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個人消費のこと

2007年01月23日 17時04分23秒 | 経済関連
これは特に個人批判とかそういう積もりではありませんので、予めお断りしておきます。

小売の業績を見るとき、デパート、スーパーやコンビニなんかの売上高というのが確かに参考にされるけれども、ネット経由での売上高や通販なんかだと追跡が十分でないことは考えられる。そりゃ、そうだね。なので、ネット経由での販売に移行する割合が増大すれば、既存の小売業界の売上高が減少するかもしれない、というのは判るね。


まあ、そういう一面はあるかもしれないが、統計上の数値というのは―必ずしも信頼が置けないということは有り得るが―何も小売の売上実績だけ見てるワケではない、ということを申し上げておきます。この前、こちらの記事で、『家計調査では、勤労者世帯の消費はマイナスが依然として続いているのですよ。それは、所得が伸びていないということもあるだろう。』という風に書いたわけですが、これは小売業界の売上高なんかとは別な統計資料ですので、売り手側から見た数字ではなくて、買い手側(一般の消費者ですね)から見た数字、ということになるかと思います。メディアの報道などの時には、こうした「裏取り」みたいな作業をしないというのは確かに多いと思いますけれども、「いくつかの数字、データ」を見た結果、「消費は停滞」と考えている、ということを書きました。報道する側こそ、その信頼性は私のような個人の妄想ブログなんかと同じ水準ではなくて、もっと「高い水準」が要求されることは当然ですよね。

雇用者賃金の伸び、といった数字でもいいと思いますけれども、「給料が確実に上がっている」、(ちょっと意味が違うけど)「労働分配率が堅調に上がってきている」、「ULCがマイナスから大幅にプラスになってきた」、というような指標なんかでも景気拡大が個人レベルに波及していることが確認できれば、それは明るい未来という見通しでいいと思いますね。でも、定率減税がなくなるのは「確実」ですので、そのマイナスを上回る賃金上昇がなければ、所得低下は避けられないわけですよね。今の名目賃金上昇率が果たしてどれくらいでしょうか?

例えば、厚生労働省が04年時点の年金改革で、将来推計に用いていた名目賃金上昇率は2.1%です(爆)。毎年これだけの「高い賃金上昇」があってはじめて「厚生年金の保険料」が集められる予定なのですよ(タヌキも獲れんクセに皮算用だけは一丁前で…大衆の目先だけ誤魔化すのは朝飯前だ罠)。05年、06年の上昇率はどうだったのでしょう?せいぜい1~2%未満といった程度の伸びでしかないでしょう。しかも、所定内賃金に関しては06年度上期はマイナスです。所定外賃金やボーナスが伸びただけでですね。雇用者所得は伸びていますが、労働市場に新たに参入してきた人たちが数十万人規模で増えた(=失業率低下、雇用者数の純増)のであれば、数的寄与度が大きくなるだけで、一人当たり・時間当たり賃金で見ればほとんど上がってないと推測しています。つまり、今までよりも長く働かされたから、その分賃金は増えただけで、実質的には全然増えてないというのが本音でしょうね。逆に、社会保障費の負担(年金、介護保険料はアップ)や定率減税の段階的廃止によって、手元で使える実際のお金は増えてない(逆に大きく減っているだろう)というのが実感なのではないかな、と。

「97年ショック」はあったが、駆け込み需要なんかもあって経済指標が最悪になる前だったので、97年が名目上で可処分所得が最も多かった(翌年の98年以降坂道を転げ落ちていった)と思う。この年と05年の名目賃金を比べると、約93%程度でしかない。デフレで物価が低下したこともあるから、実質所得としてはそれほど落ちてないかもしれないが、個人のバランスシート上では、97年以前から抱えていた負債なんかがあると返済負担が重くなっているし、資産価値の下落なんかもあるかもしれない。つまり、相対的に負債は大きくなり、資産は劣化したということで、その上給料は減らされ社会保険料負担や医療費の自己負担を増やされた、というようなものです。

福井総裁は05年末には「物価だけじゃなく、ULCは先行きプラスに転ずる、だから量的緩和解除→利上げというシナリオでいいんだ」というようなことを言っていた(雇用改善とULC)わけです。その見通しが実際どうなっていますか?というのは、検証されてないんですよね。メディアも見てない。いいんですか?こんなんで。ULCは依然としてマイナスであるかもしれないのですよね。本当にプラスになってきたのであれば、正式に日銀が発表してみて欲しいもんだ(笑)。

まさか、「日経消費予測指数」だと06年に入ってからもグングン「うなぎ上り」だから、「本当は05年よりももっと消費は強いんだ」とかいう解釈をしてるのかな?(笑)そんな理由で「消費は強いし、家計にも波及しているんだ」とか言ってるワケではない、とは思いますけど。

何れにせよ、メディアの報道の仕方は抜けが多いし、ウソも多いし、一断面だけを取り上げがちだし、過去を振り返って評価することもまずしないし、信頼性を高めるような努力もない、という傾向はあると思いますので、「メディア自身は正しい判断ができてない」ということに大いに同意できます。それができるのであれば、もうちょっと違った報道になると思いますよね。



教育を考える11~「ゆとり教育」とは

2007年01月21日 18時03分18秒 | 教育問題
昨日の記事が途中になってしまい、申し訳ありませんでした。続きを書いていきたいと思います。


まず、基本的な部分から見て行きたいと思います。

昨日の米長氏の記事にあったように、「ゆとり教育」という言葉、語感は、メディアを中心に批判のターゲットにされていますけれども、世間一般の人々(私も含めて)の知っているものと、本来の「ゆとりある教育」の理念の間には隔たりがあると思います。これはかなり以前に、極東ブログでも上げられていました。

極東ブログ 「ゆとり教育」という言葉にこだわる


で、極東ブログでも参考にしていたのが、こちらですね。

ゆとり教育 - Wikipedia

(当時とどの程度中身が変わっているか調べてないですけれども、多少は書き換えられているでしょう)


とりあえず、出発点から誤解があるかもしれないのです。国民の大多数は多分知らないと思います。そりゃそうですよね。行政の情報というのを十分理解するのは中々難しいので。私もブログがなければ、全く知らなかったですし。「ゆとり教育」と単に表現されているのは、「内容的に簡単なものになってきた(かも)」ということと、「授業時間数が削減された」ということが大半であって、「ゆとりある教育」の根本理念とはあまり関係がないのではないか、とか、「ゆとりある教育」を今すぐ捨て去ることが正しいのか、ということには基本的に繋がっていないのですよね。でも、普段よく聞く「ゆとり教育」というのが槍玉に挙げられているので、みんなは反対と言うだけなんですよ。

まず、言葉の定義として、全員の認識を一致させるところから始める必要があるのですよ。これって、「ニート」に関連した議論というか、メディアの利用とか、そこら辺と同じような構図になってしまっているのではないでしょうか。多くの国民は、こうしたところに関心がなく、よく知らないままで「ゆとり教育が良くない」「ゆとり教育になってから成績が下がった」という誤解を持っていると思われます。大体、自分の家の子が「成績が下がった」「頭が悪い」というのは、そもそも親自身が頭が悪いかそういう人生を生きてきたせいであって、「学校教育のせい」とばかりは言えないんじゃないか?(頭が悪い親に限って、そういう可能性を省みたりはしなさそう・・・)
こんなことを書くともの凄く怒られそうだけど、基本的には家庭のあり方に根本原因があるのではないだろうか、という個人的思いはあるね。


