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女性がみんな働く社会環境をいち早く整備すべき

2007年01月04日 15時37分01秒 | 社会全般
コメントに頂いたテーマがとても大きかったので、私ごときではうまく答えられないかもしれませんが、可能な範囲で書いてみたいと思います。


論点をいくつかに分割しまして、次のようにしました。ご希望に沿ったお答えにはなっていないかもしれませんが、ご容赦下さい。

1)男社会的な問題
2)海外脱出は望ましいか?
3)例えばフランスとの差
4)将来の展望


では、各論点について見て参りたいと思います。


1)男社会的な問題

コメントで指摘されておりますが、”「男は仕事、女は家事育児」という保守的かつ古臭い考え”が今でも強く残されているという傾向はあるかもしれません。私自身も男ですので、そういった考え方は理解できるものであります(失礼、賛成とか肯定とかいうことではなく)。

が、多分かなりの年長者でなければ、こうしたことを言っている人は少ないのではないかと思えます。コメントをされたShinnさんは、春から大卒社会人というお若い方ですので、昔のことはあまりご存知ないかもしれない(熟知しておられたらゴメンなさい)と思い、一応かつての日本の様子を大雑把に書いておきたいと思います。


今から20年くらい前(私が大学生の頃)でも、女性の大学進学率は今よりかなり低く、短大や女子大に進学する人の方が多かったかもしれません。もっと以前だと、女子の新卒者のうち就職する割合は更に低く、2割程度くらいしか働かなかったように記憶しています(高卒女子は忘れました・・・)。今ではほぼ「全員」が就職活動を行ったりして、大卒後就職するのは当たり前だろうと思いますが、昔は違っていたのですね。大卒女子であっても、多くは花嫁修業などと称して「家事手伝い」として過し、仕事をしない人は少なくなかったのです。それでも良かった。結婚年齢が25歳以下が珍しくなく、仕事をしたとしても1~2年程度で辞めることになってしまうからです(女性の平均結婚年齢は判りませんが、大多数が25歳未満である時代はあったでしょう)。そもそも社会制度的な仕組みがそのようにできていたのです。雇用制度も、年金制度も、給与体系も、みんな「一家の大黒柱」である旦那さんが一人で働いて稼ぎ、奥さんは専業主婦で家にいることが可能なようにできていた。それが所謂「標準世帯」(夫婦+子ども2人)という典型的なモデルだったのです。その専業主婦は、家事労働ばかりではなく、年老いた親の面倒をみたり地域社会活動をするというような、別な役割を担わされていたのだろうと思います(例えば、昔病院に入院すると、家族か付添婦―雇われた専門の人―が付きっ切りで看護せねばなりませんでした。看護婦はあれこれと世話をしてくれるなどということはなかったのです。基本的には家族がやってくれ、という時代であったのです)。


しかし、現在は社会制度が実情に合わなくなっている。専業主婦は減少しているし、高齢者単独世帯(独居老人も)が増加している一方で、若年層の方に親との同居が増加しているのです。昔は、若者が「家を出て」(飛び出して、という方が妥当かもしれない)行き、高齢の親が同居していたことが多かった。昔の時代を生きてきた人たちには、女性は専業主婦で家にいろ、的な発想をする人がまだ多いかもしれませんが、今の若年層(40歳未満くらいかな)ではそうした考えを持つ人の割合はむしろ少数派ではないでしょうか。きっと男性像も変わってきたのだろうと思います。Shinnさんの結婚相手になりそうな年齢層の男性では、「結婚したら女性は仕事を辞めてくれ」と求める人はそんなに多くはないだろうな、ということです。


その理由としては、男性の給与体系が昔と違うことが、まず挙げられると思います。かつては年功序列で年数に応じて標準世帯的な家庭が生活することを想定して給与額に織り込まれていたけれども、今は能力主義的、成果主義的な給与体系に変わったと思います。なので、男性の給料だけでは少ない、ということが十分考えられるのです。結婚前に双方が仕事をしていることが多いので、そうなると、結婚後片方が仕事を辞めたりすれば一気に収入は減ります。その生活レベルが受け入れ難い、ということは少なくないでしょう。更に、女性と男性の収入水準を比べると、若年層では男性の方が低い可能性すらあります。若年男性の失業率は同年齢層の女性よりも高いことが一つです。第二に、女性の方が多く派遣・契約社員となっている可能性があり、その分だけ男性の正規雇用が多いわけではなく、派遣等よりも条件の悪いフリーターや不定期雇用、更に悪ければ失業ということがありえます。第三に、女性優位な職場があり、小売・販売・飲食関係では男性よりも女性に需要が多いので採用されやすいのではないかと思われ、看護師や保育士のように男性が圧倒的に少ない職種というのも存在しています。これらを考えると、男性の方が女性よりも収入状況の悪い人が多い可能性があるので、結婚したとしても女性の収入が大変重要なことには変わりない、とも思えます。


職場環境の変化ということで見れば、年長者の時代では「女性の上司」という存在が殆どなかったと思いますが、今の若年層では同じ条件の職場であるとか、女性の先輩や上司が存在していることは普通であると思われ、そういう点でも女性の仕事に対する理解の程度は高いのではないかと思えます。昔は、「女性初の~」というのがニュースになるような時代でしたが(例えば片山さつき議員なんかはそうだったでしょう)、今では珍しくなくなってきています。会社のトップにもたくさんおられます。きっと女性の職業人として、多くの先達が男社会に風穴を開ける努力をしてきた結果であるかと思います。それ故、今では男女ともに新卒で働くというのが当たり前になった、ともいえます。


大まかにまとめますと、男性が女性の仕事に対して理解を示さないとか、結婚を期に退職せざるを得ない、といった状況は、今後ますます少なくなっていくのではないか、というのが、私の印象です。これには人口動態という要因も関係あるので、それは後述したいと思います。



2)海外脱出は望ましいか?

