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日銀に利上げの根拠を問う~その2

2007年01月15日 00時46分13秒 | 経済関連
現状と比較的短期の見通しを考えてみることにする。

基本的な影響を分析した、次のペーパーを参考にした。

ESRIESRI Discussion Paper No173 短期日本経済マクロ計量モデル(2006年版)の構造と乗数分析


①公共投資

政府の基本的姿勢は、プライマリーバランスの改善を目指しているので、公共投資は伸びがマイナスということになるだろう(予算案ではそうだったよね?)。ペーパーでは拡大で調べているので、この逆(数字が同じだけマイナスになるとは限らないでしょうが)に動くことは、当然予想できる。投資額がGDP比でどの程度マイナスとなっているか、調べていないのでアレだが、基本線は実質、名目、ともにマイナスの影響となると考える。


②定率減税廃止

個人に対する影響を見れば、段階的に定率減税は廃止となるので、昨年と一昨年に比べれば「増税」と同じ意味合いであると思う。短期的には減税効果の逆に動くことが十分考えられると思う。一昨年に比べれば、GDP比で1%もマイナスにはなっていないと思うが(所得税のうち定率減税幅はどのくらいか忘れた、確か2兆円超とかそういう規模であったと思うけど・・・・)、仮に-0.5%程度のマイナスとなれば、実質、名目、消費、住宅投資等でマイナスとなることが考えられる。つまり、定率減税廃止という影響は、今年や来年に出てくる可能性が高いであろう。


③短期金利引き上げ

1ポイントの引き上げには至らないであろうが、もしも06年度内(1~3月)で引き上げられた場合、昨年7月と合わせると0.5%の引き上げに相当し、実質、名目ともに下押し要因である。特に影響が大きいのは、設備投資とか住宅投資の大きなマイナスになると思われる。この影響度はかなりあるのではないかと思うが。


④外生的ショック

短期金利の引き上げによって考えられるのは、為替の変動であろう。③の項目でも検討されているが、これとは異なった影響が出てくる可能性は有り得るであろう。昨年3月の量的緩和解除の際には、ドル円が120円近かったのが一気に115円程度まで円高が進んだはずだ。金利の引き上げ幅以上に、為替市場が反応してしまうことはあると思う。4~5%程度の変動は覚悟せねばならないかもしれない。


他には、政治的なショック要因というのも可能性は有り得ると思うが。具体的には、地方選と夏の参院選だ。この辺りで、万が一自民党が敗北するようなことがあり、安倍政権の基盤にヒビが入ろうものなら、間違いなくマイナスの影響があると思う。つまり、ある程度景気減速が起こったとしても、自律的反発が可能な程度には「緩めておく」ことが必要であろう。それくらいの慎重さが求められて然るべきであると思う。


これだけ、リスクが揃っていながら、なぜ日銀が利上げを目論んでいるのか、明らかにするべきである。何を根拠にしているのか、説明できるはずであろう。


それから、日銀のアンケート調査を見てみよう。

生活意識に関するアンケート調査(第28回)


景況感は、06年6月以降、徐々に悪化しているんですよ。先行き(1年後)の見通しにしても、同じく悪化しています。よくなる材料なんて何もないのですよ、今の所。当たり前だっての。

家計調査では、勤労者世帯の消費はマイナスが依然として続いているのですよ。それは、所得が伸びていないということもあるだろう。暮らしの余裕がなくなった、という割合は多く、楽になった、というのはごく一部だ。暮らし向きD.I.と景況感D.I.ともに、3月以降下降気味じゃないか。量的緩和解除、利上げ後、ともに、悪化を招いている傾向が窺えなくもないのだ。収入の現在水準や先行きも、改善しているというのは見られないが。こんな状況で、ULCは大幅にアップしてきたのか?(笑)プラスに転じたのか?雇用不安にしても、全然消えていないんですよ。求人が逼迫してきて、売り手市場なんてこともないし、雇用関係においては依然として労働者側が「弱い立場」におかれていることに変わりはないでしょうね、きっと。


日本の成長予測に関しても、悲観的な見方が広がっており、特に12月調査では、悪くなっていますね。まあ、そうでしょうな。これが普通の感覚だと思いますよ。景気拡大とか言いながら、給料も増えず、雇用も大して増えず、先行き暗い話題ばかりで、これで「成長していける」などと思えというのは無理でしょう。量的緩和解除の3月以降、どんどん落ちていっているのが、くっきり現れていますね(笑)。


これらの結果などを見ても、どういう利上げの根拠があるのか、本当に謎です。でも日銀は、やる気満々なんですよね。本当に不思議です。



金利や物価に関するアンケート結果ですけれども、答えた人たちの思い込みとかバイアスの存在が窺えますね。これはある意味当然かもしれません。これはもうちょっと検討してみたいと思いますので、今はとりあえず放置。後日別な記事に書くことにします。


最後に、日銀の信頼性のことを少し。

「組織や職員に誠実なイメージを持っていないから」という項目が、9月にダントツに多かったのは、明らかに福井総裁の疑惑のせいでしょう。そういうことをやるような日銀総裁ならば、そりゃ信頼なんてできんと思う人たちは出てくるわな。これも当たり前の話なので、日銀の信頼性を地に落とした福井総裁の罪は大きいと思うよ。でも、普通は日銀なんて何やってるか分らんし、興味もないので、人々の関心は直ぐに薄れるということなのだろう。


人々がよく知らないことをいいことに、好きにやっているというのが日銀の政策なのかもしれんね。



池田信夫氏が挑発してる?(ちょっと追加)

2007年01月14日 18時32分21秒 | 俺のそれ
どこへ行った?とか言われていますよ>リフレ派の面々どの


池田先生の有り難いコメントを以下にご紹介致します。

池田信夫 blog ゾンビの経済学

(こちらのコメント欄から引用)


一時ウェブでは、「構造改革はDQNでリフレが正解」という類の議論が流行しました。今でもそれを口真似してコメントしてくる学生がいて閉口しますが、こういう連中はIS-LMまでしか勉強していないのでしょう。

ここ数年行われた「デフレ論争」は、短期と長期の問題のトレードオフという点で、70年代のスタグフレーション論争と似ています。90年代には、企業は貯蓄主体だったので、金融緩和の主な効果は、銀行がゾンビを延命するコストを下げることでした。これは短期的には企業の破綻による経済の収縮を防ぐことができますが、それによって延命されたゾンビは生産的な投資を行わないので、均衡実質利子率が負であるという根本問題は残ってしまいます。

経済が自律的に回復するには、IS曲線を右にシフトさせる必要がありますが、そのために何が必要なのかについては、IS-LM図式は何も語りません。そこでは投資水準を所与としているからです。リフレ派は、金融緩和で時間を稼いでいれば自律的に回復すると信じているようですが、その根拠はどこにもない。15年間にわたる長期の不況を、こうした短期の理論で考えることが誤っているのです。

かつてフリードマンは、短期的なケインズ政策は長期的には期待に織り込まれて意味がなくなり、インフレだけが残ると指摘しましたが、今回の日本の経験もそれに似た「時間非整合性」の問題です。フリードマンの論理を適用すれば、金融緩和が続くとゾンビは救済されることを織り込んで資本効率を上げないので、緩和をやめるとまた需要不足が起こる。それは長期的には、 TFPを低下させる効果しかないのです。

それにしても、かつて「まずデフレを止めなければ景気は回復しない」と叫び、それに賛同しない経済学者を「経済学を知らない」などと罵倒した連中は、どこへ行ったんですかね。まぁ彼らは学説史家とか評論家(翻訳家?)で、マクロ経済学の専門家ではないから、その話がナンセンスなのはしょうがないとしても、自分の無知を棚に上げて他人を罵倒する本を何冊も出したのは見苦しいですね。




ですってーー!!(爆)


うーむむ、ここで「学説史家とか評論家(翻訳家?)で、マクロ経済学の専門家ではない」と具体例を挙げられたのは、ひょっとして、ズバリ(まるお君風)田○秀臣先生&山形浩○氏ではないでしょうか?(下衆の勘繰りですので、違うかもしれません)


罵倒する本を何冊も出したのは見苦しい、ですと。
そうなんですか?何冊も?
いいな、いいな、印税いいな


既に決着がついたかのように思われていましたが、実は、まだ結論が出ていなかった、ということなのでしょうか?経済学というのは、どこまで行っても、同じ構造なんですね。構造改革が必要なのは、経済学そのもののような気がします(笑)。

実際、どうお考えなのでしょうか>多数の経済学者さま


追記:

反応、早!>T中先生
詳しくは、先生のブログへ直行せよ!