これに関連して、例の『ヤバい経済学』ですけれども、実際に分析からそういう可能性は窺えるんですよね(日本じゃないですけれども)。

教育は格差を再生産するか
教育は格差を再生産するか~その2

なので、細かいことを取り上げるようで申し訳ないが、まず、「ゆとり教育とは何か」ということを、正確に国民に理解してもらうところからやった方がいいですよ。メディアなんかで用いられてきた「ゆとり教育」という言葉と、本来の「ゆとりある教育」というものは違う、ということをきちんと国民に説明し、知らせるべきです。ここまで憎まれてしまった「ゆとりある教育」について、軌道修正がどうしても困難であるならば、「ゆとりある教育」という表現を(残念でも)捨てて、別な表現方法に変えるしかないかもしれないが。でも、「韓国式がいいですか?」と訊かれたら、私は絶対に「イヤだ」と答えるね。あんな、入試の為に時間も労力も多大に消費するのはバカらしいと思うけど。競争は必要だが、全員があんなバカなことをやる必要はないと思うね。

それと、「教育」という風に大きな括りで論じられることが多いと思うのですけど、小学生と中学生と高校生と大学生って、みんな教育を受けてるのは当然なのですが、ステージによってかなり違ってると思うのですよね。ここにも、議論のズレを生じやすい落とし穴があるんじゃないだろうか。普遍的な教育論として語られることと、現場で実践したり改善したりしていく時、合わないところが沢山出てきそうなんですよ。なので、面倒でも、分割して議論されるべきなんじゃないだろうか、と思うのですよね。多くの国民は大抵、今置かれている状況とか、比較的最近の過去を振り返って考えることが多い気がして、そうなると、小学生の子を持つ親の意見と、高校生の子を持つ親の意見とか、全然違ったものが出されてくると思うんですよね。自分の家を振り返っても、自分の子が小学生の頃に思ったり感じたことと、中ニになってしまった後では、やっぱり違うように思うんですよ。ですので、小学入学前、小学校(低・高分ける?)、中学校、高校、大学~、くらいに細分化した状態で議論が必要だろうと思いますね。多くの国民からは、これらが全部一緒になった状態で意見や世論形成されるけど、それは多分正しくない部分が多く含まれそうな気がします。教育基本法のような根幹部分のことについては、どちらかと言えば普遍的な事柄を多く扱うのだろうけれども、「ゆとり教育」のような具体的な政策・方針になってくると、同一基準での議論は難しいと思います。

もともと各種審議会レベルでは、こうした区分がなされた状態で議論が進められていくと思いますが、教育再生会議はそこまで具体的に踏み込んで議論するのが難しいのであれば、大枠レベルでの内容に留めておくべきでしょう。委員の方々にしても有識者ではあるけれども、教育に関して学術的判断・評価が可能なメンバーばかりとも言えないので、そこは一般庶民レベルである可能性も考慮した上で、ご意見は部分的に割り引いて見ておかねばならないでしょう。



エロマンガ島・・・・?

2007年01月21日 13時55分35秒 | 俺のそれ
昨日、記事を書きかけのまま眠ってしまいましたので、続きはまた別な機会に書こうと思いますデス。

ちょっと話しは変わって、大隈先生経由。

大隅典子の仙台通信


笑った。
エロマンガ島

本当に実在しているなんて!!
恐らくこれを知ると、二度と忘れないでしょう、みなさんも(笑)。

何か知るって、やっぱり面白い。



教育を考える10

2007年01月20日 18時53分18秒 | 教育問題
久々の忘れ去られたシリーズ復活です(笑)。

まずは、こちらをどうぞ。

さよならマルクス 内田樹の研究室


子どもの労働とか救貧院ということで、私の場合に直ぐに思い浮かぶのは、オリバー・ツイストかセーラ・クルーなわけですが(笑、無教養につきご容赦を)、今はそういう話ではありませんね。どうも「ゆとり教育が諸悪の根源」みたいな発想が多いと思うのですけれども、それって本当にそうなんでしょうか?メディアの煽動に惑わされているのか、世評の雰囲気に圧されているのか、よく判りませんが、こと教育問題については、時間をかけてもいいはずですし、慎重に考えるべきだと思います。拙速は避けるべきです。新たな教育基本法可決に漕ぎ着けるまでの時間とか道のりは、それこそ数年がかりでやってきたのですよね?学習指導要領改訂なんかも絡むのだろうと思いますが、中教審での議論は何だったんだ、とか、そういう問題も起こってくるのではありませんかね。全くの無駄な討議の積み重ねに終わってしまうのではないでしょうか。

教育再生会議の報告内容は、決して「決定事項」ではありませんし、最終的には国民の選択に委ねられるのだと思います。なので、どんな中身が出されるのか、どこの部分を肯定的に評価し、どこを否定するのか、そういう細かい部分を見て行かねばならないでしょう。再生会議の議論や結論の方が圧倒的に正しくて優先順位も上だ、という単純なものでもないでしょうし、中教審の方にも良いものがあるのであれば、そちらから選択する部分があってもいいと思います。他の誰かが教育再生会議とも、中教審とも違った意見を出す、ということも当然あっていいはずです。

かつての「受験戦争」だの「詰め込み競争」だのと言われてきて、今の韓国みたいに(毎年これからのシーズンになると韓国事情が報道されますよね・・・アホじゃないか、と思えるくらいの受験狂想曲っぷりですよね)なることを望むのでしょうか?そこら辺が疑問なのですよね。学校の机に座って勉強する時間が減ったから、「成績が下がったんだ」という単純なものなのでしょうか?であれば、たとえば教育技術というのはあまり関係なく、単に「成績は勉強時間に比例した関数で表せる」みたいなものなんでしょうか?そういった基本的なところから、判っていることを積み上げていくべきだ。絶対に一つの結論じゃなきゃダメ、ということでなくてもいいはずだし。これから直ぐに結論を出さねばならないものでないならば、腰を落ち着けて、また直ぐに方向転換しなくても済むように今の段階で時間をかけるべきだと思う。


東京都の教育委員としてやってきた米長さんは、次のように語っていますよ。

【正論】米長邦雄 「ゆとりある」教育をなくすな-コラむニュースイザ!


これまでも、教育行政があっちへ行ったりこっちへ行ったりして、混乱を招いてきた経緯はあるように思われるので、それが再び繰り返されることは誰にとっても不幸でしかないです。

教育再生会議からの意見は、主に国民の中によくありがちな意見(例えば私のような無知な人間が言うようなもの)とか、ターゲットにしている保守層?から出される代表的意見、みたいなのを意識しているかもしれない。それが果たしてどの程度の合理性・妥当性があるのか、というのは判断が難しいかもしれません。なので、一つのやり方に統一することがどうしても許容できないとか、圧倒的多数の合意を得るのが難しいような部分は、あえて手を付けないか「しない」という選択も止むを得ないんじゃないかと思う。極めて消極的だけれども、「やって」無残な結果を招くくらいなら、変えたりせずにおいた方がまだマシだった、とかってこともあるので。国民側からは、そうした意思表示は行えるはずだろうと思う。「こうしてくれ」「この方法でやってくれ」というのを最終的に一つに絞らねばならないとすると、教育論・方法については論者も説もそれこそごっそりあるし、成功・失敗体験も人間の数だけあるので、議論を収束させるのはとても難しいと思うよ。そういう時は、少なくとも「これだけは止めてくれ」ということも一つの意見の出し方じゃないかな、と(ああ、ひょっとして、これも『ダメな議論』メソッドの一部?だな)。


ちょっと、退席します。



いや、あの、

2007年01月20日 17時44分22秒 | 俺のそれ
大したことじゃないんですが、一応書いておこうかな、とか、思ってみたり。

この前、重農主義に学ぶの中で次のような記述をしたのですけれども、これは特別な意図があったわけではないんですよね。本当に、たまたま偶然です。



ケネーがそれを意図していたかどうかは別として(よく判らん)、少なくとも重農主義者たちには、ヘンな方向に行ってる傾向はあったようである。ニセ科学とか、「スピリチュアル何とかなんとか」とか、新興宗教とか、そういったものとの共通性があるかもしれない。例えば、「ロハス」みたいなのと近いような気がする。




