これは、よく判る。
>はてなブックマーク - メディアは「かっちょいい絶望」の見本市会場でいいのか 絶望以外の選択肢を!-経済学・政治学・社会学のコラボレーションで日本を変える ダイヤモンド・オンライン
飯田先生が拙ブログごときを読んだことがあるかどうかなんて、知らない。解析してるわけじゃないし。
言ってることは、誰でも思い浮かぶ程度の話だしね。
>経済学への期待と落胆
この中で、次のように書いた。
『「政策には副作用がある」とか、「行動経済学では十分に分析できない(政策の妥当性の検証ができない)ことがある」といったような、ごく普通のことが書かれているに過ぎないのではないか、ということである。
これは行動経済学のみならず、経済学全体についても同じく言えるのではないか、と思うわけである。』
岩本教授に怨みがあるわけではないが、有名大学教授でさえ、どうしてこうなんだろうか、なんて、大それたことを思っただけです。だって、あまりにガッカリするようなことを言ってるもんだから(例えば、「予測の専門家たち」は日本にいるのか、や、Murphys Law in Public Finance)、日本の経済学界ってこういうレベルなんだろうね、と思ってしまって。
岩本教授ばかりの問題ではなく、日本の経済学全体の問題なんだろうと思いますよ、やっぱり。
08年7月>永続する経済論争
この時にも、ほぼ似たような例で次のように書いています。
『「薬物A、B、Cを用いると、副作用としてa、b、cが考えられるので、ダメだ」
そういう意見は無意味ではないけれども、ならば、どのような治療手段を用いるのですかというと、副作用のない「夢のような薬物X」を口で言うだけでは現実的ではないと思います。』
かつての直感が、次第に確信にまで高まった、ということですわな。言うなれば、化けの皮が剥がれました、ということなんです。やっぱり、初め頃に感じたとおりでした、と。
初期の頃…
・05年3月>経済学は難しい6
・05年6月>「破局のスパイラル」(追記後)
ううっ、なんつーか、恥ずかしいーー
赤いよ、顔が~~(笑)
ちょっと思ったんですが、少しくらい書いて言ってみても、多分通じ難いんだろうな、と。
しつこく、しつこく、書いて書いて書きまくって、何度でも、誰かに通じるまで、繰り返し繰り返し言い続けないと、判ってはもらえないんだろうな、と思います。だから、説得を続けるよりないんだろうな、と。
やっぱり、ピンポイントで直撃弾をヒットさせねば、中々届かない、ということはあるかもしれません。
実際、届いているのかどうかは、皆目不明なんですけれどもねえ…。
ですから、経済学の世界でのチェンジ!(オバマのモノマネ?お笑い)を求めて、議論の仕方をきちんと構築していった方がいいですよ。空論合戦をやっても、それは象牙の塔の住人の趣味というか「お遊び」に過ぎない、ということです。基礎研究は基礎として必要ですけれども(現実の何に役立つかは直ぐには判らないようなもの)、実証を含めて、実際の経済活動や政策などに反映できる部分というのを少しずつでもいいので増やしてゆく必要があると思います。
政治の世界でも、政策に取り掛かる前に、ちょっとは頭を使って考えてみようよ、と思いますよね。
>経済政策についての一考察
この中で述べたが、例えば「公共事業は選別、設定が難しい」「利害関係者の衝突や恣意性が問題になる可能性」といったことは、普通の頭の持ち主であれば即思いつくことなのだから、現実にダムや道路の工事関連で混乱を生じているのは、そりゃそうだろうね、と思ったりします。
政治家は、「こんな家を作りたいよ」という具体的要求とか、目標みたいなものを出してあげることが必要。
で、政策検討については、コアとなる建築士がリーダーとなり、その他の設計担当とか現場監督とか設備担当とか、そういう実務に長けた人たちに協力してもらうことが必要なんですよ。要求を出して、それを具体的に実現する形に持っていくことが大切なんです。政治主導というのは、「こんな家」というものをきちんと出す、ということだと思いますよ。
現実には「出来そうにない形」みたいな無理な要求であると、「これは工事ができません」とか、「かなり予算オーバーしちゃいそう」とか、そういう具体的意見を専門家たちから貰うことが役立つということなんですよ。自分が家を建てていくということを、思い浮かべてもらえば判ると思いますけど。こういうプロセスには、経済学者のような専門知識のある人とか、官僚とか、その他現場の人とか、みんなが関わらないとできないってことです。
今の政治状況というのは、周囲の人たちとか国民の眼から見ても「どんな家なのかな?」と、よく判らないわけなんですよ。和風建築っぽい家なのか、輸入住宅みたいなものなのか、平屋なのか二階建てなのか、そういうものが全然見えないの。だから混乱するんですよ。
被災地で、「こういう建築や工法が正しいんだ、しっかり建てるべきだ」とか、あんまり意味ないでしょう?とりあえず、プレハブでも何でもいいので、風雨をしのげる形で、避難住宅は後から別に手当てを考えましょう、ということだってあるじゃありませんか。急ぐ時に、○○工法じゃないとダメなんだ、とか、正論をぶつふりをする人間がやたらと多いわけなんです。
基礎を○m掘りこめ、とか、今はそうじゃないでしょう、と。
とりあえず、床があって、柱があって、屋根がついてりゃ、いいんですよ、と。