池田氏の言う長期の不況ってのは、しかし、??とは思う。少なくとも97年ショック以前と以後では状況が違うだろう(具体的には『デフレ』だ)。金融政策とか、最低限為替介入(結果的には外貨を大量に買うことと同じか)で95年近辺の円高を緩和しておけば状況は違ったかもしれない。97年の消費税率上げも、インパクトが大きかった。

以前記事に書いたが、ITバブル期に脱出チャンスはあった。あそこで間違えていなければ、最悪期を招くことはなかっただろう。だが、ゼロ金利解除を強行した日銀のせいで、脱出チャンスを失ったのである。ご存知の通り、株価は8千円割れまで落ち込み、あらゆる経済指標は最悪となってしまった。ITバブル潰し以降は、政府の政策的な下押し要因によって、「政策デフレ」的な側面が強まった(緊縮財政とか社会保障費削減とか)。あれだけ落ちれば、後は上がるしかないので、どんな状況下(デフレ)であっても、あれよりも悪くなるということは考え難いんじゃないか。もしも、あれより悪くなる一方であれば、日本経済は本当に破綻して恐慌と同じになっていたであろう。


大きな傷を負っても、ある程度は自力で(=手術しなくても)再生・回復は起こるようなもんだ。日銀は、再生組織は「酸素需要もエネルギー消費も多すぎる」とかトンデモないことを言って、「血液ジャブジャブは止めねばならない」という間違えた判断をして、血行を次々と遮断するようなもんだ。再生組織は血管もたくさん再生されるし、血液供給も多くなるに決まってるのにね。そうじゃなけりゃ、新生組織は再生されないよね。ガン組織ならば「血行を遮断」することもあるだろう。そうじゃないのに、血液を絞れ・血流を止めろ、というのは、間違ってるとしか思えんね。



日銀に利上げの根拠を問う

2007年01月14日 17時48分07秒 | 経済関連
またしても、日銀は利上げに踏み切る算段ようだ。本物の「ヤブ」ってのがいることの証明である。同時に、専門家という人々が必ずしも正しい判断をする訳ではなく、全く当てにならないことをも示している。何故、これ程までに無能なのであろうか?基本的に、「金利の決定権限」という究極アイテムを手に入れたいだけの、冒険の目的を完全に忘れたRPGプレイヤーのようである。


喩えがヘン?・・・・ええ、そうですね。じゃ、もうちょっと、書きますか。
要するに、自分の一番好きなアイテムで、例えば「~のマント」みたいなのをどうしても手に入れたい人がいるとしますか。ゲーム本来の目的は、悪いボスを倒して人類の幸せと平和を取り戻すことなのに、オカシナ信条というかヘンな信念を持ち続けているので、最終的な目的を達成する為に行動するのではなく、「~のマント」をひたすら求めてしまって、目的を間違えたままプレイしてしまう、ということですね。日銀は、物価の安定が最終目標なのではなくて、それを通じて国民生活・経済の安定を図り、人々の幸福に寄与することだろうと思います。なのに、日銀が取り得る政策手段としての「金利(幅)」を少しでも回復しようとしているだけなのです。自分の一番大好きな”アイテム”を、何とかしてゲットしたいだけなのですよ。そういう愚かさに未だに気付いていないのです。本当に呆れてしまいます。


<ちょっと寄り道:
先日NHKの『プロフェッショナル』を観ました(ボツネタさんもちょっと書いてましたね)。再生専門の弁護士さんが登場していましたが、とても良い内容で感動しました。ウチの子の年齢が丁度同じくらいなので、弁護士さんのお気持ちはお察ししました。その弁護士さんは、「何としても護る、という気持ちが大事なんだ」というようなことをお話されていて、立派な方だな、と思いました。でも、日銀には、この「何としても護る」という考えなど、これっぽっちもないのです。国民生活を「護る」ことなど、初めから眼中にないのですよ。本当に爪の垢でも・・・>


日銀は好調な企業収益が家計にも波及して消費拡大は見込めるし、経済の拡大は続く、という楽観的な見通しを言ってる訳です。でも、現実はどうなのさ、というと、必ずしもそういった傾向が明らかになっているわけではないんですよね。家計に波及しているのであれば、昨年から継続して景気拡大期なのですから、給料は明確に上昇し、消費額も拡大し、小売も昨年よりも伸びるはずなんですね。05年末には「ボーナスはバブル期と同じ水準」とか、賃金上昇が見込めるとか、あれ程楽観的な見通しを並べていたではありませんか。インフレになってしまうんだ、だから早い時期に利上げが必要なんだとか強弁して、みんなが「待て」と言ってるのを振り切って、量的緩和解除+利上げに踏み切ったんじゃないですか。


すると、どうでしょう?日本経済はどうなった?
CPI は年率でほぼゼロ近辺(せいぜい0.2~0.3%くらい?)、経済成長率は相次ぐ下方修正、消費は停滞、CPI はマイナス寸前、という、日銀の見通しとは全く違う結果をもたらしたんじゃないですか。日銀の掲げていた実質成長率は2.4%くらいは行ける、とかいう判断はどうなった?これも未達でしょ?オイオイ、日銀は、どっからそんな強気が出てくるの?基準変更に伴うテクニカルな要因とか、そういう理由はあるとしても、それを見越して判断できなきゃ、「ヤブ」間違いなしなんじゃないの?


仮に、ある検査の指標があって、測定値に検査機器ごとに誤差範囲がある場合、事前にバイアスの存在を見越して効果判定を行うのはごく当たり前の話だろうと思うが。血圧の高い人に降圧剤を投与するとして、薬剤Aを10mg投与で安定的な状態だったが、最近血圧が高めになってきたので薬剤を増量して15mgに変更したとしよう。ところが、測定機器が最新型に変更になり、実際測ってみると、あまり高くなっていなかったということもあるわけです。「高くなってる」と思い込んでAを増量したのに、それが測定機器の誤差でしかなければ、薬剤Aの増量は逆に過量投与となって血圧を下げ過ぎる結果をもたらし、「下げ過ぎ」の弊害・副作用の方が問題になるに決まっています。こういうのをヤブと言うんですよ。Aを増量して今よりも血圧を下げることを考える時、下げないで放置した場合のリスクと、下げ過ぎによるリスクの両方を考えるに決まっているでしょ。しかも、「測定誤差がどのような形で出てくるか」ということも、当然増量する前に考えておくべきことでしょう。血圧が下がり過ぎてから、「ありゃりゃ、下げ過ぎました」じゃ、論外でしょうが。日銀というのは、たとえどのような失敗を重ねても、裁判で訴えられたり、賠償金を求められたり、罰を与えられることがないので、いいよね。失敗しても責任を負うことがないんですから。


何で1月に利上げするのか、真意が全く分らん。おまけに、民間エコノミストたちの答えってのも、アレだな。本当に、日銀との「内部的なつながり」「情報リーク」みたいなのが、常態化しているんじゃないのか?「市場が織り込んでいるから」っていうのは、予断を与えるようにインサイダー情報として流しているんじゃないのか?市場との対話云々とか言ってるが、それは総裁発言とか講演会内容とか、そういった「公表された情報」ではなくて、個別に漏れる情報を掴んでいるんじゃないの?


NIKKEI NET:経済 ニュース

(記事より一部引用)

内閣府の外郭団体、経済企画協会は12日、36人の民間エコノミストの経済予測を集計した1月の「ESPフォーキャスト調査」を発表した。日銀の追加利上げ時期について、1月を予想する人が昨年12月調査の12人から7人増の19人と、35人の回答者の過半数を占めた。ほかの時期では2月が7人、3月が3人、4月が2人だった。

 2006年度の経済成長率予想の平均値は昨年7―9月期の国内総生産(GDP)改定の下方修正を受け、実質で1.89%、名目1.31%と前月調査からそれぞれ0.51ポイント、0.48ポイント下方修正された。

 06年度の消費者物価指数(生鮮食品を除く総合)上昇率の予測平均は前年同月比0.2%で、前月時点の予測を0.01ポイント下回った。




それから、こちらの記事も。

〔焦点〕日銀は月内利上げ視野に最終調整、CPI動向判断がカギ Markets NewsReuterscojp

(一部引用)

ロイターの取材によると、1月利上げに踏み切ってもいいのではないかとの意見は、決定会合のメンバーである審議委員の多数を占めている。総裁・副総裁の3人が利上げの判断を固めれば、政策委員会の大半が利上げに賛成する展開が予想される。

 昨年12月の決定会合では、消費がなお弱いとして日銀は追加利上げを見送った。これについて日銀の複数の幹部は、夏場の消費落ち込みは一時的な現象と確認できたとし、「10月展望リポートで示したとおり、企業部門がエンジンとなってやや弱めの家計部門にもいずれ徐々に波及していくとの基本シナリオに狂いはないことが確認できた」という認識を示している。

 昨年10月の展望リポートで示した06年度の国内総生産(GDP)とCPIの見通しは、下振れがほぼ確実になっている。これについて日銀では、GDPの下振れは05年度からのゲタ(成長率算定の基準)が低くなったという技術的な側面が背景にあり、CPIは原油価格と家賃の低下が主な理由と判断。景気拡大とともに物価が緩やかに上昇していくという基本的なシナリオは維持されているとみている。また「市場の1月利上げへの織り込みもかなり進んでいる以上、やらないことの方が不安定要因となる」との指摘も日銀内にはある。




特に、これ→『「市場の1月利上げへの織り込みもかなり進んでいる以上、やらないことの方が不安定要因となる」との指摘も日銀内にはある。』

ハアぁ~??


やらないことが不安定要因って、日銀は3月に量的緩和解除、7月利上げ、というのを、その半年以上前から「市場に織り込ませた」結果、長・短金利の乱高下+為替変動を招いただけで終わったじゃないか。06年の年頭から、金利先高感を醸成させたが、預金金利なんかの上げ効果よりも、ローン金利の上昇とか、住宅ローン金利の度重なる変更(上げて、やっぱり戻して、みたいな)とか、長期プライムレートの変動を招いただけだろ。要するに、市場は騙されたようなもので、思ってたよりも「(長期)金利上昇速度」は遅かったし、景気のモメンタムも「鉄板」みたいな底固さはなくて、ふにゃっとイマイチだったのでしょ?「景気がいい」と言う割りには、そうでもないな、とバレたのでしょ。「やらないことの不安定要因」じゃなく、”やったから”こそ「乱高下」だったとしか思えないのですけど。


この期に及んで、まだ「1月に利上げ」とか言ってる日銀は、本当にオカシイですよ。
一体、どこを見てるのか?