この並列関係が非常にまずかったのかもしれませんが、近頃よくある商業主義的(それともテレビ的?)な「スピリチュアル~~」というのを謳い文句にしているのを思い浮かべていたのであって、元々はもっと「別なものだと思うよ」ということです。テレビなんかで流行だす以前から、メディカルの世界では「spiritual care」として知られていた言葉でした(私は医者じゃありませんが)ので、そういう先入観があったんですよね。それで、ワケのわからん霊視・霊能者・霊媒師?なんかが登場してきたのを見て、批判的に感じていた。そういう意味です。



「頭が悪い人のブログの特徴」の適合度を見てみる

2007年01月20日 12時29分57秒 | 経済関連
例によって、finalventさんの記事から。

finalventの日記

・知り合いのブログの名前をよく出す
→ピンポーン!○
全然知り合いじゃないのに、他のブログ取り上げる。今まさにそうだ。

・はてぶとか増田のネタを得意げに取り上げて長文でうだうだ書く
→これは微妙だけど、あるな・・・○
こういうのかな>フィクションか、ノンフィクションか?男女と外交「ホワイトカラー・エグゼンプション」について考えてみる

・意味無くカタカナ言葉を連発。英語とかさらに。ギリシア語とか最低
→○、特にギリシャ語この前出したばかり…
コレ>重農主義に学ぶ

・ケチばかりつける
→○二つ分くらいかな?よくやる。

・ネタもとのエントリをろくに読んでない
→△、挫折or誤読あるな。

・「簡単に言うと……」とか言いつつ無駄に話が込み入っている
→○、よく使ってる。しかも長い。

・このエントリをブクマしてオメーだろとかコメント書く
→×、id持ってないので。唯一の否定項目だね。


これって、ウチのブログに「ピタリ」じゃないですか。
ガガーん、ちょっとショック(涙)。

『ダメな議論』メソッド(飯田著)でも、確実にダメ認定を受けた当ブログですが(自己採点>受験生諸君にはこの時期辛い言葉か)、今回は「頭の悪い人のブログの特徴」でもズバリ適合ですね。元々容易に推測可能ではあったものの、採点してみれば、やはり悲しい。目の前に現実が突きつけられるからだ。テストの点数と同じようなものだから。「きっと3、40点くらいしか取れないかもな…」とか予想していたとしても、テストするまでは心のどこかに「ひょっとしたら半分くらいできることもあるんじゃないか」とか、「うまく行けば6割の及第点に行けたりして…」というような幻想(?、見込みのないゴマカシの希望?)を抱いているのかもしれない。しかし、実際にテストが行われて、「ハイ、キミの点数は、30点。落第ね」とハッキリくっきり結果が出てしまうと、先の幻想は全て打ち砕かれる。なので、結果を知ることは、良くないこともある(笑、甘えか?)。悪人は改心すれば治る可能性があるが、バカは直せないそうなので、この先も同じなんだと思う。ゴメンね。


関係ないけど、速読術ってやっぱりあるんですね。1分間に何十ページも読める人が存在するのを知り、驚いた。自分は読む速度が遅いので、本をあまり短時間に読みきることができない。かといって、すごくよく理解しているとか、多くを記憶できるということもないので、遅い分だけ損している。やはり個人の能力の問題なのだろうと思う。根本的なモノが違うんですよね。そうじゃなけりゃ、イチローとかタイガー・ウッズみたいな人は現れないと思うし。ほら、パソコンとかのコンピュータだって、処理速度はモノによって格段に差があるわけだし。

受験生諸君、あまり出来が思わしくなかった場合には、自己採点を延期もしくは無期延期することをお勧めする!知らない方が幸せなこともあるよ(笑、冗談ですからね)。



言語が違えば、理解は困難になると思う(追記後)

2007年01月19日 21時15分20秒 | 社会全般
現代社会で生きて行くのは中々大変です。複雑な事柄が多すぎて、1人の人間の能力で処理できる部分が限られています。今の学問体系なんかを俯瞰してみれば、そのことがよく判ります。また、何かを理解したり解決策を考えたりするにも、特定分野の知識もさることながら、別な分野の知識も必要とされるのです。完璧でオールマイティな人間は誰もいないにも関わらず、複数分野のことを理解し何かの提示を行うことのできる人材を社会が求める時代になっているのだと思います。

何故こんなことを言い出すかといいますと、恐らくご存知の方々も多いと思いますが、ネット界隈では有名な小倉先生がまた・・・って違いました(ゴメンなさい、小倉先生)。そうではなくて、専門家同士であっても、それとも専門家同士であるから?こそ、相互理解に至るには大きな壁があるのだろうと思えることがあったからです。時々拝見し勉強させて頂いている、町村先生とモトケン先生の所で、興味深い議論が続けられています。

Matimulog juge藤山雅行裁判長のお話

元検弁護士のつぶやき 町村先生へ (医療崩壊問題に関して)

<ところで:
小倉先生は「匿名バトルもの」(笑、度々の失礼申し訳ありません>小倉先生)ではない話題にも関わらず、珍しく議論に参加されていますね。町村先生のコメント欄ではツワモノ論客ですので、今回に限ったことではないわけですが、結果的に議論をより複雑化する方向に誘導しているかのような印象を受けてしまいますが、どうなんでしょうか>

以前に、私の記事にもご登場戴きました。

頂いたコメントへのお返事~「元検弁護士のつぶやき」様

不戦敗宣言はまだ早いのでは





これまでの流れを足早にかいつまんで書くと、次のような感じです。

町村先生は、業界内では「藤山コート」で著名らしい藤山裁判官のお話を、記事にお書きになられたことが出発点でした。この内容に関して、町村先生が何ら非難されたりすることではないと思えますし、藤山裁判官の講演内容についても、普通の人々が聞いたところで、特別にオカシイというほどのことはないでしょう。

一方、モトケン先生のブログでは、かねてより医療崩壊に関する意見や議論の積み上げを相当続けておいででした。医療訴訟関連では、藤山裁判官の名は医療側からすれば「悪名高き裁判官」の1人として胸に刻み込まれている、というような状況があったようでした。その為、法曹関係者には医療に対する理解が不十分なのではないか、というような意見が出されるわけです。大雑把すぎでしょうけれど、おおよそこのような流れです。


ここに、ある断絶が浮かび上がってくるのです。それは、医学と法学という、全く異なる言語体系(という表現は不適切かもしれませんが・・・)を持つ専門家同士が共通の理解を得るには、まずこの言語の壁を乗り越えていかねばならないのではなかろうか、と。言語体系という喩えはオカシイかもしれませんが、ほぼそういうイメージなのではないだろうか、と思うのです。だって、ドイツ語とフランス語で、それぞれ片方しか理解できない人たちが何かを議論しても、まずうまく成立しないのではないでしょうか、ということです。まず必要なのは、翻訳とか通訳のような人材なのですよね。

モトケン先生はこれまでの議論の積み上げがあったので、「医学(医療)」に関する「言語体系」に随分と慣れてきて、理解が深まっていたのではなかろうか、と思えるのです。モトケン先生は、一般的な法曹に比べれば、ドイツ語もフランス語も理解できるようになっている、つまり医学と法学の両方の言語体系を理解できるようになっている、ということなんだろうと思います。しかし、批判の対象となっていた藤山裁判官や、藤村講演を記事に書いた町村先生には、そこまでの積み上げはないでしょうし、医学の言語体系についてはまだ十分理解できていないのではないだろうか、ということがモトケン先生や医療側から感じ取れる、ということなんだろうと思うのです。この見方を逆に変えると、医療側も法学の言語体系を理解していない面があり、それ故に藤山裁判官や町村先生に「無理解」の非難をしてしまうのだろうな、と思えます。こうして、法学と医学の専門家同士の間で高い壁が存在しているのではないかと思えます。双方ともに、教育水準も知的水準も高く、理解できるレベルも高いはずなのに、です。

