど。
でも青木さんのことだから、いっぱい褒めてくれたんだろう。何か「肩の荷」を降ろしてくれたんだろう。それまで苦しんでいたプレッシャーから、遼くんを解き放ってくれたんだろう。そんな気がするんだよね。

若いんだから、いくら失敗したっていいんだよ、とか、
十分うまいよ、才能あるよ、オレなんかよりも、とか、
まだまだ伸びるよ、今まで見た中で一番いいよ、とか、
遼くんが頑張れない時には○○とか△△が引っ張ればいいんだからさ、とか、

そんなことを言ったのかは判らない。
けど、ゴルフの楽しさを思い出させるような、それともプレーできる歓びを思い出させるような何かを、青木さんが取り戻してくれたのかもしれない。前向きになれるような、不思議な効果がきっとあったんじゃないかな、と思っている。


人間って、スランプになる時だってあるよ。何歳になってもそう。
遼くんは、プロだといっても、所詮は18歳の若者なんだから。多くのプロスポーツ選手は自らの力でスランプに挑み克服することが多いだろうが、中にはそれで挫折していく人たちもきっといるだろう。プロに成りたての、ひよっ子選手が苦しむのなんて当たり前だもんね。そういう時に、コーチとか周囲の人たちがうまくアシストしてくれると抜け出せることもあるかもしれないけれど、奏功するかどうかは判らないからね。けど、「何かにすがりたい、誰かに寄りかかりたい」みたいになっている時に、周囲の大人たちにはできないことだってあるかもしれないよね。でも、青木さんくらいに年が離れていると、そういう安らぎみたいなものか安心感みたいなものがあって、単なる競争相手というよりも(プロ同士だから一応は)、よき人生の先輩(それとも憧れの大先輩?)として、共にラウンドできたんだろうと思う。


こういう時、ああ、はやり爺の存在って、何か判らないけど意味があるんだなあ、みたいに感じるのですよ。聞いてくれるだけで楽になれることもあるし。ある特定の人間同士だけにしか通じない・理解しえないような、そういう悩みとか苦しさというものを、本当に理解してくれる先輩というのが、本物のじじいなんだろう(笑)。


遼くんには今後も頑張って欲しい。




続・大麻の解禁問題について

2008年11月23日 04時48分10秒 | 社会全般
昔の、音楽とドラッグとに憧れていたようなベトナム戦争世代だから、ということではないだろうと思うが、かなりしつこいのが気になるな。

はてなブックマーク - 大麻は合法化して規制すべきだ - 池田信夫 blog


禁酒法の失敗話ばかり取り上げるというのは、ただの「アネクトード好き」と何が違うというのだろうね。学習能力に欠けるようにも思えるが。
たった一つの実例だけ挙げると、或いは単一の原著論文を挙げることができさえすれば、「これが事実だ!これこそが真実なのだ!絶対に正しい」みたいに豪語するのかもしれんが、あくまで一つの論文、というだけですから。通常は1本の原著だけを「これが答えだ!」みたいに祭り上げるような人はおりませんぜ。特に、人間に関することは、そうなるのが普通。

価値が高いとか、より信頼性の高いペーパーというのはあるが、だからといってそれが決定版ということには必ずしもならないだろう。同様な研究とか、似たような研究範囲の多数の論文が多数の研究者たちによって積み重ねられ、そういう論文のサーベイなんかを行ってみると、「おおよその方向」が示されるだけに過ぎない。現段階での考え方としては、「こうなるかもね」ということが言えるだけ。例えば「地球温暖化」に関するペーパーのサーベイみたいなもんだな。単一論文の結果だけを殊更重視したりはしない。もっと多くの研究結果を基に、「多分こう考えるのが、現時点でのベスト(合理性があるだろう)」ということが複数科学者たちによって判定されるということだ。