☆☆福井総裁の置き土産、とか、絶対に止めてくれ。
庶民の本音を言えば、「即刻辞めてくれ」、だよ。



利上げとは関係ないですが、以前にも書いたように、人間の血液というのは、かなりの余裕があります。それは多少の変動なんかで酸素供給が追いつかなくなるということがないように、セーフティ・マージンが設定されている、ということなんですよ。赤血球は酸素分子4個と結合できることになっており、もしも赤血球が減少(たとえば出血や貧血とか)しても、ある程度までは酸素供給は行うことができます。

指標としてはHbなんかが用いられたりします。この数値が通常10~12(mg/dl )とかあるけれど(男女で結構違う)、酸素分圧だけ考えれば(浸透圧など他の影響もあるので一概には言えないが)4~5程度でも、生きていることは不可能ではありません(普通はそんなに低下する前に輸血すると思います)。正常な状態でならば、赤血球はフル回転しなくてもいいようにできているのです。酸素運搬能だけ考えた時の理論値よりも、「はるかに多い量」が正常量になっているのです。それは、緊急時の酸素需要にも対応できるように普段から準備されている、ということでもあります。日銀がやっている、マネーサプライを絞り、利上げしていくというのは、血液供給を止めて、今ある赤血球だけで酸素運搬能を発揮させよう(最大運搬能に近づけよう=赤血球1個当たりの運搬効率は上がる)、ということですが、元々が弱っていた(=デフレ、景気悪かった)体なのに、直ぐには難しいとしか思えないですけどね。真のヤブは、普通の感覚さえも持ち合わせていない為に、何もしないよりももっと悪い結果しかもたらさないのですよ。止めて欲しい、本当に。
レッセ・フェールでお願いしますっ!!(笑)



事務所費って何だろうか?

2007年01月12日 21時41分46秒 | 法関係
世の中には、自分の都合のいいように法律の条文を読み替えたり、適用したりできる人種というのが存在します。一般人ならば、お役所とかお役人の言い分に「そりゃ違うんじゃないか?」などと思ったりしながらも、従わざるを得ない、というのが世の常ではないかと思います(笑)。それは権力によって、逆らえないというような構図が出来ているからですよね。金融庁の銀行検査とか、そういうのでも同じようなものではないでしょうか?たとえ解釈の違いだとしても、法律の条文通りにやってなければ、刑事罰を問われることが有り得るのです。


ホリエモンの虚偽記載というのも、似たような面がありますね。意図はなかった、そんな解釈であるとは知らなかった、グレーゾーンであっても違法であるとは思わなかった、色々と理由はあるにせよ、民間人であれば「厳罰」というのを食らってしまう可能性はあるのです。


では、政治家の場合ですと、どうなのでしょうか?権力の座にあるものたちが、同じように責任を追及されたりすることがあるでしょうか?まあ、会見での口ぶりから見て、かなりのアレだなと思ったね。政治家としては、やはりああいう態度で対応するのが本物だね。


「馬鹿なことを言っちゃいかんよ、キミ。ワシを誰だと思っているんだ」みたいな、漫画の世界でしか登場しない「悪い政治家像」というのがあるわけですが、ついついそれを思い浮かべてしまいました。テレビの「水戸黄門」で、もしも悪代官と悪徳商人と暴力的な手下どもが倒すべき相手の時、水戸黄門が存在せずに本当の単なる「越後のちりめん問屋」のオッサンしかいなければ、間違いなく勝てないと思うが、どうだろう。「悪を暴くんだ」とか意気込んでも、助さん角さんや矢七もいなけりゃ由美かおる(笑)もいないので、手下に殺されると思う。運良く手下たちからは逃げおおせて、悪代官がどれ程悪いことをやっていたかを別なお役所に訴え出ても、悪代官が「ワシは何も悪くない。お前こそワシを陥れる為によからぬことを謀ったのであろう」とか言って、否定するのは間違いないのだ。悪代官の証言を覆し尚且つ自分の方を信じてもらえなければならないのですよ。悪代官といえども、社会的地位や権力は上なのですから、多くは勝てないのだろうな、と思うな。やっぱり、水戸黄門のような、「圧倒的権力」や「絶対に負けない武力」なんかを持っていることが条件になり、普通の人々には持ち得ない種類の権力なのですよね。


寄り道が長くなってしまいましたが、事務所費について考えることにします(あくまで個人的見解です)。


そもそも政治資金規正法での想定は、全くの別であったと思われます。まず、元の条文を見てみます。ちょっと長いので、途中省略します。


第十二条

政治団体の会計責任者(報告書の記載に係る部分に限り、会計責任者の職務を補佐する者を含む。)は、毎年十二月三十一日現在で、当該政治団体に係るその年における収入、支出その他の事項で次に掲げるもの(これらの事項がないときは、その旨)を記載した報告書を、その日の翌日から三月以内(その間に衆議院議員の総選挙又は参議院議員の通常選挙の公示の日から選挙の期日までの期間がかかる場合には、四月以内)に、第六条第一項各号の区分に応じ当該各号に掲げる都道府県の選挙管理委員会又は総務大臣に提出しなければならない。

一  すべての収入について、その総額及び総務省令で定める項目別の金額並びに次に掲げる事項
イ 中略

二  すべての支出について、その総額及び総務省令で定める項目別の金額並びに人件費、光熱水費その他の総務省令で定める経費以外の経費の支出(一件当たりの金額(数回にわたつてされたときは、その合計金額)が五万円以上のものに限る。)について、その支出を受けた者の氏名及び住所並びに当該支出の目的、金額及び年月日



このように、第12条第1項第2号で、全ての支出について
①総額
②総務省令で定める項目別の金額
③総務省令で定める経費以外の経費支出

というのを報告することが決められています。

ここで、③については1件当たり金額が5万円以上のものについてだけでよいことになっています。受取者の住所と氏名、目的、金額、年月日を全て書かねばならないのですね。5万円未満であれば、総務省令で定める経費以外の経費として総額だけ記載すればよい、ということだと思います(提出書類の書式に従う―何号様式という―ものになるかと思われます)。報道されているのは、②の部分の開示資料ではないかと思われます。

では、総務省令に定める項目とか経費というのは、何か、というのを見てみると、次のようなものでした。


政治資金規正法施行規則

第七条
法第十二条第一項第一号 に規定する総務省令で定める項目は、個人が負担する党費又は会費、寄附(法第五条第二項 の規定により寄附とみなされるものを含む。以下同じ。)機関紙誌の発行その他の事業による収入、借入金、本部又は支部から供与された交付金に係る収入及びその他の収入とする。

2  法第十二条第一項第二号 及び法第十八条第三項第二号 に規定する総務省令で定める項目は、人件費、光熱水費、備品・消耗品費、事務所費、組織活動費、選挙関係費、機関紙誌の発行その他の事業費、調査研究費、寄附・交付金及びその他の経費とする。


第八条
法第十二条第一項第二号 に規定する総務省令で定める経費は、人件費、光熱水費、備品・消耗品費及び事務所費とする。




項目別ですが、見ての通り、人件費、光熱水費、備品・消耗品費、組織活動費、選挙関係費、機関紙誌発行その他の事業費、調査研究費というのは明確に区分されています。事務所費というのは、普通の考え方をすれば、「土地・建物」的な物体としての事務所を維持運営するに当たり必要な経費であるとしか思えませんね。交通費だとか、活動報告とか、そういったものは全くの別な項目であろうと思いますね。議員本人が明確に知らないとしても(=間違えた解釈をしていたとしても)、会計責任者が間違えずに正しく出来ていれば問題ないのでしょうけどね。


で、人件費、光熱水費、備品・消耗品費、事務所費以外の経費支出については、5万円以上であれば、払った相手先(受取者)の住所、氏名、目的、金額、年月日とか、領収書添付が必要になる、ということです。つまり、「事務所費」というのは、こうした面倒からは外されている、ということなんですよね。それ故、小細工はしやすく、隠蔽にも使われやすい、ということなんでしょうか(笑)。


繰り返しになりますが、第7条の項目区分を見れば、どこからどう見たって事務所という物体を維持する為に必要な経費であるとしか考えられず、切手購入代金というのは本来的にはちょっと疑問に思えたりするわけですが、まあ総務省見解では妥当である、ということなのでしょう。


総務省見解としては、国会答弁で、次のものを事務所費として示しているようです。

『事務所の借地損料、地代、家賃、公租公課、火災保険金等の各種保険金、電話使用料、切手購入費、修繕料その他これらに類する経費で事務所の維持に通常必要とされるものをいう』


で、年間5千万円使うとして、複数事務所の家賃や償却資産税、火災保険料なんかがかかるであろう、というのは分る。電話代や修繕費も分る。でもね、火災保険料がべら棒に高いとも思えんよね?電話代で毎月10万円使っても、年間120万円しかならない。家賃と併せてザッと2000万円だとしても、3000万円は何に使ったんでしょうか?ということだわな。切手代?(爆)だよね。→良かったね、郵政公社


誰かさんだったか、切手代が200万円くらいはある、とか答えてたような記憶があるのだけれど、それっぽっちじゃダメなんじゃないの?


支援者に毎月報告書を郵送するとして、1人当たり年額80×12=960円、支援者1万人で、960万円の切手代ということになりますね。そうでしたか。切手シートを何枚くらい買うのでしょうね、毎月。貼る作業も大変だろうな~(爆)毎月1万枚とか貼るのだから。そもそも、こんなに大量なのであれば、別納とかだろうけど。大量発送の郵便物に切手が貼られているのを見たことはないですけどね。


毎年、2000万円とか3000万円とか何に余分に使ったのか?他に組織活動費や事業費があるにも関わらず、ですからね。適当に「政治活動にはお金が色々とかかるんだ」とか言っておけば、どうせ何も知らないバカな庶民なんかは何も言えないはずだ、とか思っているのかもしれないですね。


政治団体が一つであっても、事務所は一つじゃないということはあると思うので、言ってみれば連結決算みたいに全部を合算していることはあるのでしょう。それは分るけれども、事務所費中で最大であると思われる地代家賃等よりもそんなに多くかかる経費というのは、一体何なのでしょうね?謎なわけです。


ここで、あることをお知らせしたいと思います。ただ、野党が喜んでしまうかもしれないな・・・・


政治資金規正法に従って、みなさん「正しく書いたんだ」ということを信じてあげることにしましょうよ。彼らが一様に、「恥ずべきことなんか一切ない」とか言ってるんですから、それを信じてあげることにしましょうよ。「後ろめたいこと」は、全くないそうですから。


そこで、「じゃあ、帳簿見せてくれ」って言えばいいんですよ。だって、何も悪い事もしてないし、後ろ暗いこともないわけでしょう?ならば、正々堂々と帳簿を見せることはできますよね?それを証拠として提出し疑念を振り払えば、即、あらぬ疑いをかけていた人たちを見返せますよ?どうです?できないなんてことはないですよね?