こういう壁を低くしていく方法を考えることが大事なのではないかと思います。ドイツ語で書かれているものを読む時、フランス語しか理解できない人に、「どうして理解できないんだよ」と単に不満をもらし、きちんと理解してくれと求めるだけでは不十分なのではないでしょうか。「何て書いてあるか」ということを、フランス語で教えてあげるか、双方が理解可能な共通言語を探し出すように努める方が有効なのではないかな、と。それとも、今はフランス語しかできないけれども、これからドイツ語を理解しようという意欲(意志?)のある人を探してきて、分りやすくドイツ語を教えてあげるとか。そういう何かの努力をしなければ、フランス語しか判らない人たちに「どうしてこれが理解できないんだろう」と愚痴をこぼしても、改善が進むわけではないと思うのです。


これと似たようなことは、別な局面でも結構あるかもしれません。

求む!行政情報翻訳家?

熱闘!官業金融~第3R

私がこれらを書いた時に感じていたのは、結局のところ、違った領域を「繋いでくれる担い手」という人が必要なんじゃないのかな、ということなのです。それが「翻訳家」とか、「コーディネーター」というように表現した意図なのです。法学と医学の間の断絶も、こうした繋ぎ手がこれまであまり存在してこなかったという面はあるのかな、と思います。勿論、弁護士と医師のダブルライセンスの人はおられますが、絶対数は少なく、情報発信の影響力はあまりなかったのではなかろうか、と。なので、法学の世界に住んでいれば、医学界からの声はあまり届いてこなかったのではないでしょうか。同じく、医学界の住人になってしまうと、法学界から漏れ聞えてくる危機の足音に気付かず、対処が遅れたということはなかったでしょうか。双方ともに、適切な情報提供が欠けていたと思えるのです。医療訴訟専門の法曹は存在しても、大半が法学の言語体系で考えてきたのです。訴訟当事者となった医療側にしても、勝訴という結果に腐心したりする面がなかったとも言えないのではないでしょうか。自分の弁護人に対してでさえ、医学の言語体系でしか説明せず、理解が深まっていなかった面があったのではないでしょうか。

法学側の住人から見れば、一朝一夕で医療訴訟に対する評価がガラッと変わるものではないはずで、少なくとも医療側が「どんな対応をとっていたか」というのを、(弁護士として)原告・被告双方から見ているのだし、裁判官や検察官といった形で関わりを持ってきたという歴史はあるはずです。そうした中で、医療とか医療訴訟についての何かの認識というのが形成されていった部分はあるので、そういう認識形成に至らしめた責任の一端は医療側にもあるのではないかとも思えるのです。訴訟テクニックとして妥当かどうか、というようなことが、少なくなかったのではないだろうか、と。これは話が離れるので、別な機会に考えたいと思います。

今回の議論を見ていて、最も良かったと思えることは、モトケン先生や町村先生のような法曹の方々に、別な言語体系を理解してもらえたということではないでしょうか。実際、モトケン先生は「翻訳家」としての役割を果たしていると思えるのです。かのブログでの議論の集積は、良い結果をもたらしたと思えます。医学と法学を繋いでくれる人々が今後も増えていくならば、今度はその方々が適切な情報発信をしてくれるようになるはずです。元々フランス語には長けておられるわけですから(笑)。フランス語で考える人々のことをよく知っており、どう表現すれば理解しやすいか、ということもよくご存知のはずだからです。


それにしても、今まで「登ってきた山」が違えば、見える景色も持ってる地図も大きく違うものなのだ、ということが実感されますね。


追加です。

登ってきた山という意味はコレ→「現代日本教養論」を読む


で、書こうと思っていて、書き忘れたことをいくつか。

医療側から出されている藤山裁判官についての批判であるが、心情的には理解できなくはないけれども、上述したように医療側から情報や”翻訳”を提示することが必要なんじゃないか、と思います。内向きに批判を積み上げても、言語体系が異なっている限り、そのまま理解を得ることは難しいのでは。裁判官の個人的能力や解釈傾向について問題にすることは、あまり意味のある批判にはなっていないのではないかと思うのです。そもそも、何の為に上級審があるのか、ということでもあると思いますね。3審制ということで、裁判官の個人的能力の問題というのがある程度リスクヘッジされているということなんだろうと理解しています。裁判官は毎回3人はいるわけですし。

グレーゾーン金利に関する判決なども近い部分はあるように思えます。判決に対して経済学理論をぶつけても、殆ど意味をなさないように感じました。まずは、法学理論には法学の土俵上で検討・対抗するべきであると思うのです。経済学理論での批判に対抗できるのは、やはり経済学という言語を用いた対抗意見なのだろうな、と。言語体系の異なった理論・理屈を同一に論ずることは難しいとしか思えないのです。そうであるなら、医療側は論文や医学書なんかを熟読するのと同じように、判決文をよく読み、法律の条文や法学的な解釈とか法学の土俵に上がった上で批判をした方が効果的なんじゃないかと思えます。「相手(法学)方の言い分」というのをよく知り、書かれている中身とかその考える道筋について理解が深まるならば、どのような主張を行えば少しでも理解が得られるようになるのか、というのがちょこっとは見えてくるんじゃないのかな、と思ったりするのですよね。これが果たして本当に効果的なのか、初歩的な間違いをしたりするんじゃないか、所詮は素人考えだと罵られるんじゃないか、そういう危惧はあるかもしれませんが、ネット上での作業ということであれば皆の知恵とか使えるし、意味のある主張が出せる可能性だってあると思うのです。

なので、裁判官個人への批判を繰り返すことが、法学側の理解を深めることや誤った認識を氷解させることに繋がるようには思えないのです。ズレてるかもしれませんが、例えば、「過失」と「リスク」をどのように評価したり考えたりするのが望ましいのか、社会的要請と医療側が実施可能な範囲というのがどういう違いがあるのか、といったような、裁判の時の判断に役立つ「何か」(具体的中身やどのくらい役立つか分らないのですけれども)というのを積極的に提示していく方がいいのではないかと思います。


久しぶりに一応TBしてみましたが、何故か届かない~
両方ともです・・・どうしてなのでしょう?ひょっとして、TB禁止措置でもとられているとか?(笑)



利上げは延期

2007年01月18日 20時42分58秒 | 経済関連
とりあえず今月は延期されたが、年度内に利上げを狙っている可能性はあるので、依然先行きは不透明だ。昨年の量的緩和解除の時には、2月に一度諦めて3月決行、という実績がある。今回は苦渋の決断をした、というのが日銀サイドの本音であろう。

一部に「日銀が政府や自民党の圧力に屈する」とか、「日銀の面子にキズがつく」とか、そういうことを解説しているエコノミストだか金融系の記者?がいたようだが、これも全くの見当外れではないか。そもそも、総裁、審議委員やその他日銀幹部らの人的つながりで漏れ聞えてくる「情報」を基に、金融政策の妥当性を判断することの方がおかしい。「やると言っていたのにやらなければ、日銀の独立性が損なわれる」というのも、理屈としては相当オカシイのではないか?「やると言っていた」って、一体どこの誰がそんなことを言ってるのか、明らかにして欲しいものである。重要な金融政策決定は、本当は政策決定会合前に全て決まっているとでも言うのか(笑)。つまらん儀式である、ということは十分証明されたということだ。事前に振り付けが決まっている事柄について、台本通りに演じてみせるのが決定会合役割である、というのが彼らの主張なのかもしれない。