そういう時間とか場面などが、政治の世界では無視されることが多いのではないでしょうかね。
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飯田先生が拙ブログごときを読んだことがあるかどうかなんて、知らない。解析してるわけじゃないし。
言ってることは、誰でも思い浮かぶ程度の話だしね。
>経済学への期待と落胆
この中で、次のように書いた。
『「政策には副作用がある」とか、「行動経済学では十分に分析できない(政策の妥当性の検証ができない)ことがある」といったような、ごく普通のことが書かれているに過ぎないのではないか、ということである。
これは行動経済学のみならず、経済学全体についても同じく言えるのではないか、と思うわけである。』
岩本教授に怨みがあるわけではないが、有名大学教授でさえ、どうしてこうなんだろうか、なんて、大それたことを思っただけです。だって、あまりにガッカリするようなことを言ってるもんだから(例えば、「予測の専門家たち」は日本にいるのか、や、Murphys Law in Public Finance)、日本の経済学界ってこういうレベルなんだろうね、と思ってしまって。
岩本教授ばかりの問題ではなく、日本の経済学全体の問題なんだろうと思いますよ、やっぱり。
08年7月>永続する経済論争
この時にも、ほぼ似たような例で次のように書いています。
『「薬物A、B、Cを用いると、副作用としてa、b、cが考えられるので、ダメだ」
そういう意見は無意味ではないけれども、ならば、どのような治療手段を用いるのですかというと、副作用のない「夢のような薬物X」を口で言うだけでは現実的ではないと思います。』
かつての直感が、次第に確信にまで高まった、ということですわな。言うなれば、化けの皮が剥がれました、ということなんです。やっぱり、初め頃に感じたとおりでした、と。
初期の頃…
・05年3月>経済学は難しい6
・05年6月>「破局のスパイラル」(追記後)
ううっ、なんつーか、恥ずかしいーー
赤いよ、顔が~~(笑)
ちょっと思ったんですが、少しくらい書いて言ってみても、多分通じ難いんだろうな、と。
しつこく、しつこく、書いて書いて書きまくって、何度でも、誰かに通じるまで、繰り返し繰り返し言い続けないと、判ってはもらえないんだろうな、と思います。だから、説得を続けるよりないんだろうな、と。
やっぱり、ピンポイントで直撃弾をヒットさせねば、中々届かない、ということはあるかもしれません。
実際、届いているのかどうかは、皆目不明なんですけれどもねえ…。
ですから、経済学の世界でのチェンジ!(オバマのモノマネ?お笑い)を求めて、議論の仕方をきちんと構築していった方がいいですよ。空論合戦をやっても、それは象牙の塔の住人の趣味というか「お遊び」に過ぎない、ということです。基礎研究は基礎として必要ですけれども(現実の何に役立つかは直ぐには判らないようなもの)、実証を含めて、実際の経済活動や政策などに反映できる部分というのを少しずつでもいいので増やしてゆく必要があると思います。
政治の世界でも、政策に取り掛かる前に、ちょっとは頭を使って考えてみようよ、と思いますよね。
>経済政策についての一考察
この中で述べたが、例えば「公共事業は選別、設定が難しい」「利害関係者の衝突や恣意性が問題になる可能性」といったことは、普通の頭の持ち主であれば即思いつくことなのだから、現実にダムや道路の工事関連で混乱を生じているのは、そりゃそうだろうね、と思ったりします。
政治家は、「こんな家を作りたいよ」という具体的要求とか、目標みたいなものを出してあげることが必要。
で、政策検討については、コアとなる建築士がリーダーとなり、その他の設計担当とか現場監督とか設備担当とか、そういう実務に長けた人たちに協力してもらうことが必要なんですよ。要求を出して、それを具体的に実現する形に持っていくことが大切なんです。政治主導というのは、「こんな家」というものをきちんと出す、ということだと思いますよ。
現実には「出来そうにない形」みたいな無理な要求であると、「これは工事ができません」とか、「かなり予算オーバーしちゃいそう」とか、そういう具体的意見を専門家たちから貰うことが役立つということなんですよ。自分が家を建てていくということを、思い浮かべてもらえば判ると思いますけど。こういうプロセスには、経済学者のような専門知識のある人とか、官僚とか、その他現場の人とか、みんなが関わらないとできないってことです。
今の政治状況というのは、周囲の人たちとか国民の眼から見ても「どんな家なのかな?」と、よく判らないわけなんですよ。和風建築っぽい家なのか、輸入住宅みたいなものなのか、平屋なのか二階建てなのか、そういうものが全然見えないの。だから混乱するんですよ。
被災地で、「こういう建築や工法が正しいんだ、しっかり建てるべきだ」とか、あんまり意味ないでしょう?とりあえず、プレハブでも何でもいいので、風雨をしのげる形で、避難住宅は後から別に手当てを考えましょう、ということだってあるじゃありませんか。急ぐ時に、○○工法じゃないとダメなんだ、とか、正論をぶつふりをする人間がやたらと多いわけなんです。
基礎を○m掘りこめ、とか、今はそうじゃないでしょう、と。
とりあえず、床があって、柱があって、屋根がついてりゃ、いいんですよ、と。
そういう時間とか場面などが、政治の世界では無視されることが多いのではないでしょうかね。