帳簿の数字を足していけば、必ず数千万円が何に使われたか判明するでしょう。これがですね、領収書の有無には無関係なんですよ、帳簿ってのは(笑)。事務所費の中身は報告義務はないですし、5万円ルールも生きていますから、総務省に提出された資料だけでは中身が判らないように出来ているのですけど(公開されるのは報告書の要旨だけ、他は閲覧ならば可能、それでも全部じゃないけど)、元となった帳簿ならば全て書かれているはずです。この帳簿というのは、結構役立つのですよ。


<ところで、閲覧というのは、書き写したり、写真撮ったりしてもいいのでしょうか?昔は携帯にカメラ付いてるなんてことが想定できなかったので、「公開情報」と言いながらも実際に総務省まで行って、そこでしか見れない資料なんてのは、殆ど公開されてないも同然ですよね。でも、今なら写真撮れば一発だもんね。昔は、なるべく人目に触れないように、嫌がらせのような閲覧ルールを作って、「公開してるじゃないか」というアリバイ作りと、よっぽど詳しいとか熱心な人しか見に来れない、という情報封じの両方を狙っていたんじゃないでしょうか?(勘繰り過ぎ?、笑)政治資金規正法の改正が昨年行われたばかりで、早くもまた改正を検討?って、一体全体昨年に何を検討し何を変えたのか、と思うわな。そん時、何で検討しなかったのですかね、と。>


政治資金規正法には次のように規定されています。


第九条
政治団体の会計責任者(会計責任者に事故があり、又は会計責任者が欠けた場合にあつては、その職務を行うべき者。第十五条を除き、以下同じ。)(会計帳簿の記載に係る部分に限り、会計責任者の職務を補佐する者を含む。)は、会計帳簿を備え、これに当該政治団体に係る次に掲げる事項を記載しなければならない。

一  すべての収入及びこれに関する次に掲げる事項
(中略)

二  すべての支出(当該政治団体のためにその代表者又は会計責任者と意思を通じてされた支出を含む。以下この条、第十二条及び第十七条において同じ。)並びに支出を受けた者の氏名及び住所(支出を受けた者が団体である場合には、その名称及び主たる事務所の所在地。次条第一項及び第十二条第一項第二号において同じ。)並びにその支出の目的、金額及び年月日



こうなっているんですよ。総務省への報告義務はなくても、帳簿の記載は義務なのですよ。


で、この帳簿は政治資金規正法施行規則の規定で、


第六条

法第九条第一項 に規定する会計帳簿の種類は、次のとおりとし、その様式及び記載要領は、別記第六号様式に定めるところによる。
一  収入簿
二  支出簿
三  運用簿




となっていて、帳簿は決められた様式になっているのです。なので、これを見せてくれ、と言えば、一発ですよ。見せられない理由はないですよね?


しかも、9条違反は罰則があるんですよ(第24条)。虚偽報告も、不備も、いずれも罰則適用です。


あと、会計責任者が勝手にやったんだ、とかいう言い逃れも、必ずしも議員が助かるとは限らないということは言っておきましょう。それは、次の条文に書いてありました。


第二十五条
次の各号の一に該当する者は、五年以下の禁錮又は百万円以下の罰金に処する。

一  第十二条又は第十七条の規定に違反して報告書又はこれに併せて提出すべき書面の提出をしなかつた者
二  第十二条、第十七条、第十八条第三項又は第十九条の五の規定に違反して第十二条第一項若しくは第十七条第一項の報告書又はこれに併せて提出すべき書面に記載すべき事項の記載をしなかつた者
三  第十二条第一項若しくは第十七条第一項の報告書又はこれに併せて提出すべき書面に虚偽の記入をした者

2  前項の場合(第十七条の規定に係る違反の場合を除く。)において、政治団体の代表者が当該政治団体の会計責任者の選任及び監督について相当の注意を怠つたときは、五十万円以下の罰金に処する。




ここで言う政治団体代表者とは、議員本人であることが多いでしょう。で、会計責任者の選任及び監督について、相当の注意を怠っていれば罰金刑ということですよね。大した罰ではないですが、それでも一応罰則適用になりますので、議員本人の責任を問われる場合はあるでしょうね。


いずれにしても、元になっているはずの「支出簿」を証拠として提出せよ、という要求が最も有効でしょう。もう紛失してどこに行ったか分らないとか、よくありがちな手ですけれど、こういう紛失劇も「間違いなくクロ」という証拠でしょうね。なので、この言い訳は使われないと思いますよ。偶然にも帳簿が消えうせるなんてことは、まず有り得ないでしょうな。


帳簿を見せられない―という頑なな拒否であるとすれば、それもやっぱり「クロ」判定間違いなし、ですね。法定の帳簿を見せられないはずはないんですよ。奥の手としては、総務省は調査権限がある程度あるので、総務省に多少はやらせることはできますね。故橋本元総理の一件で、平成研の残高がメチャクチャだったので、総務省が直せと言ったはずですよね。


第三十一条
総務大臣又は都道府県の選挙管理委員会は、この法律の規定により提出された届出書類、報告書若しくはこれに添付し、若しくは併せて提出すべき書面(以下この条において「報告書等」という。)に形式上の不備があり、又はこれらに記載すべき事項の記載が不十分であると認めるときは、当該報告書等を提出した者に対して、説明を求め、又は当該報告書等の訂正を命ずることができる。




法律には、こうやって書いてあるんですよ、一応。でも、本当に適用したりするでしょうか?そんな勇気が総務大臣にあるのか?


日本の政治は、果たして良くなっているというか、進歩しているのでしょうか?
どうなんでしょうね。



流行語「plutoed」と日本の「plutocracy」

2007年01月12日 14時11分38秒 | 政治って?
米国の流行語大賞みたいな賞(Word of the year)で、「plutoed」が選ばれたそうだ。


冥王星が「ワード・オブ・ザ・イヤー」と「ネーム・オブ・ザ・イヤー」を獲得

(以下に一部引用)
米国方言学会(American Dialect Society)が毎年行っている「ワード・オブ・ザ・イヤー」に、Pluto(冥王星)という言葉を他動詞として使う「Plutoed」が選ばれた。「Plutoed(※)」は「降格」や「ものや人の価値を低く評価する」という意味で使われ、昨年採択された新惑星定義から冥王星が惑星から外されたことに由来している。




格下げされた冥王星から転じて、「降格される」というような意味で使われるというのも面白い(笑)。流行語大賞みたいなのがあるというのも、初めて知ったよ。


ギャグ風で言えば、こんな感じ??

「一応仕事やってるけど、オレって、クリエイターだから」
「欧米かっ!!」 (→既に違う?)

「オマエもいよいよ地方に飛ばされるな」
「冥王星かっ!!」

(ちょっと違うね。ゴメン。作り過ぎました・・・)


まあ、「plutoedされる」の意味というか気持ちは、十分伝わってきますね。


ところで、日本では、辞任した佐田大臣の「お沙汰」を待つ身も辛いでしょうが、現在ボヤってる閣僚や有力議員たちの身にも、火の手が回ってきているようです。ツッコミどころ満載の、政府自民党の大チョンボを一気に叩いてやろうと、野党は手ぐすね引いて待っているでしょう。国会開始を一日千秋の思いで、首を長~~くしていることでしょう(笑)。


安倍総理のチャンスというか、試される場面はまだあります。「施政方針演説」でどれくらいアピールできるか、ということが大事になってくるでしょう。ここで目標を明確にでき、国民に気持ちが十分伝われば、挽回できる可能性はあると思います。メディア的には、或いは野党からは、どんな内容であっても、何をどのように言っても批判しか出ないと思うけれど(笑)、大衆には割りと影響するかもしれません。焦点を絞る、本当に言いたいことは繰り返し言う、などの工夫をした方がよく、全体的にあまりに盛りだくさんだと、一回限りしか聞かない人々にとっては殆ど理解が難しく、何も記憶してもらえないことが多いかもしれません。小泉総理の場合の「郵政民営化」は、かなりしつこく繰り返していたように思いますが、あれも賛否あるにせよ、「効果」だけ考えると有効な方法であると言えると思います。


この施政方針演説である程度の大衆支持の手ごたえが掴めれば、野党の攻撃を何とか乗り切れる可能性は出てくると思いますが、いまいち支持が広がらなければ、スキャンダルの防戦一方になってしまうでしょう。かつての森総理状態になってしまいかねない、と。そうなれば、政治的な実績を残すことは難しくなり、それは同時に安倍総理や内閣の評価が大きく下がる結果となるでしょう。



日本の政治というのは、未だに金権政治的な側面があるようで、こうした金権政治は前の記事の「Physiocracy」との繋がりで言えば(ただの偶然だが、タイムリーな言葉だったな・・・)、「plutocracy」というのだそうですよ。惑星の冥王星ばかりではなく、金権政治を未だに続ける政治家こそ、「plutoed」されるべきなんじゃないでしょうか(笑)。


本当に「戦うべき相手」とは、無知蒙昧な大衆なんかじゃない。
裏も表も知り尽くした、政治に巣食う「plutocrats」だ。



重農主義に学ぶ

2007年01月11日 21時29分43秒 | 俺のそれ
この前の記事の続きです。

ここを読まないと、よく判らないと思いますので、まず読んでみて下さい。

重農主義者たち Physiocrats

啓蒙主義経済 Enlightenment Economics


ケネーの『経済表』の基本的原理は、現在のマクロ経済の説明に驚くほどよく似ている(素人目だからなのかもしれないが、笑)。この時代にあった発想は今でも生きている、ということだと思う。古い時代の人々の業績を調べたり学んだりしながら、時代を超えて同じ対象について考えるということが行われるので、そのことに特別な意味があるのかもしれない。同じ情報に接するというのにも関わらず、解釈や意味付けなんかが異なる、ということなんだろう。