日本の中央銀行も、関連の業界メディアも、金融機関やシンクタンクその他モロモロの関係者たちも、「日本的閉鎖社会」の内部で長年馴れ合ってきたのではないか?恐らく、一般の人々にはあまり興味を抱かれることの少ない分野であるし、結構マニアな集団みたいなところがあったのではなかろうか。業界内では、立場や職種が違えど、一種の仲間意識みたいなものがあるのかもしれない。「金融」「経済」などのことについて、ましてや日銀の専門的な業務内容・制度・政策の仕組みなどを理解しようと思えば、それなりの知識を必要とするし、普通の人にはあまり縁も馴染みもない分野としか思えないからである。そういう繋がりの中で、運営も情報交換も一緒に行われてきたのではないか。

しかし、よく考えてみるといい。総裁がやると言ったから、などという曖昧な理由よりも、決定過程や判断基準に合理性があるかどうか、あやふやな理由で政策決定が行われていないかどうか、結果については正しく検証がなされているかどうか、そういうことが重要なのであって、人的効果に重きがあるわけではないのである。言った言わないみたいなもので、「止めるなんて聞いてねーよ」というのがどれ程愚かしい理由なのか、「オレ様がやると言ったからにはやるんだ」というのが本当に望ましいのか、そういったことは普通に考えればすぐに分りそうなものである。だが、その程度すら考えられない人たちがいるようだ。一般人よりもはるかに経済通、業界(事情?)通、専門家風、といった方々なのに、不思議なものである。


記事では、次のような感じ。

Yahooニュース - 時事通信 - 利上げ見送り、票割れる=最多に並ぶ3人が反対-日銀

要するに、利上げ肯定派たちに配慮しました、日銀は政府や与党の圧力とは無関係に決めました、というのを暗示したということだろう。それが、「反対3票」の意味である。


日銀の発表はコレ。

金融経済月報(基本的見解)2007年1月)

これを読んで、利上げする環境が揃っています、根拠も十分です、などとは到底思えないのである。まあ、頑張って(それとも嫌々?渋々?)「弱含み」と入れたことは認めてあげるべきかもしれない。ひょっとして、水~木曜日深夜にかけてとか、ギリギリ土壇場で文言を差し替えたの?

それと、ちょっと言い訳(笑)してる風なのが、


わが国の景気は、昨年10月の「経済・物価情勢の展望」(展望レポート)で示した「経済・物価情勢の見通し」に比べて、これまでのところ、天候要因等一時的な下押し要因もあって個人消費を中心に幾分下振れている(注)。

(注) 成長率の下振れについては、2005年度計数が確報化により下方修正されたことに伴い、2006年度への発射台(年度中の各期の前期比伸び率がゼロであった場合の年度平均の前年比)が0.3%ポイント縮小したことも影響している。


という部分だ。

それでも、触れないよりは誠実ではある。下振れに言及しなければ、どう考えても現実とは合致しない。

この注の部分は今回から入れられた(数値確定は12月後半だったからかな?もう忘れてる・・・泣)。要するに統計処理に伴うテクニカル要因によっても数字が下がっているのだよ、と(笑)。それにしても、「発射台」という表記はこういうものなんでしょうかね。初めて見た(知った)。

「オーバーナイト物…」
「欧米かっ!!」
「今年度の発射台…」
「テポドンかっ!!」

この前のもつまらなかったのに、今回のはもっと面白くなくてゴメンなさい。



予備校が行う大学教育とは

2007年01月18日 12時48分00秒 | 教育問題
予備校が悪いということを言いたい訳ではありませんが、如何なものかとは思います。規制緩和唱導にありがちな主張には、「株式会社が経営すればもっと効率よく良くなる」というのがありますが、これって本当なんでしょうか?学校でも病院でも何でもいいのですが、「株式会社」だからよいものが得られる、ということではないように思えるのですよね。

文科省、「LEC東京」に特区大学初の改善勧告発動へ 社会 YOMIURI ONLINE(読売新聞)

(記事より一部引用)

LEC大は04年4月、資格試験対策の予備校を経営する株式会社「東京リーガルマインド」が開校。司法試験や公認会計士などの資格取得を目指す実学重視の姿勢を打ち出していた。
 ところが、文科省の複数の調査で、〈1〉予備校のテキストを使い、大学生と予備校生が同じ教室で授業を受けている〈2〉約170人の専任教員の多くが別の仕事と掛け持ちで、担当の授業を持っていない上、大学での研究活動もしていない〈3〉ビデオを利用した授業で教員がおらず、学生との質疑応答などができないケースがある――などの実態が次々に明らかになった。
 これらの一部は、専任教員に大学での教育・研究を求めた大学設置基準などに違反する疑いが強い。同省はLEC大側に文書で指導を重ねてきたが、改善が見られなかった。



民営化の流れというのは様々な分野で行われているのですが、大学の民間企業経営というものが果たしてどれ程必要なのだろうか、という疑問は拭えないのですね。株式会社は「営利目的で学校や病院経営をしたい訳ではない」とか言うのですが、利益のない事業とか赤字でもいい事業なんかをやっていい、ということなら、株主利益に反したりはしないものなのでしょうか?この辺の理屈というか、主張の整合性についてはよく分らない訳ですが、もしも社会的に貢献したいとか、CSRのような何かが関連しているとか、そういうことであるならば、頑張って税金を沢山納めてくれればいいし、「どうしても貢献したい」というのであれば寄附すればいいのですよね。

病院経営にしても、本当にきちんとできるのであれば、例えば夕張みたいな場所の病院を運営してみてくれ、思いますね。自治体は補助金を入れたりしなくてもよくなるだろうし、病院がきちんと運営できて医療サービスも向上させて住民に提供できるのであれば、みんなハッピーになれますよ(笑)。前から何度も言っている通りに、各自治体には多額の赤字を抱えた病院なんかがゴッソリあるので、モデルとして赤字額の大きい順に運営を担当する株式会社を募集すればいいと思いますよ。実際にやってごらんなさい。実績を見せてごらんなさい。

効率的運営とか言うのであれば、補助金は勿論全額カットでもいいはずですよね。国家公務員共済が運営している病院なんかもあるから、そういうのも補助金なしでやれるはずだよね?社会保険や年金関係が運営主体の病院なんかもたくさんあるので、そういうのを株式会社が運営して、施設整備費等の費用が全額カットできるのであれば、願ったりかなったりじゃないですか。株式会社が工場建設の際に、建設費用を全額出してくれないと操業できない、とか言うはずないですよね?

博士号のネット販売まであるらしいというご時世ですので、株式会社が学校運営を担当すれば、現実にどういった弊害が出てくるか監視が必要でしょうね。どちらかと言うと、運営主体が会社か学校法人なのか、といった違いなんかではなくて、運営する側の理念というか、やっぱり「やる人の人生観、考え」みたいなのが大きく影響しそうで、民間会社がやればうまくいくとか、良い教育が提供できるといったことではないように思えるのですよね。参入障壁を低くすれば、いい人たちも入ってくるかもしれないが、そうでもない人たちも入ってくるので、そういうのを選別・淘汰させられるような制度が必要なんだろうね。良くない大学に金を払ってしまった人たちは、言ってみれば騙されたようなものと同じくなりかねないので、チェックする体制が充実していないと難しいのではないかと思うな。まさか「ビデオ授業」しかない、などとは思ってもみなかっただろうから、学生さんが可哀想過ぎるよね。そんなんでいいのなら、教育テレビの番組からいくつか録画をしておいて、授業と称して流していてもあまり気付かれないかもしれない(笑、これは犯罪なのだろうけど)。