因みに池田氏は、「地球温暖化」問題については、IPCCの考え方に反対していたようだったと思うが、「研究成果」の都合の良い使い分けという姿勢は、相変わらず、ということか(笑)。例の上限金利問題に関しては、早大消費者金融サービス研究所のペーパーなんかを「これが根拠だ」と挙げて豪語していたが、結局池田氏の説というものはどうなったんだろうか?彼の主張について、満足に説明できたものなど、未だに何一つなさそうだが?
学術的な成果を目指すというのは、時事問題に文句を並べるようなことではない。常に「答えを求め続け、探し続ける、考え続ける」ということでしかない。06~07年の国会を過ぎてしまえば、「もう考えない」というのは、学問でも何でもなくて、ただのコメンテーターみたいなものだな。科学的(学術的)結論には、そもそも関心がない、ということの裏返しでもある。はじめから学問なんて関係なかったのさ。単に、「みのもんた脳」を非難するとか、後藤田議員や宇都宮弁護士のような人たちや一般社会の人々を愚かと決め付けて、文句を言いたかったということだけなのでは(笑)。

「金利規制とはどういうことか?」「多重債務は何故起こるのか?」「金利と貸出や借入はどうなっているのか?」というようなことについて、学術的な成果を得たいとか答えを知りたいと考える人間ならば、トコトン答えを探し続けるのが普通。それが研究者ということ。しかし、そういう姿勢が”全く”皆無というのが、池田氏だ。


前置きが長くなったが、ロシアでの話を一つ。
マンキューのブログ記事のリンク先で見たような気がするが、ロシアのウォッカの話だ。
昔から、文学とか映画なんかでもよく登場するウォッカとロシア人のアル中問題だが、あまりにアル中が酷いので、実際に高い税金をかけてしまうということにしたらしい。禁止すると密売問題が出るからだな。で、禁止せずに税金だけ高くしてみたら、どうなったか?

「ウォッカじゃないウォッカ」が出回るようになってしまったんだと(笑)。
これまではある一定の品質が保たれた普通のウォッカだったが、これは税金が高いので手が出ない。すると、品質のよいウォッカに「混ぜ物」をするということにしたんだと。「ウォッカのアルコール割り」だな。工業用アルコールだの消毒用だの、ありとあらゆる「いい加減なアルコール」成分を混ぜるようになってしまったんだそうだよ。そういう密造酒が市場で蔓延るようになってしまい、健康被害が続出した、とのこと。かといって、目的であるアル中を減らせたかというと、多分全然ダメだったんでしょうね。

このニセウォッカというのは、ニセブランド品とも似ているかな。ああ、「ダンボールまんじゅう」に近いか(笑)。いや待て、これは「第三のビール」ならぬ「第三のウォッカ」かも(第二がないじゃないか、というのはおいといて)。逆選択となってしまうケースみたいなもんか。ウォッカ市場には高品質の高額ウォッカと低品質の格安ウォッカがあると、高品質ウォッカは駆逐されて、ニセウォッカばかりが蔓延るようになっていく、というヤツだな(笑)。
税金を高くすると「万事解決するよ」というのは、アルコール類やドラッグ類では必ずしもうまくいくとは限らない、ということがあるかもしれんね。日本なら、ウォッカと同じ味の、限りなくウォッカに近い「ウォッカじゃない酒」を開発しようとするかもしれんが(第二、第三のビールってのと同じかな)、ロシアでは手っ取り早く作れる「ウォッカのアルコール割り」カクテルが密造されてしまう…と。国民性の違いかもしれん。


意外と背景にある文化とか国民性みたいなものの違いというのはあって、どこかの国でうまくいったからといって、ヨソの国に同じ制度を移してもうまくいく、みたいな普遍性のあるものかどうかは、研究してみないと判らないのではないかな。人間というのは、そうそう簡単な生き物ではない、ということなのだよ。これは借金もそう。ペイデイローンが高金利で商売できてるからといって、「同じ金利水準」の正当性を言えるのか、という話だな。手形担保の割引貸しと意味合いとしてはほぼ似ていると思うが、手形割引業者ですら減少してきたのに、本当に需要があるのかということはあるだろうね。もっと言うと、そもそも金利が30日間無料という業者さえあるのに、わざわざ高い金利(手数料)を払うのはバカか「特殊な要因の人」だけだろうと思うけど(笑)。日賦業者だって存在していたけれども、違法業者の温床となってしまって消滅させられたしね。