話が逸れたが、まず重農主義の一番オカシイ所は、一言で言えば、何かの宗教じみたところなのだろう。元々経済理論には違いないのであるが、それに留まらず、何かの思想かぶれというか、行き過ぎた自然信仰・「森羅万象の法則」的な神秘性を求めたことなのではないか。ケネーがそれを意図していたかどうかは別として(よく判らん)、少なくとも重農主義者たちには、ヘンな方向に行ってる傾向はあったようである。ニセ科学とか、「スピリチュアル何とかなんとか」とか、新興宗教とか、そういったものとの共通性があるかもしれない。例えば、「ロハス」みたいなのと近いような気がする。


ロハスの場合だと、重農主義で言う「自然」というよりも、「(自然)環境」「(自然な身体としての)健康」という意味だろうと思うけど、要するに「自然なもの」みたいなのに重要な価値を見出すという点で、同じ精神性を見る気がするのである。社会的に地位が高い、収入水準も、知識・教育水準も高い、そういう人たちが特にロハス支持者となっていることも、重農主義者たちとよく似ている。まあロハスのことは本題でないので別にいいのだが(勿論「ロハス」を批判したいわけではありません。例:牛肉ステーキを喰っていながら地球がどうとか健康云々もないだろ、アホか、みたいな)、重農主義の場合には、「自然の摂理」「宇宙の法則」「自然秩序」みたいな「真理的なもの」を根本原則に置いているということだ。それが最も美しい(望ましい)、と。ケネーのような外科医の人の発想だと、多分に「審美性」というのが判断に大きく影響していたのではないかと思っているが、どうだろうか?今までに、ケネーに関する研究で、そうした観点は述べられていたかどうかは分らない。


何故「Physiocracy」であったのか、ということへのヒントにはなるのではなかろうか?(もの凄く勝手な私的評価ですので、よろしくです)

参考までに、生理学というのは physiology と表される。語源的にはギリシャ語の「physis」ということで、自然とか起源を意味する。ラテン語でも同じく、自然や成長を意味する言葉である。そこからラテン語の「physiologia」すなわち、自然に対する知識や自然哲学、生理学を意味する用語が生まれた。元になったギリシャ語の「physis」を辿れば、ソクラテスの教えにまで遡ることになる。「economics」の語源となった「oikos」と「nomos」であるが、この「nomos」(法秩序)に対する考え方として「physis」(自然)があった。

重農主義者たちは「economistes」と呼ばれていたようであるが、考え方は真っ向から対立するものであったろう。それは「nomos」ではなく、「physis」に絶対性を求めていたからだ。それ故、「Physiocracy」と名づけたのは、当然のことのようでもある。その昔、ソフィストたちが盛んに主張していたノモスではなく、ソクラテス的な考え方を踏襲することを選んだのであろう。それをあたかも宗教のように、強く信じた人々がいたのではないかと思う。それは自然科学の進歩のせいでもあったかもしれない。自然界に密かに横たわる様々な法則は、余りにうまくできていると感じても不思議はない。まさしく神が、精妙な設計に基づいて構築したかのような「完璧な世界」であるとさえ感じるからだろう。もしも自然科学的な知識が全くなければ、自然界に対して「あまりに出来過ぎ」といった感覚は持たないかもしれない。


ケネー自身がこうしたある種の宗教的な、強い信じ方・態度をしていたかどうかは分らない(他の重農主義者たちは、あたかも入信者たちのように信じたのであろうが)。けれども、ケネーは外科医として「人体」についての「美しさ」を十分知ることになったであろうから、そこに「神の造形」的な神秘を感じていたかもしれない。私の個人的感覚であるが、大体の造形物には似た部分がある。それは、建築物であったり、工業デザインであったり、色々あるが、機能的に優れたものというのは、美しい形態・形状をしているものなのである。それは自然界に存在するものも同じで、人体の筋肉の走行とか、植物の花弁であるとか、昆虫の体の一部とか、色々とあるだろうが、どのような人工物よりも機能的に優れていて、特有の「美しさ」があるのだ。優れた外科医というのは多分「審美性」に対する鋭敏な感覚を持っていて、手術においても「美しさ」が重要なのであり、それは力量の証明でもあるだろう。ダメな手術というのは、基本的に美しくないものなのである。健康な人体というのは、必ず美しさを兼ね備えたものなのである。そうした感覚があるとすれば、「physis」を判断基準とするソクラテスの発想に共鳴するのは、ごく自然(笑)なのではなかろうか。『経済表』のように数字で示せるということも、「美しい説明」だろうと思う。数学者が、極めてシンプルな数式に美しさを感じるのと似ているのではないか。


「Physiocracy」という言葉であるが、「Democracy」や「Bureaucracy」のような語と成立としては同じではないだろうか。つまり、cracyの元々の意味は支配とか階級なんだけれども、「自然(法則)主義」というような意味ではなかろうか、と。なので、「重農主義」という訳語を与えた理由は分らないが、原語としての本来の意味は「physis」を根本基準に据えた主義とその支持一派ということなのではないかと思う。ここで言う「自然」という意味についても、「いい加減」「なりゆき」「ランダム」「無秩序」というような意図ではなく、むしろ「物理化学的法則」のような、自然科学のルールをイメージさせる。「自然の(中に隠れている)法則」というのは、決して無秩序な状態を指すのではなくて、「どのようなルール」なのか正確には記述できない(=今は判らない)が、人体のように、「何らかのルール、仕組み」によって「保たれている」「成長する」という意味だったのではないか。神秘性とか宗教性といった意図よりも、かなり科学的な方向性を指向していたのではないかと思うが、こんな解釈は大間違いである可能性が高いので要注意(笑)。きっとケネーの考えを聞いた人々の中から、所謂「狂信者」的な人々が登場してきたんじゃないかと思う。だって、あまりに画期的だったのでしょ?ケネーの説明が。


これと、現在辞書などに載っている「自然主義」と、どのような関係になっているか、というのは全く判らない。


「ノモス」への強い反発が、当時にはよくあったのかもしれない。人間の作った法や慣習というのは、きっと多くの間違いを含んでいる、だから「余計な手出しを、一切しない方がいい」と。これこそ、「レッセ・フェール」(laissez-faire)なのだ。しかも自然状態の達成とは、今で言う「均衡」のこととほぼ同じではないかと思うが、どうなのだろうか?商業と工業を合わせたクラスでは富の変化はないのであり、これも「費用と収益が一致する」ということと似ている。


「金利は価格であり、余計な規制はするな」というのも、よく似ていると思う。金利は需給の均衡で「自然に決まる」のであり、政府が人為的に作る「ルール」や「規制」はよくない、という主張と同じようなものなんじゃなかろうか。レッセ・フェールにも一理ある、と思うだろう、こう聞けば。レッセ・フェールが一番いいんだよ、と。


更に、「規制緩和」と似通った政策を求めたのも、重農主義の面白いところだ。

『かれらは国内取引と労働移動に関する規制廃止、賦役廃止、国営独占企業や交易特権の廃止、ギルド方式の解体などを訴えた。』と書かれているように、現代の日本でも共通する部分があるように思える。他にも政府主導の産業政策みたいなのについて、余計なことはせずに「放置しといてくれ」というのも、ドンピシャであろう。まるで、ケネーなどの重農主義者たちが、現代に生きていたかのようなことを言っているようだ。


「自然な状態が一番いい」という重農主義の価値観は、現代でも十分通用しているように思える。そして、形を変えて似たような主張をしている人たちが存在するのである。重農主義ほどの一貫性(?)はないかもしれないが。政府の政策がほぼ無駄(不必要)であるという時、財政政策や金融政策の必要性とか正当性は残されるのであろうか?経済というものは「レッセ・フェール」である時、最も望ましい状態(自然な状態=均衡?)が達成される、ということであるなら、本来的に「何もしない」ことがベストなのではないか?そうであるなら、金融・財政政策の存在意義とは何であろうか?という疑問はどうしても拭えない。


人体であれば、基本的にはホメオスタシスがあり、それを支える為の極めて複雑な組織・機能がある。維持装置関連の仕組み自体が、完全に記述できないくらい「複雑」なのである。では、経済活動はどうなのだろうか?そこまでの複雑性はあるだろうか?自然の状態で、人間ならば例えばオートレギュレーションの機構があったりするが、経済活動にはそれに類する機構は備わっているのであろうか?ビルトインスタビライザーは聞いたことがあるが、他にも色々とあるのだろうか?「何もしなくとも、自動的に均衡状態に至る」という機能があるのであれば、経済政策は必要ないかもしれない。それとも、現実世界の中では何かの影響があって、実際には均衡に向かえない何かの障壁が存在するのだろうか?ある部分にはレッセ・フェールが望ましい、としながら、他の部分には経済政策を必要とするのは何故なのだろう。それは経済というものが、人工物だからだろうか?部分も全体も、連続性がある(ように見える)のに?