学校教育を本当に充実させたいと考える企業なのであれば、共同研究とか寄附講座とか他の方法がいくらでもあるし、金を出す代わりに口も出したい、とか思うのであれば、学校の理事会なんかに要望書を毎年提出できるような契約を予め結ぶとか何とか(そういった仕組みについては、全く知らないので実際どうなってるか判りません)できそうなんじゃないか。研究成果や活動状況などを報告書の形で出させたり、何かの評価機関に評価を受けさせて、金が有効に使われているか報告させるとか、そういう関与の仕方もあるのではないかな。でも、口を出す前に、まず金を出せ、というのが、私の印象ではあるな。「○○会社記念図書館」とか「××記念研究棟」とか、そういうのをまるで見たことがないもの。ごく稀に、企業名を冠した施設なんかはあるだろうが、大学とか半公的な施設なんかに大金を出している会社なんて知らないな。

そういう企業活動も大事だけど、まず従業員に払え、というのが社会全体の本音であると思うから当面は難しいかもしれないが、寄附受け入れに関する制度などを大幅に緩和すればいいのかも、と思ったりする。国公立(国立大学法人とかに変わったけど)は特定の民間企業から金を貰って、何か作るというようなことが難しいのかな。情報が公開されて透明になっているのであれば、あまり問題ないようにも思えるけどね。

社会全体が目先の利益になるものだけにお金を使うようになってしまうと、きっと経済活動も停滞するだろうな、という素人考えが浮かぶのです。


昔の本のこと

2007年01月17日 20時27分01秒 | 俺のそれ
この前、finalventさんが野口英世のことを書いていたので思い出した。昔話なので、つまらないと思いますが、ご容赦下さい。

今でも残してある本がある。今までの引越しとか何とかの際にも、どういうワケか捨てることのなかった本だ。思い出深いからなのか、元々貧乏性だからなのか、自分でもよく分らない。

他愛のない本なので、ガッカリしないでね。
えーその本というのは、小学館の『少年少女 世界の名作 日本編―5 山椒大夫/野口英世ほか』という全55巻シリーズの49巻目である。小学生(2~3年?)の頃、母親が買ってきてくれた初めての本でした。以前にもちょっと書いたが、ウチの両親は高学歴なんてものとは縁が無く、母は中卒であった。家に本なんて、殆どなかった。その母が始めて購入してくれた本だった。何故この49巻目を選んだのか、よく分らない。まあ、何か思う所があったのであろうか。

この本には、箱型のケースと、表も裏も絵で埋められているカバーがついている。まるで、最近の女性雑誌にありがちな、表紙のようである(女性セブンみたいなヤツ)。殆ど絵だ。箱型ケースも勿論、表裏ともに絵が描かれている。ケースには、定価630円と小さく書いてあり、そのすぐ上に特価580円と書かれている。これって、二重価格表示?なんではないですか>公取委(笑)。昔はこういうのでも良かった時代だったのであろう。大きさはA4サイズくらいで、357ページの大著(笑)である。重さは約1キロくらいかな。昭和48年9月25日初版第一刷発行となっている。

収蔵作品は、次のものだ。

・山椒大夫/森鴎外
・一房のぶどう/有島武郎
・南極探検/白瀬 矗
・杜子春、くもの糸、トロッコ、鼻、みかん/芥川龍之介
・野口英世/氷川ろう(王ヘンに龍)
・海底大陸/海野十三


監修は、岡田要(前国立科学博物館館長)、川端康成、浜田廣介(日本児童文芸家協会会長)の3氏。

編集委員は大勢いる。
石川湧(仏文学者)、今泉吉典(国立科学博物館動物研究部長)、植田敏郎(独文学者)、大久保康雄(英文学者)、串田孫一(評論家)、阪本一郎(日本読書学会会長)、品川孝子(児童心理学者)、土家由岐雄(児童文学者)、滑川道夫(児童教育評論家)、福井研介(ソビエト文学者)、村山定男(国立科学博物館理工学研究部長)、彌吉光長(日本図書館協会常務理事)という方々。参考までに、私は誰一人知りません。失礼。


この本の特徴は、とても挿絵が多い、ということかな。あと、難しい部分は小学生向けにやさしくしてある。
何人かの人が作品ごとに書いている挿絵の雰囲気が好きで、何回も読んだ。他に大して娯楽もなかったということもあっただろうけど。大人になった後の自分の中にあるイメージというか考え方というのは、こういう昔の記憶に影響を受けているかもしれない。一応、ウチの子にも貸してあげることができたので、捨てなかったのは正解であった(笑)。とてもお得な本だ。



デザインを変えてみたが

2007年01月17日 15時50分41秒 | 俺のそれ
字が小さくなって、読みづらい(笑、年のせい?)。

表示形式も、あまりよくないかもしれないが、暫くこれでやってみよう。
今までは、字の大きさでテンプレートを選んでいたのですが、他の人たちのブログでも結構字が小さいから、まあいいかな、と。



こういう絵は従来よりも相対的に大きく見えるので、何だかヘンな感じだ。
行間の空き具合も、以前と随分違う。馴れが必要かな。



連合と言っても・・・・

2007年01月16日 19時01分57秒 | 社会全般
あの有名な「連合」ではありませんよ。

今朝の読売に面白い記事が(ネット上では掲載されてないです)あったのですよ。
何と「童貞連合」なる組織の紹介があり、その会長さんがインタビューに答えていました。

で、ネット上で調べると、次の組織を発見。

全国童貞連合


ここの「卒業者」も結構いるとか(きっと彼女ができたら、退会していくのではないでしょうか)。

書いてあるコメントが面白いね。

『Cherry Xmas』だよ?うまいじゃないか、と思ったよ。
『立ち上がれ全ての童貞たちよ』だし。


面白すぎです。


1/18 追記:

ネット上で記事が読めなかった、と書いたが、掲載されていた。探し方が間違えたのかもしれない。或いは、その後に掲載されたのかな?一応、載せておきます。


(10)「童貞連合」会員260人 男ごころ 「らしさ」を超えて 特集 YOMIURI ONLINE(読売新聞)

記事の反響は大きいようですね>読売新聞(笑)。
今の風潮というか、時代を反映しているのかもしれないですね。近い境遇の男性や、まだ若いけど将来に不安のある男性なんかが多い、ということなのかな?と。それとも、共感を覚える男性が少なくない、ということか。



「小沢ハウス」を探せ(笑)

2007年01月16日 16時00分57秒 | 政治って?
驚きの情報です。小沢さんの事務所費4億円超の問題について、きちんと調べている人がおられたのですね。

さるさる日記 - 泥酔論説委員の日経の読み方


これで、「小沢ハウス」が本当に存在しなければ、虚偽の報告ということになり、民主党は壊滅的でしょう。唯一の救いになりそうなのは、参院選までには時間がまだ残されている、ということくらいでしょうか。75日以上残ってますので(笑)。


自民党にとっては、閣僚の疑惑云々など霞むはずで、思いもよらぬ敵失でしょう。「大チャンーース到来」ってな具合ですね。



それから、大事なお詫びが一点ありました。
この前、記事(いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」 事務所費って何だろうか?)でどうせ隠しているんだろ、みたいに書いたのですけど違った。

総務省ゴメンね。収支報告書関係は、閲覧しに行かなくてもネット上でも公開されておりましたです。本当にごめんなさい。

政治資金規正法施行規則を読むと、閲覧は指定場所で執務時間内とか、持ち出しできないとか、丁重に扱えとか、そういう決まりになっているから、てっきり「原本」しか見られないのではないかと思い込んだもので・・・・だって、そうとしか思えないよね(と言い訳)。

でも、きちんと公開されていた。地方自治体も国と同じように情報を公開するべきだよね。そういう方向に指導をお願いします>総務省
「e-japan」推進(それとも経産省が唱えてたんだっけ?)にも繋がりますね。



エリート官僚叩きは○○の味?

