私は、これまでの記事の中で幾度も検察について取り上げてきた。私の中では、正義の象徴的存在としての検察というものがあったわけである。日本の司法については、それなりに信頼してきたということである。だが、いくつかの事件や検察対応を観察してゆくと、日本の検察には不可解な部分というものがあるのではないかと疑うようになった。恣意性というものについても、疑念が生じるのを禁じえなくなってきたのである。
かつては「それなりに信頼していた」はずの日本の司法制度、検察ばかりではなく、裁判所についても不安を覚えるようになってしまった。このような疑念は、一朝一夕では到底拭うことのできないものなのである。
少なくとも、法曹界の外側から見ると、このようなあり方はおかしいのではないか、と感じさせるには十分な司法の体制だった。私のような素人でさえ、おかしいと感じる、ということである。そのような声は検察や裁判所の偉い方々には届きはしないだろうけれども、今になって騒ぎになるくらいなら、どうしてもっと以前から注意を払ってこなかったのかと思う。ただの素人が警鐘を鳴らしてみたところで、耳を貸してもらえるわけではないから、今更言ってみても仕方がないことではあるのだが。
>司法の品質管理を問う~3の補足編
>司法の品質管理を問う~3の参
07年時点で、検証というものがないということについて、法曹界に向かって指摘したけれども、それで何かが改まるということはなかったのではないか。誰も反省などしてこなかったのではないか、ということである。危惧が現実になった、というだけなのだ。
そして、今年1月時点でも、同じく問題を指摘したわけである。
>石川議員逮捕に動いた東京地検特捜部
記述の一部を再掲しておく。
『検察は事件を選ぶことができる。究極の恣意性を持つわけである。
例えば、逮捕というのは、警察や検察がやろうと思えばいくらでも可能だ。裁判所がそういうのに加担するわけだし。
それこそ、集合住宅の「ビラ配り」事件であってでさえも、身柄拘束を数ヶ月間もやったりできるから。別に、重大事件じゃなくとも、恣意的に運用すれば、日本においては「検察権力が強大・絶大」なので、対抗できない。裁判所が令状を発行しなければいいかもしれないが、長年の協力関係からして、令状を出さないなんてことはないわけである。』
本当に司法の側が改善策を真剣に考えたりしたのだろうか?
この時点で振り返ることができ、誤りを認めるということをしていたなら、村木さんの裁判はどうなっていたのだろう?
もしも、というのは、手遅れなのだから意味はないかもしれないけれども、本当にこういう警告が心に響いていたなら、もっと違った結果があったのではないか、と思わずにはいられないのである。
今回の事件の話に戻ろう。
私個人の考えとしては、捏造した検事は犯罪に問われてもやむを得ない行為であったろうと思うので、それについては最高検がやっているようだから、犯罪立証なりをやるならやってもよいと思う(論文のデータ捏造なんかも似ているかもしれない。証拠(データ)を捏造されると見破るのは至難の業となるから。そういうのを抑制できる制度なりシステムなりを必要とする、ということだろう)。
しかし、当時の上司であった上級検事たちを逮捕、起訴ということで刑事責任を問うても、あまり意味はないように思う。そんなことより、個別の検事の話ではなく、検察という「巨大権力組織」の中での反省というものが求められるわけであり、ただ単に大阪地検幹部の処分をやったところで、個人が悲惨な目に遭うというだけで、問題の本質的部分の炙り出しにはあまり役立たないように思う。
それよりも、刑事責任を問わないから「どうしてそのような経緯を辿ったか」「背景にあったのは保身とか組織内配慮とかの要因があったのか」、というようなことを解明した方がよいのではないか。
個人の資質などに話をもって行ったとしても、あまり意味はないように思われる。そういうことではなく、「検察」という組織そのものの問題が潜んでいるのではないか、ということである。
更に言えば、特捜検察というモンスターを育ててきたのは、検事たちだけの問題ではないのではないか、ということがある。
それは、マスコミもそうだし、裁判所もそうなのではないか、ということだ。特捜検察に加担してきたのは、そういう監視をしているべき役割の人々だったのではないか、と。元特捜のナントカ、っていう肩書を有難がって、要するに「権威付け」に利用してきたのは一体誰だったのか。現に、今だってテレビのコメントを付けているのは、元特捜部長だの副部長だの何だのっていう「過去の地位」という人たちばかりではないか?