何だかよく判らない。



自分の印象としては、ケネーとか重農主義者たちは、中々素晴らしいと思ったね。言ってることも、そんなに酷くないですよ。この程度ならば、現代のエコノミストであっても重農主義者以下、というレベルの人たちは普通に存在しているように思えるけど(笑)。



無心するのは・・・・

2007年01月11日 12時38分17秒 | 俺のそれ
お金がなくて困っている時、誰かに助けを求めたい気持ちはあると思う。他の人たちが実際どのように考えているのかは知らない。聞いた事もないですし。でも、いくつかのタイプがあるのかもしれない。


「助けてもらうのは当然だ」

このように考える人もいるかもしれない。


金持ちが豪華な暮らしができるのは貧乏人たちから搾取しているからだ、税金や保険料が高くなるのも金持ちが払わないせいだ、だから、金持ちから税金をもっとたくさん取ってこい、というような主張に結びつきがちな面はあるかもしれない。と、勝手な妄想。


でも、逆に、「助けて」とは言い難い人もいるのではないか。自分が金の出し手であれば、「もっと助けるべきだ」という主張をしても、あまり違和感はないかもしれない。しかし、援助を受ける側である時、「もっと助けるべきだ」ということを、あまり大きな声では言えない人たちもいたりするんじゃないのかな、と。


実際にどうなのか判らないけれど、また例で考えてみよう。

ある最貧国Aがあるとする。で、この国に援助しようという裕福な先進国の活動グループがあれば、このグループが「Aにもっと支援しよう。先進国はもっとお金を出すべきだ」とか言うのは、まあそうだな、と思えるのだ。だが、当事者であるA国側から、「先進国が金を持っているからAが貧乏なのだ、先進国はAにもっと金をよこすべきだ」とか、「裕福な先進国は貧しい国を救うのは当たり前なのだから、支援を受けるのは当然である」とか言われたら、どう思うか、というようなことに似ている。

もしも自分がAの側にある時、先進国に「もっと金をよこせ」とは言い出せない人たちはいるんじゃないのかな、ということですよね。


何かの支援をするにしても、金の出し手である先進国が選択するべきことであり、最貧国であるAの側からは、何らかの正当性を主張するのは割と難しそうではないかな、と思ったりする。良し悪しは判らないし、何が正しいとかも判らないが、そういう色々な立場があるかもしれないな、ということは想像できる。権利意識の違いとか、何か学問的なことをよく知っているとか(法的考え方みたいな?哲学か?それとも経済学かな?)、そういうことでも主張の立場は変わるのかもしれない。


でも、あまりはっきりとは「言えない」という気持ちは判る気がする。



猿芝居に辟易する

2007年01月09日 21時54分43秒 | おかしいぞ
余りに下らない浅知恵に、呆れてしまいました。というより、無性に腹が立つ。

「猿芝居はもうウンザリだ」(某見出し風、笑)


夕張の成人式が全国の注目を集める中で、武部議員等の視察団が夕張を訪れたというニュースがテレビで流れていた。調子のいい連中の考えた「広報活動」なんぞ見せられても、反吐が出そうになるね。こういう手合いが他人の不幸というか窮状を利用して、自分の宣伝活動を行おうとする、その魂胆が許せないね。ヤラセとおんなじじゃねーか。「ヤラセはもうウンザリだ!」もいいタイトルかもね。


今頃になって、国会議員が「責任を持って考える」なんてことができるのであれば、はるか昔に解決できているでしょうね。国会議員で何年もメシを食っていて、一体今まで何を見て、何をやってきたんだ、と言いたくなるね。お前らのような連中の「政治ゲーム」にはコリゴリなんですよ。政治力学だの、政局だの、そういった政治抗争だかゲームをやりたいのなら、或いは自分の政治力を試したいのなら、党内で勝手にやってろ。人事争いやら、派閥抗争やら、色々とあるだろ、やれる場が。そっちで永遠にやってりゃいいだろ。夕張市民を踏み台にしてるのと同じなんだよ、お前等のやってることは。


国会議員がノコノコ出て行く前に、地方議会は何をやっている?道議会議員がいるのだろ?道知事はどうした?要するに、「別所帯だから知らん」というようなものか?ある意味、当たり前だわな。夕張みたいなのを救済しようと思えば、道そのものが火の車で大炎上一歩直前で、金がないのに救えるはずもないし、同じような「多重債務者」(笑)のどん底コースに乗ってる自治体は道内にいくつもあるらしいし。下手に救済の手を差し延べたりしたら「悪しき先例」になりかねない、というようなものだろう。

今の今まで、一体全体何をやってきたのか?
どうしてこんなことになったのか?

地方の首長が単独でどれ程頑張っても、補助金関係がそんなに国から貰えるワケないだろ?辺鄙な場所の自治体首長が、「こんだけ予算を付けてくれ」と平身低頭で自治省(今の総務省)あたりに頼み込んでみたところで、担当者に会うことさえ難しいんじゃないのか?霞ヶ関のどこに、全国数千のうちのたった一つでしかない、名も知れぬ自治体首長の言い分を、「ああそうですか」と丸呑みしてくれる官僚がいるんだ?笑わせるな。


要するに、国会議員の口利き、後押しなんでしょ?違うの?お前等の勝手な世界で、自分たちの好き勝手に分配してきたんだろ?その結果が、これなんじゃないのか?国会議員には、地方議員たちが「鈴なり」で連なってるようなもんなんじゃないのか?お前等がこしらえた「内輪の世界」で、空き放題やってきたから、こういう有様なんだろ。自分の政治ゲームとか、地元の分配とか、そういうことにだけ関心があったからなんじゃないのか。それを今更、「夕張を救う」とかぬかしているのを見ると、偽善者ぶるのもいい加減にしろよ、と言いたいね。


いいか、北海道の今の惨状は、あくまで「結果」なんだよ。誰がこの結果をもたらしたのか?景気のせい?時代のせい?ああ、確かにそういう面はあるかもしれない。だが、本当の原因は、「まともな政治」が行われてこなかったからだ。好き勝手に、自分達の領域内に「分配」を繰り返してきたからだ。住民もそういうことへの関心や注意が足りなかったのだよ。お人よしすぎだったのか、武部氏の表現を借れば「道民は少しオカシイ」(=民度が低い)ということなんだろうな(笑)。そこにつけこまれて、今まで騙されて続けてきたんだよ、散々。


ここ10年程度だけで、借金を重ねたら夕張みたいになるか?ならないんだよ。借金も、わけわからん施設の赤字も、長い間の積み重ねだろ。昔からの、「タカリ」軍団にやられたのさ。議員や首長や業者なんかの「甘い蜜分配システム」に。住民はそうとは知らずに、過してきたんだよ。地方にお金がばら撒かれている、といっても、実質ごく一部のやつらの利益の為に使われたようなもんだ。


北海道の議員を調べてみたよ。中々興味深いことが判った。

当選回数の多い議員を見ていくと、次の人たちだ。有名な議員もいる。

・6回:小平、鉢呂、ともに90年初当選(両方民主党だって)
・7回:武部、鳩山、ともに86年初当選
(鈴木ムネオも7回だが初当選は83年、「別荘」に行ってたからだね)
・8回:中川昭、町村、ともに83年


武部さんはご存知の通り。鳩山さんは東京で御殿暮らしなのに、何で北海道から長年出てるのか判らん。中川昭一氏は周知の通り、故中川一郎氏の御曹司で現政調会長。町村さんは道知事だった故町村金五氏の御曹司で、現森派会長の外務大臣経験者だ。


このように、長年北海道選出の国会議員たちは多数いて、党内でもそれなりの実力者ぞろいだ。なのに、今更何を言ってるのかと思うよ。本当に何も知らなかったのであれば、バカなのか、国会議員には地方のことは関係ない、ということなのかもしれないが、そうであるなら、今頃ワザとらしい芝居なんかすんなよ。

で、ここに書かなかった議員が1人いる。それは、最も責任があるだろう、と私が考えている人物である。それは、衆院副議長の横路氏だ。この人こそ、一体全体北海道に対して何をやってきたのか、と思うぞ。


初当選は69年と一番古く、その後83年に道知事になるまで国会議員をやってる。95年に辞めるまで12年間も知事をやっていたお方なのだ。昔は社会党だったから、北海道の行政は社会党が握ることになったんだろう。80年代~90年代前半という成長期とバブル崩壊なんかがあったけれども、極寒期ではなかったろう。この時期から既に、「破綻への道」のタネは十分仕込まれたのさ。上に書いた通り、武部、鳩山、中川、町村、鈴木各議員の登場時期とも合ってるのさ。こういう連中が北海道選出議員として、横路氏は道知事として、北海道の行政に深く関わっていたんだろう。北海道をダメにしてきた張本人たちと言ってもいい人たちが、こういう国会議員たちなんじゃないかと思うね。そうじゃなければ、もっと別な方向へ行っていたはずだろう。彼らを長年選出してきて、彼らは何をしたのか?


特に横路時代に残されたものは、道庁や道警の裏金事件に見られるように、行政のやりたい放題、タカリ体質だ。その責任を一度も問われることなく、横路氏は(発覚前の)96年から国会議員になっていたから、退職金返還とかも求められていないはずだ。どこからどう見たって、横路時代に行われていた「悪行三昧」じゃないか。それをどうだ?知らん顔しやがって、のうのうと衆院副議長だそうだ。


北海道の「役人天国」を確たるものにしたのは、旧社会党が道政を握っていた横路知事時代なんだよ。社会党だもの(笑)。そりゃそうだろうな。これと同じく、「開発王国」が築かれたのも、上に挙げた多選議員たちの時代からだろ。そういう連中が誘導したようなもんなんじゃないのか?加担してたんじゃないのか?それを今になって、涼しい顔して「夕張を救う」だなんてよく言えたもんだ。


市町村の陳情部隊が国会議員の元を訪れて、あれこれお願いするというのは、そういう開発予算だの公共事業関係の予算だのを獲れるからだろ?そうじゃなけりゃ、どこに、国会議員に陳情なんかする人がいるんだね。結局、今国会議員をやっている連中も一緒になって分配工作に加担したようなもんで、元を辿れば自分たちなんじゃないの?と思うわな。それを「夕張を救うために視察」などという猿芝居をされた日にゃ、バカにするのもいい加減にしろよ、と思いたくなるな。下らんパフォーマンスに利用することしか思いつかない程度のヤツラに、何が判るっていうのか。自分の胸に手を当てて聞いてみろよ、過去の所業を。


80年代以降では、自民党が政権と取っていた時期だけじゃなく、社会党が村山総理を出していた時期さえあった。自民党が国の予算の決定権限に大きな影響力を発揮していただろうが、社会党が政権取っても同じようなことをやり、道政においては正に社会党が中心となって「ダメな方向」、「破綻の基礎固め」をやってきたのだろ。役人たちと一致結託して、貪ってきたんじゃないのか?そういう政治をやってきたような連中に、これから何を期待せよというのだろうね。


今から救済策とか、何かをやってできるんなら、とっくの昔に出来てるわな。長年選ばれてきた国会議員がこれほど頭数揃っていて、党幹部にもなっていて、それでも今まで何もしてこなかったくせに、今からなら「できる」って?笑わせるね。


せいぜい人々の不幸を利用されるだけなんじゃないのか。国会議員のデモンストレーションとか、「やったフリ」とか、人寄せのパフォーマンスとか、そういうことだろ?