2007年01月16日 13時31分06秒 | 社会全般
最近、醜聞が好んで報道される霞ヶ関。内部告発とか、怨恨とか、意趣返し?とか、色々なネタ、リークなんかが飛び交う、魔界のような所なのでしょうか?一般庶民にはよく分らないのですけれども。


まずは総務省。統計関係なんですって。

NIKKEI NET:社会 ニュース

(記事の一部を以下に引用)

高校野球の優勝校を予想する賭博をしたとして、警視庁保安課は12日、総務省統計局課長補佐の男(37)や同省所管の独立行政法人「統計センター」(東京都新宿区)職員の男(59)ら男女計18人を賭博容疑で書類送検した。調べに対し、18人は「大変なことをしてしまった」などと容疑を認めているという。調べによると、統計局課長補佐らは2004年8月と05年8月、統計センターのLANを使い、1人1000円を賭けて全国高校野球選手権大会の優勝校などを予想する賭博を行った疑い。




で、処分はこちら。

高校野球賭博容疑で書類送検、総務省職員ら18人処分 社会 YOMIURI ONLINE(読売新聞)

(記事の一部を以下に引用)

総務省と独立行政法人統計センターは15日、同省の情報通信網(LAN)を使い、高校野球で野球賭博(とばく)をしていたとして賭博の疑いで書類送検された職員計18人を処分したと発表した。減給(10分の1)1か月が2人、戒告6人、訓告10人。このほか監督者責任を問い、1人を厳重注意処分とした。




国家公務員は、有罪でも(まだ判決は出てないのでしょうけど)免職にはならないんですね。知らんかった。まあ、これでクビになっちゃったら、泣くわな。こういうのが、世間一般で全くないかと言うと、かなりあるでしょうけれども、それが告発されてしまってはねぇ…

金額が少なく、悪質ということはないと思うが、どう考えても、内部告発以外有り得ないよね。恐らく、18人のうち、階級が上の方の誰かに対する恨みとか、陥れのような理由がないと、わざわざ警察に言ったりはしないワナ。いつの間にか、そういう恨みを買っているとすれば、恐ろしい世界ではあるね。ちょっと可哀想。



それから、こちらは週刊誌ネタ。それも、一般人から怨嗟のターゲットにされやすい、エリート系。格好のネタ、ということなんでしょうね。


財務省エリート主計官、朝日新聞女性記者と不倫?-事件ですニュースイザ!

(記事の一部を以下に引用)

13日発売の週刊誌「週刊現代」1月27日号(講談社)が、「財務省エリート主計官と朝日新聞美人記者の『不倫生活』」との見出しのトップ記事を掲載することが12日、分かった。同誌によると、妻子のある主計官(47)が、朝日新聞発行の週刊誌「AERA」の女性記者(40)の都内マンションを度々訪問。昨年12月23日と今年1月9日に会っていたという。

 女性記者は不倫関係を否定しているが、同誌は女性記者が「財務省をはじめ霞が関を主な取材の舞台にしている」と指摘。「その取材対象者である国家公務員とジャーナリストが、特別な関係にあるとしたら重大な疑義が生じる」とし、「あの“西山事件”に匹敵するスキャンダルです」との全国紙記者の談話を引用している。




まあ、私にとってはどうでもいいんですが、女性記者はAERAの契約記者らしいので「朝日新聞記者」じゃないみたいです。で、妻子ある男性のエリート財務官僚は、主計官だそうです。主計官は10人くらいしかいないそうなので、かなり特定されてしまいますな。週刊誌を見たわけではないのですけど、男性は面が割れてしまっているように写っていますね(新聞広告で見た)。

タイトルだけ見ると、かなり煽ってます。

『財務省エリート主計官と朝日新聞美人記者の「不倫生活」  スクープ撮!モラルなき官庁とメディアの”癒着”現場』

どうです?これって、所謂「ホンマ事件」の意趣返しみたいにしか見えないんだけど(笑)。

不倫には不倫で!みたい。
究極の返し技、名付けて「不倫返し」(面白くない?・・・失礼)


要するにvs財務省というような、霞ヶ関界隈の何処かにある「戦場」なのか、人的バトルの生贄なのか、よく分りませんが、そういうようなもんですか?(笑)
世間の「エリートなんて、云々」といった感情をうまく利用できるんだろうし。こうして、「官僚憎し」という空気醸成とか、官僚バッシングの釣りエサ(笑)が次々と投入されてしまうんだろうな、と。でもね、こういうのを探せば、大企業経営者とか、お偉い取締役とか、それこそゴッソリあるだろうに。変態趣味な爺さん社長とか。でも、広告費関連とか微妙にあったりして、表には出せないんだろうけど。そういえば、北米トヨタ社長のセクハラ訴訟では、数十億ぼったくられたんじゃなかった?ホラ、秘書に訴えられてた件ですよ。和解でもみ消したとしか思えなかったけど、まあ、そういうのは世間一般でもあるわけで。霞ヶ関とか、永田町に限ったことではないんでしょう。「色好み」は、高い能力を有する男の顕れなのかもしれんから(笑)。


虚しい社会ですね、何だか。


「貧乏バイアス」の存在を疑う(笑)

2007年01月15日 20時57分31秒 | 経済関連
あんまりマジに受け取らないでね。

前の記事で触れましたが、日銀のアンケート結果を見て物価と金利の回答結果が気になったので、それについて書くことにします。


1)物価について


この結果からは、統計上の数値(CPI 、コア~とか)と随分とかけ離れているな、というのが第一印象でした。これは何故なのか?ということですね。

まず、回答している人たちは、ごく普通の人々であると思いますし、必ずしも経済理論とか統計上の定義(物価の算出法だの、品目だの・・・)なんかを熟知している訳ではないだろうと思います。これが結構重要だろうと思いますね。

よく行動経済学で言われるような、「得したことへの評価よりも、損を嫌う・損の方が強く感じられる」みたいなのがありますよね。物価上昇の実感は、主にこの傾向が表れているんじゃないかな、と思うのです。それが、「感覚的な物価上昇幅は過大に評価されやすい」ということに繋がっているのではなかろうか、と。


買い物をする時、「高く買わされる」のと「安い値段で買える」のでは、高い場合には買い手にとっては損失で全く同じものを安く買えると「利益」ということになると思います。であれば、10円高い値段の時と10円安い値段の時にそれぞれ1度ずつ買ったとしても、印象としては「高かった」(=損した)という方が強く残る、ということじゃないかな、と思うのです。本当は均等なんですけれどね(そう考えると、共産党の「庶民の生活を苦しめる~云々」とかいう主張も、何だか理解できるような気がします(笑)。だって、そちらばかりが印象に残っているのですから)。


仮に、大根を購入する時、値段はバラバラだろうと思うのですが、安く買えた場合にはあまり記憶されておらず、高かった記憶が残っていて、それが幾度か起こると「また大根が高かった」という記憶は強化されると思います。安かった回数をいちいち思い出せないのが普通なのではないかな、と。こうして、「最近大根は高い」という印象が定着するということなんじゃないかな、と。これが、かなりの品目について行われるので、どちらかと言えば「高かった」という記憶の方が優勢になるかもな、と思います。


それから、みんなが「あらゆる財」を購入することはないので、例えばデジタルテレビとかパソコンとかを購入したりする人にとっては、「最近は値下がりしたな」という感覚は生じますが、そういうモノを購入しなかった人たちはたまたま値上がりしていたもの(一時のガソリンや灯油とか、ティッシュとか)を購入した時の印象が残るので、全商品を均等に思い浮かべたりでき難いのではないでしょうか。たとえ購入しなくとも、普段から価格情報に細かく目を通して、「最近はデジタルカメラや携帯電話が安くなったな~」とか実感だけしている人というのは、かなりの少数派なのではないでしょうか。「あら、最近は女性下着やカシミア製品が安いわね」などと(いい加減な例ですので実態は知らないです)、分る人の方が凄いですよね。ネギの値段が2本100円だったのを、ちょっと値下がりしてきたので3本100円で売っていても、あまり「お得感」は無いという可能性もあります。これまで輸入物のサーモンを購入していたが、国内産の鮭を偶然購入したら、値段がえらく高くなった印象を受けるとか(産地までいちいち見てないかも)。