今じゃなく、元の地位の方が有難がられるなんてのは、そもそもおかしいのではないかと考えてもいいはずなのに、何故か誰も改めず指摘もしなかったではないか。
同じく、我々国民もやはり育てることに加担してきたわけである。
私のように「正義の象徴たる検察」と思ってきた人間がいるからこそ、検察権力は増大したのだろう。そのような国民の支持を背景に、今のような検察を育んだのだ。今回の事件は、元からあった検察組織の問題というものが、表面化したに過ぎないのではないか。以前からあったものであり、ただ単に国民の前には明らかにされてこなかっただけなのではないか。そのような組織文化を築いてきたのに、今更最高検が個人の責任問題へと矮小化しても改められないのではないか。
刑責や個人的責任(辞任だの懲戒免職だの)ということを問わない代りに、もっと率直に「業界内部の本音」みたいなものを明らかにするべきであろう。検察官だって、人間なのだから。政治的思惑とか、出世とか、色々とあっても不思議ではないはずなのだから。
ああ、それをやられると、マスコミの中で一緒に撃たれる人間が出てくるのかもしれない。それを封じるには、個人を糾弾し生贄に捧げて「お前が被れ」ということにするしかないということか。そうであれば、今のやり方というのも判らないではない。かつては、最高裁ですら政治におもねることがあったわけで、これが検事であっても不思議ではないとは思う。
反省すべきは、検察は勿論のことだが、国民もマスコミも政治家たちも、みなが含まれるのではないか。
「司法とは」という大きな視点から、考えてみるべきなのではないかと思うのである。
かつては「それなりに信頼していた」はずの日本の司法制度、検察ばかりではなく、裁判所についても不安を覚えるようになってしまった。このような疑念は、一朝一夕では到底拭うことのできないものなのである。
少なくとも、法曹界の外側から見ると、このようなあり方はおかしいのではないか、と感じさせるには十分な司法の体制だった。私のような素人でさえ、おかしいと感じる、ということである。そのような声は検察や裁判所の偉い方々には届きはしないだろうけれども、今になって騒ぎになるくらいなら、どうしてもっと以前から注意を払ってこなかったのかと思う。ただの素人が警鐘を鳴らしてみたところで、耳を貸してもらえるわけではないから、今更言ってみても仕方がないことではあるのだが。
>司法の品質管理を問う~3の補足編
>司法の品質管理を問う~3の参
07年時点で、検証というものがないということについて、法曹界に向かって指摘したけれども、それで何かが改まるということはなかったのではないか。誰も反省などしてこなかったのではないか、ということである。危惧が現実になった、というだけなのだ。
そして、今年1月時点でも、同じく問題を指摘したわけである。
>石川議員逮捕に動いた東京地検特捜部
記述の一部を再掲しておく。
『検察は事件を選ぶことができる。究極の恣意性を持つわけである。
例えば、逮捕というのは、警察や検察がやろうと思えばいくらでも可能だ。裁判所がそういうのに加担するわけだし。
それこそ、集合住宅の「ビラ配り」事件であってでさえも、身柄拘束を数ヶ月間もやったりできるから。別に、重大事件じゃなくとも、恣意的に運用すれば、日本においては「検察権力が強大・絶大」なので、対抗できない。裁判所が令状を発行しなければいいかもしれないが、長年の協力関係からして、令状を出さないなんてことはないわけである。』
本当に司法の側が改善策を真剣に考えたりしたのだろうか?
この時点で振り返ることができ、誤りを認めるということをしていたなら、村木さんの裁判はどうなっていたのだろう?
もしも、というのは、手遅れなのだから意味はないかもしれないけれども、本当にこういう警告が心に響いていたなら、もっと違った結果があったのではないか、と思わずにはいられないのである。
今回の事件の話に戻ろう。
私個人の考えとしては、捏造した検事は犯罪に問われてもやむを得ない行為であったろうと思うので、それについては最高検がやっているようだから、犯罪立証なりをやるならやってもよいと思う(論文のデータ捏造なんかも似ているかもしれない。証拠(データ)を捏造されると見破るのは至難の業となるから。そういうのを抑制できる制度なりシステムなりを必要とする、ということだろう)。
しかし、当時の上司であった上級検事たちを逮捕、起訴ということで刑事責任を問うても、あまり意味はないように思う。そんなことより、個別の検事の話ではなく、検察という「巨大権力組織」の中での反省というものが求められるわけであり、ただ単に大阪地検幹部の処分をやったところで、個人が悲惨な目に遭うというだけで、問題の本質的部分の炙り出しにはあまり役立たないように思う。
それよりも、刑事責任を問わないから「どうしてそのような経緯を辿ったか」「背景にあったのは保身とか組織内配慮とかの要因があったのか」、というようなことを解明した方がよいのではないか。
個人の資質などに話をもって行ったとしても、あまり意味はないように思われる。そういうことではなく、「検察」という組織そのものの問題が潜んでいるのではないか、ということである。
更に言えば、特捜検察というモンスターを育ててきたのは、検事たちだけの問題ではないのではないか、ということがある。
それは、マスコミもそうだし、裁判所もそうなのではないか、ということだ。特捜検察に加担してきたのは、そういう監視をしているべき役割の人々だったのではないか、と。元特捜のナントカ、っていう肩書を有難がって、要するに「権威付け」に利用してきたのは一体誰だったのか。現に、今だってテレビのコメントを付けているのは、元特捜部長だの副部長だの何だのっていう「過去の地位」という人たちばかりではないか?
今じゃなく、元の地位の方が有難がられるなんてのは、そもそもおかしいのではないかと考えてもいいはずなのに、何故か誰も改めず指摘もしなかったではないか。
同じく、我々国民もやはり育てることに加担してきたわけである。
私のように「正義の象徴たる検察」と思ってきた人間がいるからこそ、検察権力は増大したのだろう。そのような国民の支持を背景に、今のような検察を育んだのだ。今回の事件は、元からあった検察組織の問題というものが、表面化したに過ぎないのではないか。以前からあったものであり、ただ単に国民の前には明らかにされてこなかっただけなのではないか。そのような組織文化を築いてきたのに、今更最高検が個人の責任問題へと矮小化しても改められないのではないか。
刑責や個人的責任(辞任だの懲戒免職だの)ということを問わない代りに、もっと率直に「業界内部の本音」みたいなものを明らかにするべきであろう。検察官だって、人間なのだから。政治的思惑とか、出世とか、色々とあっても不思議ではないはずなのだから。
ああ、それをやられると、マスコミの中で一緒に撃たれる人間が出てくるのかもしれない。それを封じるには、個人を糾弾し生贄に捧げて「お前が被れ」ということにするしかないということか。そうであれば、今のやり方というのも判らないではない。かつては、最高裁ですら政治におもねることがあったわけで、これが検事であっても不思議ではないとは思う。
反省すべきは、検察は勿論のことだが、国民もマスコミも政治家たちも、みなが含まれるのではないか。
「司法とは」という大きな視点から、考えてみるべきなのではないかと思うのである。