コネと金の人脈・金脈でやってきた政治は、今も何も変わっちゃいない。



以上、「陰謀論を推測する」のフィクション特別篇でした。



経済学の歴史を見れば

2007年01月08日 22時03分34秒 | 俺のそれ
以前に、お金はまるで血液循環みたいなのに似ている、というようなことを書いた(参考記事1)。でも、これと同じような考えの人がかなり昔に存在していたと知り(何処かで見かけたけど、忘れた)、ネットで調べてみたら、これが凄いんだな。昔の人たちというのは侮れないというか、やっぱり偉い人たちはいたんですね、やっぱり。私が思いつく程度のことは、既に大体考えられているのですよね(当たり前か)。


で、ケネーと重農主義者たちに興味を持ちました。これは本当に面白いな、と。

重農主義者たち Physiocrats


これを読むと、この時代には既に「economist」に該当する人たちは存在したようですね。



そこで、「economics」の語源を調べてみた。

ラテン語でoeconomiaというのだそうだ。この元の言葉は、ギリシャ語でoikonomia ということだ(ギリシャ語の正確な表記ができてない)。これは、英語で言うところの、house management ということを表す語であるという。「家政術」というような意味が割り当てられている。

さらに分解すると、oikos と-nomos ということで、前者が house、後者が law を意味する。これを言ったのが、アリストテレスということらしい。紀元前から既にこうした考えがあった、というのは凄い。初めて知ったよ。しかも、経済活動の基本単位としての「家庭」というのが中心的だったのかと思えば、ナルホドなと思う。王様であっても「家庭」には違いないしね。金がなければ、戦争もできんわな。


因みに、アリストテレスは商人の活動を「取財術」と呼んでいたらしい。自然な労働で生産されないので、非難されるべきものとして考えられていたようだ。特にお金がお金を生み出す「貨殖術」は、貨幣的な現象によるものであり、ここから生み出される富には限りがない、と既に見通していたのだ。利子は、「貨幣の子たる貨幣として生まれる」という無限性があると考え、非難するべきものを感じ取っていたのであろう。こうした感覚は理解できるものではあるが(笑)、経済活動においては信用創造が必要なことであるのは確かであろう。アリストテレスの時代においては、「増殖し続ける富」に対しての疑問を感じるのはある程度止むを得ないのではないかな。金に魅入られるというか、精神を支配されうるという人間の本性を見抜いていたという点では、さすがに偉大な人物であると思うな。紀元前から人間の本質的な部分は変わっていない、ということでもあろうか(愚かということか?、笑)。


思想史とか、こういう歴史的なことというのは、中々面白いですね。

重農主義者たちの言い分というのも、今の時代でも似たような部分は凄く多いし、考えている核心部分というのが現代と大きな違いはないようにも思えます。ケネーの人生にも共感を覚えてしまいます。歴史の繰り返しみたいな感じで、何だか不思議です。


もうちょっと読んで、考えてみたいと思います。



東京都知事選のこと

2007年01月08日 13時01分07秒 | 政治って?
私は東京に住んでないので選挙権もないし、全く無関係なのですが、最近ちょっと気になるので、メモ。


石原都知事の出馬が噂されたりしているようですが、色々あるかもしれないですね。
朝日新聞グループの反石原キャンペーン?ということでもないかもしれないが、醜聞が取り上げられたりしてます。新聞・雑誌なんかにも書かれてるな。


その一方で、日テレグループ(読売グループということでもないかもしれないが)は、何故か石原都知事に好意的な気がします。その理由というのは、偶然チラッと観た下らないバラエティ番組に登場していたから。「だから何?」ということでもないのですけど。で、昨日だったか、新聞のテレビ欄には「波瀾万丈」にも取り上げられるとか書かれていた。偶然にも、こんなにテレビに登場してくるというのは、ちょっと解せない。本当の偶然かもしれないが、時期が時期だけに、妙だな、と「陰謀論」を勘繰ってしまいます(笑)。


親近感を持たせる、或いは、人物に対して「好意的」感情を抱かせるようにする、というようなことは、意図すれば可能なのではないのかな、と。番組を全て観た訳ではないので、どのような中身だったのかは知らないのですけど。


石原都知事の業績というのがどういった良い点があったのかは都民でなければ判らないと思うけれども、傍から見ていると、いい加減に退いてもらった方がいいんじゃないか、というのが個人的な感想。ああいう「物言い」の知事というのは、如何なものか、と常々感じるな。かなり高齢だし。まあ、都民の選択に任せるしかないのですけどね。


首都大学東京とか、どうなんでしょうか?その評価は高いのでしょうか?何だか、不評ばかりが耳に入ってくるような気がします。半径3メートル圏内情報だからかもしれんが。

他にも、新銀行東京とか、何でもかんでも「東京」と付ければいいかのようですが、東京ブランドの成果はどうなんでしょう?
赤字続きで都税が注ぎ込まれているようなものじゃありませんか?石原氏が主導して作った銀行だそうですが、なんじゃこりゃ、の殿様商売ですかね(笑)。中小企業向けの融資(金利水準の高いマーケットだそうな)ということらしいですが(同じのをどこかで見たような・・・日本振興銀行だったか)、下手に不慣れな商売に手を出して痛手を被り、損失を拡大するだけ、というのも「官業」にはありがちですからね。

新銀行東京 - Wikipedia


これによれば、「石原銀行」なる呼称があったらしいが、銀行が行き詰っても、その責任を誰も取らされないのであれば、バカでもできるような気がする。


石原都知事のことではありませんが、行政によくある、他人の金を使って、好き勝手な事業を計画したりして、たとえ失敗しても痛くも痒くもないわな。オコボレをあちこちにばら撒いておくことが可能なようですし(笑)。


都知事を変えない理由というのは、私にはよく判らない。



何が「モナー神社」だ

2007年01月07日 18時02分39秒 | 経済関連
バカバカしい、とか思ったが、行ってみた。

開運祈願 モナー神社 - おみくじ所


結構くだらないが、面白かった。
とてもよく出来てる。誰が作ったのか知らないが。


記念におみくじ引いてみた。

これ→

大吉(No.45134)
願事:思い通りとなる しかし気をゆるしては破れる
待人:待つことあれど必ず来る
失物:高き処にあり
旅立:道近ければ吉
商売:見込み確かなれば儲け有り
学問:過信せず行えば成果現る
争事:心強く待ちて進めばよし
転居:急がず行えばよし
病気:少々悪し 信心せよ
縁談:近き方よし


大吉の頻度はわからないが、割と多いのか?
(本物のおみくじでも、大凶とか凶というのは滅多にない、とか噂で聞いたことがある。大吉とか中吉なんかは割りと多く出るとか。ホントかウソか知らないけど)


これを引いてみた自分って一体・・・・



Wの喜劇

2007年01月07日 17時17分15秒 | 俺のそれ
毎日新聞に、「2chとの全面戦争」突入を予感させる宣戦布告記事が掲載されていたらしい。

J-CAST ニュース 毎日新聞と2ちゃんねらー 「全面戦争」の様相


まあ、全面戦争でも何でもやってもらっていいんですけど(良くない?か)、毎日の当該記事を読んで初めて知ったことがあります。


それは、

「w」の文字の意味

でした。



今までは、何か言葉に詰まったような、「うぐぐごがぐ」みたいな、音声で言えば「サザエさん」のテレビ終了直後に「まんじゅうを喉に詰まらせ気味になるサザエさん」のようなものをイメージしていました。何とも言いようのないような、そんな様を想像していたんですよね。

が、実は、笑っていたんですね。そうでしたか。未だに(笑)とか使ってるのは、私くらいかもしれません。だって、他でも見かけることが少ないような気がしますし。wはしょっちゅう見かけるけど(笑)。そもそも「カッコ笑」はどこから来たんでしょうか?週刊誌とかですかね、やっぱり。インタビュー記事みたいなのとか。どうなんでしょうか。こんなこと、考えたことなかったから、何だかヘンですよね。今後、wを用いるべきか悩ましいところです。私同様、笑ってることを知らなければ、読み手には誤解を与えてしまう恐れがありますしね。



オーマイニュースと掲示板抗争の次は、毎日新聞ですかね。となると、「2ちゃん」vs 「毎日・オーマイ連合」というような構図ですか。オーマイの編集長鳥越氏は、かつて「ジャーナリズムとは何か」みたいなテーマで筑紫氏の番組に呼ばれていたような記憶(ライブドアのフジ買収騒動の頃だったかな?)があるが、そういうつながりというかシンパシーみたいなのはあるのかもしれませんね>毎日・オーマイ


連合なんてしてない、とかいわれりゃ、そうかな、と思いますが、2chに対しては似たようなスタンスなのかもしれませんね。


ちょっと追記:

関係ないけど、このJ-CASTニュースってのは、「炎上」探索隊というか、炎上現場の実況中継みたいなのが多くないですか?脇のランキングを見ると、炎上ものが殆どですよね。常にネット上での「出火地点」を捜索していたり、ボヤってる所とかに油を注いでいたりしてるような気がしないでもないな。回りくどい言い方でゴメンなさい、ですけど。


それにしても、レフェリーまでもが犠牲になるとは、油断も隙もないですね。やっぱり「防御システム」は必要かも。前にfinalventさんが書いてたけど。「緊急停止措置を発動します!」みたいな。「コメント表示・新規記入の自動停止装置」みたいなものでもいいんですけど。自動消火装置か、鎮火装置というのか、名称は何でもいいんですけどね。

そうでもしないと、「6000コメンツ逝きました」とか有り得ないような事態が起こってしまうもんね。普通の人たちがいちいち炎上対策を個別にやるというのは、難しいと思う。初めから装置に組み込まれているべきなんじゃなかろうか。