要するに、こういったバイアスみたいなのが存在するので、実感が統計的な数値には中々近づかないのではないだろうか、と。しかも大抵の場合、物価が上がれば、「企業にむしり取られた」と思っているかどうか分りませんが、自分がかなり損をさせられた気分になるでしょう。憎むべき「物価上昇」ということなんですよね。靴下やタマゴを買う時に、いちいち社会全体の経済のことなんか考えないですから、普通は。デフレがどのような負の効果をもたらすのか、よく知らないからではないでしょうか。


現状の物価水準の答えを見ると、5%以上低下か上昇を選んでいる人たちは約2割いるので、ズレてる傾向は出てると思います。更に、ゼロ未満を選ぶ人たちは、たったの7.1%しかいません。平均では2.9%で、その前の調査では4.2%というべら棒な数字になっています。つまり、こういった人々が実感として「物価は上がっていない」と感じるレベルというのは、下手すりゃ、毎年3~4%の持続的下落が必要ということになってしまい、まるで日銀の「良いデフレ」信者みたいなことになりかねません。「損させられた」という記憶と、似たような状況が複数回繰り返されることによる記憶増強の結果が、こうした数字に出ているのではないか。


別な見方で、金持ちと貧乏人がいた時、どちらがより「物価が上がっている」実感が強くでるかというと、恐らく貧乏人なんじゃなかろうか、という気がしています(実際の行動経済学ではどうなっているかわかりません)。普通に考えると、生活やお金に余裕があれば多少の値上がりにも「まあそんなもんかな」という程度で、「損した気分」というのがあまり強くはならないように思うのですよね。でも、余裕がなくてカツカツの生活を強いられていれば、どうしたって「ネギが10円’も’上がっている!!」というような「損した気分」は強く印象付けられるように思えるからです。なので、物価上昇率の実感が高い数字の人たちは、どちらかと言えば貧乏な状況・生活が苦しい状況なのではないかな、と。酷い言い方をすれば、「貧乏バイアス」みたいなものではないでしょうか。


5年後の物価見通しでは、中央値で年率2.5%、平均値で4%程度上昇という予想をしているのですが、これもかなり凄い値であると思いますね。毎年毎年ですので、今の水準からすると、そこまで上がるのは厳しそうなのですけどね。まあ、これくらいは上がっていくのが常識、というようなことかな。日銀よりも、一般庶民の方が、どちらかと言うと「上げ潮」的感覚を持っており、現状で2%程度の上昇を実感しているとすれば、ここから「更に2%程度」上積みされても不思議じゃない(or 当然だ?)ということなんでしょうね。そう考えると、現状では0.5%未満の物価上昇率なので、ここから更に2%上積みすれば大体2~2.5%程度の物価上昇率が毎年達成されるだろう、ということなんですよね(実感との乖離幅は同じ程度残されるが)。これって、日銀よりもはるかにマトモな感覚なんじゃないの?4%は名目成長で行けるということですよね(笑)。



2)金利について


これも、デフレの弊害と似ているのですけれども、金利が高いとどうなるかということが、あまり理解されていないと思いますね。それ故、「金利が低すぎる」という意見は随分と多いです。でも、これは目先の金利収入を「当てにする」という人々がいる、ということを示しているものの、社会全体の経済に対する影響を考えて答えたりはしていないと思われます。ありがちな批判の典型として、名目金利と実質金利の違いも知らないで云々というようなのがありますが、私も全然知らなかったもんね、そういうのを。平凡な生活をしている人たちにとっては、そういう経済学的な話はあまり縁がないですし、どうにか目にする機会があるのはメディアですが、解説に登場する人たちは必ずと言っていいほどウソを教えるからね(笑)。なので、誤った認識というか、低金利は銀行が庶民から金を奪っているんだというような話に結びついてしまいがちです。


金利が家計消費にプラスに作用するかどうか、という問題がよく論じられます。

◎利上げをすれば、消費が増えるというのはDQNの戯言

みたいな短絡的な意見も散見されますが、確かに利上げは色々な影響はありますので、一概には言えない面はあるのでしょう。


前の記事で紹介した内閣府の分析でも、1%ポイントの利上げでは、消費はプラスになっていました。他には、次のような意見もあるようです。

平成17年度 日本経済2005-2006 第2章 第1節 金融市場の動向と日本経済

第3節 回復する金融・資産市場


つまり、

・純利子所得が5.4兆円増加、限界消費性向53%から約2.8兆円規模の消費増
・純利子所得が6.3兆円増加、単純な消費関数から約1.2兆円規模の消費増


いずれも内閣府の意見なので、何とも言えないわけですが(笑、肯定的なバイアスでしょうか?)、一応、これら分析を考え合わせますと、家計収入や消費には「プラスに作用する」と考えても良さそうではないかと思います(この部分は、同一の人が書いた可能性も有りますかね。消費額の推計が大きく違っているのですけど)。


家計にとってみれば、少し利上げしてもらって、金利所得は「多い方がいい」ということになりますが、分配面では高齢者や高額所得者などの「金融資産保有の多い層」にとってのプラス面が大きくなりますので、低所得層や若年層にとっては良い事はあまりないかもしれません。企業の利払い費用が増加する(特に中小企業)為に、非正規雇用の人たちの給与面にしわ寄せが行ったりする可能性があります(サービス業では中小企業が多かったりするし、非正規雇用に依存する割合が高いと思います)。消費者ローンの利払いが98年以降住宅ローンの利払いを上回っており、20歳代の貯蓄率の大幅なマイナス(つまりは借入が多い)などを考えると、ローン負担が重く圧し掛かってきそうです。


いずれにせよ、利上げは日本経済全体にとって見れば下押し要因には違いなく、家計の金利収入という断面だけ取り上げるのは、問題があるでしょう。それは、利上げの恩恵を受けられる人たちにとっては、プラスに違いないですが、その分だけ他の誰かがマイナスを被らねばならないからですね。金利収入はどう考えたって、金融資産持ちが断然有利に決まっており、特にキャッシュを潤沢に持っているような金持ちや大企業なんかだと、それは嬉しい話ではありましょう。


こういう状況であっても、一般人の多くは「金利をもっと上げてくれ」と言ってしまうわけです。これは、金利上げ下げの基本的な部分が知られていない、理解されていない為でしょう。それか、例えば1%という基準金利はそれでもいいので、できるだけ1%に近づくレベルで利息を付けてくれ、ということでしょうね。銀行はサヤを抜かねば利息を払えないに決まっていますが、「銀行利益は多い」ということから、その利益をもっと還元して欲しい、という意味ですよね。それならば、金利が低い、という恨み言も分ります。


根本的には、日銀のやってることや、金利のことなどについて、多くの人々に誤解とか理解不足なんかがあるのです。物価とか、インフレとか、そういうことについても、正しい知識提供などが少ないのではないでしょうか。全員に同じくらいの知識や理解を求めるのは難しいので、できれば半分程度くらいの人たちでもいいので、理解が得られるような努力は必要なのではないのかな、と。私自身も何も知らなかったですから(だって、あんまり関係ないんだもの。専門職でやっているんだし、日銀は)。


そういう訳で、物価や金利についてのアンケートを見る場合には、注意点もあるのではないのかな、と。それと、啓蒙活動が必要なんじゃないのかな、と。