大きく話が逸れたけれども、大麻の話だったな。

根本的なところで、大麻を解禁したからといって何かよいことでもあるの?
違法でいいじゃん。マリファナ自販機がカリフォルニアにあるからといって、日本でもそうすべきだ、みたいな話にはならんだろうね。いくら医療用といっても、向精神薬や鎮痛剤ですら「現在でも違法取引」が行われており、薬事法違反で摘発されてるんですから、合法化の意味合いが全く異なるね。
麻薬もそうだけど、医療用の承認を受けた薬剤については、現状でも使用することは可能ですから。どうしても大麻が必須なのだ、ということなら、新薬として申請すればいいだけ。認められるかどうかは知らんが。因みに、漢方薬には確か入っていなかったと思うので、中国4千年超の歴史(英知の結晶だな、経験則的ではあるけど)をもってしても「大麻は長期的に有用・必須」ということにはならなかった、ということだろうね(笑)。


また例で書いてみるよ。

○大麻

①違法行為が行われている
②厳罰にするほどの犯罪ではない
③(健康)被害は少ない
④常用者はいるが多くは依存症にはならない

大麻解禁を主張する側はこんな意見だろうと思うが、メリットというものが、イマイチ定かではない。社会の効用としては、「大麻でいい気持ち」というようなことか?禁止されている今でさえ、高校生あたりに大麻使用が広がっているのに、もっと拡散する可能性が高くなるだろうね。米国なみに使用経験を持たせたいのかもしれんが(笑)。

ヤクザの覚醒剤資金源を減らせる、というような意見もあるが、イギリスでマリファナを多く使えるようになったら他の違法麻薬が減ったかどうかは知らないな。大麻OKのロシアでも麻薬はマフィアの資金源になってるみたいですけど。

で、大麻を推奨するということが必要なんでしょうかね?
それとも、「アルコールを止めて大麻にするべきだ」とか、「タバコの代わりに大麻にすべし」みたいに、代替を基本として、「大麻にすべし」と推奨するのか?
そういうのを肯定するのであれば、例えば「大麻を自由化すると、タバコによる健康被害が減少する」とか、「アルコール中毒患者は減少する」といった根拠を明示するのが基本ではないかと思うが。


万引きを大麻と比較することが適切かどうかは問題があるかもしれないが、一応書いてみる。

万引きを合法化(不可罰化)せよ、という意見の人って、どれほどいますかね?
多くの場合には、起訴とかにはなってないと思いますけれども、一応は違法行為として罰を受けるということになっていますよね。でも、常習性があることも言われており、実際に幾度も捕まる常習犯もいるわけだ。万引き対策コストもばかにはならないかもしれない。

大麻も万引きも「取締コストがかかる」ということと、被害が軽微だ、という意見はあるかもしれない(万引き被害は軽微ではない、という意見もあると思うが、とりあえず)。それならいっそ不可罰として、取締コストが少ない方がいい、という意見になるだろうか?それとも、マルチ商法被害よりも万引き被害の方が小さい、故にマルチ商法は一部認められているのだから万引きも認めるべきだ、みたいな意見が出されるのでしょうかね。恐らく、そういう意見は滅多に出ないと思いますけど。

「○○するよりも、大麻の方がマシだ」とか「××するよりも、万引きの方がマシだ」というのって、別に社会のあり方として、それを奨励しているわけではないんですよね。「AはBよりも被害が小さい」みたいなことがたとえ言えたとしても、別に「Aをやるべきだ」という話にはならないわけで。AもBもあまり好ましくはない時、規制に違いがあるとしても、それは、「社会の考え方」ということでしかない。
死んだ金魚を「水洗トイレに流すと違法」という法律が作られたとしても(スイスだったか)、それが外国と同じである必然性というものはない(米国映画で幾度か目にした時、超ビックリしたのが、トイレに流すというシーンだった。庭なんかに埋めるとかなのかと思ったら、大人も子どももごく当たり前のように金魚をトイレにジャーッと流してしまっていた)。


結局のところ、大麻を解禁すると大きなメリットがあるということが、感じられないわけだ。社会がそれを望んでいるということもなさそうだけどな(笑)。