「detachment」にしびれた

2007年01月07日 16時22分01秒 | 俺のそれ
茂木先生の記事で拝見致しました。

「そうだよなー」と共感。記事が一回消えたので、コンパクトに書きました。


茂木健一郎 クオリア日記 統計的有意差がないということは

最も感銘を受けた部分を引用します。


 科学的世界観とは、理想的には、あたかも「神の視点」に立ったかのように、自らの立場を離れて世界を見ることによって成り立っています。そのことを、科学者たちは、「ディタッチメント」(detachment)をもって対象を観察する、と表現します。「ディタッチメント」は、もともとイギリスの経験主義科学を特徴付ける言葉であり、日本語に直せば、「認知的距離」とでも訳せるでしょうか。

 ある理論を巡って議論する時にも、その理論が誰によって提出されたか、どのような学派によってサポートされたかということには関係なく、客観的に見ることができる。そのようなディタッチメントの態度を取ることができることを、科学者たちは誇りに思っているのです。




日頃の愚かな自分の態度を反省することにします・・・。
でも、「自分は科学者じゃないし~ぃ」とか、少し思ったりもします(笑)。


反省してる態度じゃない、って?
イカン、イカン、改めなければ。
「ディタッチメント的態度のじぇんとるまん」になれるように、心がけたいと思います。『ダメな議論』メソッドでも典型例ですからね、わたくしの場合。



「ホワイトカラー・エグゼンプション」について考えてみる

2007年01月06日 23時56分24秒 | 社会全般
「ホワイトカラー・イグザンプション」という表記も見かけるが、長ったらしいので以下「WE」とする。
朝日新聞の記事に対して、相当批判的な意見が出されているようだ。私にも実はよく判らない面があるが、自分なりに考えてみることにする。「これはひどい」「氏ねばいいのに」「あたまがわるい」などと釣られる(笑)前に、まずはよく考えてみた方がいいと思うよ。


asahicom:残業代ゼロ 首相「少子化対策にも必要」-政治


また例で考えてみよう。間違っているかもしれないので、その時には優しく教えて下さいね。

とりあえず、漫画家A、Bがいるとする。普通の漫画家はフリーなのですけど、サラリーマンを漫画家に見立てることにするので、雇用されていて給料を貰っているものと考える。

従来のサラリーマンというのは、賃金格差は若干はあるものの、概ね似たような賃金になっているので、漫画家A、Bの仕事の成果、この場合で言うと「作品の人気度」とか「売上部数」とか「関連グッズ売上」とか、そういうので成果に違いがある、ということである。で、このAとBの仕上げ時間には差があって、単位時間当たりAは20枚、Bは15枚描けるとしよう。すると、同じ仕事を割り当てて、「締め切りまでに150枚の作品を完成せよ」というものであれば、Aは7.5時間、Bは10時間で仕上げることができる。従来の勤務体制だと、みんな同じように勤務時間で拘束され、時間内に仕上がらなかったとすれば残りを残業として作業することになる。


上のAとBで、完成された作品の売上がほぼ同じであるとすれば、Aは「残業がない」が、Bは「残業2時間」となり、貰える給料が多くなるとすれば、これが果たして望ましいのであろうか?Bだけが残業代を貰えることに賛成するという人たちは、かなり少ないのではないか。もしもあなたが雇い主であるとすれば、AとBに同じ給料で良い、と考えても不思議ではないのではないか。残業に対して必ずしも賃金を支払わない、というのがそれほど理不尽なことであろうか?普通の会社であれば、Bの仕事が残っているのでAも帰宅できず、AがBの仕事を手伝わねばならないかもしれない。でも、裁量権限がそれぞれに与えられていれば、Aは「お先に上がります」とか言って帰ることが可能になる、ということだ。


もっと条件を変えてみる。Aは人気があり給料が高くて基本の年俸が1500万円であるとする。Bはそれより落ちて1000万円である。漫画家としての原稿料が違うとか、描ける枚数が違うとか、そういう違いによって収入が異なる、ということだ。サラリーマンでもこれと同じような感じにしよう、ということなんだろうと思う。残業代を今までAとBに年間400万円支払っていたとすると、その分はAやBの収入は減少することになる。雇い主側から見れば、この400万円をどう使うか、ということが重要になってくる。例えば、Aにアシスタントを専属で付けて、もっと仕上げ時間を短縮してトータルの年間売上を増やすことを考えるかもしれない。重要なのは、「新たな仕事」が増える可能性が高くなる、ということだ。


WE導入の対象は基本的には年収水準が相当程度高い層(800~900万円)が考えられていると思うが、そういう人たちの残業代が減ってしまう可能性があるのは確かである。経営者サイドの要望では400万円程度とかいう無謀な提案もあったようだが、恐らくこれは採用されることはないだろう。例えば、全サラリーマンの収入基準の上位10%とか15%とか(米国なんかだと20~25%程度らしいが)の人が対象となるのであって、低所得者側では時間外割増賃金を50%増にしよう、という提案さえあるのである。つまり、低所得者にとっては喜ぶべき制度になるかもしれないのである。ましてフリーターとかパートの人たちにとっては、新たな正規雇用の枠が生まれるかもしれないのである。年収水準の高い人たちの「時間外賃金」が削られる分、人件費に余裕が生まれるのであればそれを他の人に回せる可能性が高くなるのである。そういうことを考えてみるべきなのではないだろうか。反射的に反対したり貶したりする前に、本当に低所得者たちに不利益がどれくらいあるのか考えるべきであろう。多くの人たちが妬んでいたりする(笑、本当は妬んでないかもしれないが)、所謂「勝ち組」的な高給取りが対象なのだ、ということなのです。


サラリーマンの仕事だと漫画家みたいに、はっきりと成果が判る訳ではない部分があるのは確かだろう。でも、明らかに作業時間に違いのあるAとBに同じ基本給だけでなく、仕事の遅いBに残業代が多く支払われるとしたら、フェアではないように感じるのではないか。そういうのをなくして、AのチームとBのチームで仕事をやっていく、ということになるのだろうと思う。同じ売上貢献なら、Aの仕事時間が短くなるのは当然予想でき、Bの残業代減少分を補おうと無理に仕事量を増やすようなことがなければ、問題はないであろう(一定時間を越える残業がある場合には、医師のカウンセリングを受けさせる、という提案があるので健康面には配慮されていると思う)。普通は仕事時間をただ増やしても、売上増に繋がるとは限らないとは思うが。


WE導入に反対するのは、果たしてどうなんでしょうか。



「いい国」で検索すると・・・・

2007年01月05日 15時57分34秒 | 政治って?
グーグルでやってみた。
そもそものきっかけは、日経に掲載されていたという塩野七生氏の言

『日本は「美しい国」とまでは言わなくても「いい国」になった方がいい。』


うむむう、タイトルに採用していて良かった、と喜ぶ(笑、単純バカなので)。
この前、「女性の意見を多く聞いてみた方がいい」と書いたが、女性の側から出される意見というのは、違った厳しさがあるな。代表的意見として、少々手厳しいご意見が出されたというところか。


「いい国」でニュース検索すると、次の記事が。こちらは産経新聞だ。

【新春特別対談】三浦朱門曽野綾子夫妻|文化|カルチャー|Sankei WEB


ここでも女性のご意見として、曽野綾子氏から次のようなものが出されていた。

『首相におなりになるちょっと前ですが、昭恵夫人と4人で飲みました。昭恵さんとはアフリカへご一緒しました。途上国を総理に代わって実感していただけて、ほんとうによかったです。自民党でも何でもそうだけど、広報が大事なのに意外とみなさん分かってない。広報とは言いくるめることではなくて、先に先に手を読んで、そして、答えを差し出してあげることだと思う。それがなかなかできていない。

首相のスピーチはどなたがお書きになるのでしょう。ものすごく大事ですよ。ごめんなさいね。あまり上手な人が書いていない。』


中々厳しい評価のようですね・・・・。プロの書き手から見ると、上手じゃない、って言う気持ちは分らないでもないが、上手下手を抜かしても、うまく伝わっていない、ということは言えるだろう。



これらとは無関係だが、更に検索で発見したのがコレ。

いい国作ろう 鈴木康友


民主党の元国会議員のブログだ。何だよ、パクリっぽいじゃないか、とか思ったが、単なる偶然だろう(笑)。やや複雑な気分。

で、今度浜松市長選挙に出るつもりらしい。
地元では有名なんだろう、きっと。

松下政経塾出身者なんだと。ふと思うのですけど、(IT)ベンチャー経営者って、国会議員になっている人が複数いるんだよね。何か不思議なんだけど。どういう会社を経営しているのかは知らないですが。高々数年で会社が自分の手を離れても大丈夫になるんだから、きっと成功例ばかりなんだろう。


これはどうでもいいけど、「鈴木康友」って選手、昔、ジャイアンツにいなかった?西武行ったんだったか?今はコーチか何か?
「やっちゃん」という呼称も、一歩間違えば、「その筋のお方」方面に逝ってしまいかねず、やや危険な愛称ではあるな。


「見間違え」みたいなもんで、「扱き下ろし」と「書き下ろし」とか、「プレイ」と「レイプ」とか、一瞬凍る時があるが(ひょっとして私だけ?)、「そんなわけないよね」と気付く。


しかし、「いい国作ろう」だと、何かの仲間とか関係者?とか思われても困るので、違う名前をつけてもらえれば有り難いんですけど。元国会議員と言えども、こっちが先に付けたんだから、遠慮して欲しいよね(笑)。

例えば、

・finaiventの日記
・finalwentの日記
・fimalventの日記
・finelvantの日記

みたいな模造品、若しくは「finalventianの日記」(笑、ごめんなさい、本物のfinalventさん。悪気はないです、でも作りやすいので)の如く同じ「~族」の一派という誤解を与える虞があるのではなかろうか、と。

でもね、「いい国作ろう」というのは語呂としてはあまりに平凡すぎて、特徴的ということでもないんですよね・・・。ネーミングの云々言えるようなものでもない、ということです。そこが痛い処で、結局「藻前もやっちゃん一派か何かでつか?」などと勘違いされても、仕方がないんですよね。


何となく「納得いかない」が、まあ、世の中こんなもんだということで。