これは賛否分かれるところではないかと思われます。基本的には、「好きな人がいて、その人が暮らす国で一緒に暮らしたい」ということであれば、世界中どこであってもいいと思います。実際、海外で生活する人は少なくないでしょう。その決断は、成功とか失敗とか、どちらともいえないのではないでしょうか。その場になってみないと判らない苦労とか、困ったこととか、あるかもしれないので・・・・。


自分の将来の為とか、実現したい夢があって海外へ行くことは、可能であるならどんどんやった方がいいと思います。今の日本人を見ていて感じる事は、所謂「競争相手」が隣の机の人と思っているのではないか、というような寂しい状況ですので、世界を相手にできる人の方がずっといいと思います。そういう意味では、海外へ行く事は推奨されるべきではないかと思われます。ただし、その間日本国内の時間は確実に過ぎて行ってしまいますので、中には失意で戻ってくる人がいたとしても、その時点では後戻りできない(というか、リカバリーできない?)地点に来ていれば、その後にはもっと厳しい人生が待っていることも有り得るかもしれません。そういうリスクはあると思います。行く前によく考えておくべきかな、と。



3)例えばフランスとの差

女性が働いたり、子育てをする環境を日本と比べるとどうなのか、ということを見てみます。特にフランスの制度に詳しい訳でもないので、本当にザックリとしか言えないですが・・・・。


フランスはかつて少子高齢化が進んでいましたが、出生率は維持されており(1.8~1.9程度、日本は1.26)、移民の流入効果もあって人口増加に結びついています。これは制度が奏功したのか、移民の影響なのか、社会制度や環境の変化によるのか、正確には判りません。でも、日本よりは女性が単独で子育てがしやすい環境になっていると思われます。


日本との違いですが、まず宗教的背景に大きく差があります。大多数がカソリック系(移民などにはイスラム教徒もかなりいる)ですので堕胎については、厳しい制限があります。日本では実態がつかめていませんが、堕胎児は相当数に上ると推測されているようです。フランスでは「産まなければならない」という半強制力が働く面があるのではないか、と思われます。


それから、シングルマザーの割合が高いことが特徴と言えると思います。日本では嫡出子以外の出生は極めて少ないのが現状です(1%未満だったか、5%未満だったかと思いますが、資料は見てないです)。フランス映画に登場する女性像では、結婚していない女性が1人で子育てをしている、という登場人物が珍しくありません。それもそのはず、3~4割くらいが、シングルマザーなのです。シングルマザーは有職率も高く、パートタイマー率はEU中最低水準(殆どが正規の仕事、ということ)です。フランス人女性の多くは結婚してもしなくてもよく、所謂「同棲」が社会的には結婚とほぼ同じ意味合いを持つのです(制度上でも)。なので、結婚していなくとも、同棲していたり出産したりはあるし、シングルのままでも自分1人で子育てといったことがよく行われる、ということだと思います。離婚率も非常に高く、パリでは約半分が離婚しているとも言われます。つまり、社会の結婚観として、日本とは全く異なっていると考えるべきで、それに合わせた制度があるのは、ある意味当然と言えるでしょう。


参考までに、フランスの失業率は常時10数%で、女性の失業率は男性よりも常に高くなっています。大体15%程度です。これはどういうことか?昨年や一昨年の暴動で明らかになったように、若年層や移民等貧困層への仕事の割り当てが非常に厳しく、階級差別的な社会である一面を覗かせます。子育て女性にとって「仕事」が守られるということは、他の誰かがその仕事に就けるという機会を確実に奪っている、ということなのです。シングルマザーが既得権益として守られているということは、逆に立場を変えてみれば、若年層や貧困層への仕事や収入を犠牲にしている、ということでもあるのです。フランス人女性にとって子育てしやすい環境であるかもしれませんが、その分他の誰かが代わりに負担や犠牲を強いられる、ということになります。日本でも似たような制度設計ができるか、というと、これは熟慮を要するのではないかと思うのですが・・・・ただ、日本では支援が少ないと思います(それゆえ内閣府では少子化対策を専門に考えるようになってきました)。社会的な因習というか、「世間の目」というものを一朝一夕で変えることは難しく、日本でも嫡出子以外の出生を増やし、シングルマザーを応援しよう、と決めたところで、直ぐには人々の考え方を変えられないのではないかと思えます。でも、悪いニュースばかりではないことは確かです。それは次の項で触れたいと思います。



4)将来の展望

今後の日本がどうなっていくかというと、年寄りが今まで以上に増加し、若者が減っていく、ということは言えるでしょう。団塊世代の引退が言われる昨今ですので、これから数年で団塊世代が大体65歳以上になっていきますから、相当大きな「空き」(数百万人規模)が出来てくるでしょう。その分は若年層へのポスト割り当てに繋がるので、雇用環境は改善されてくるのではないかと思われます。現在のフリーターやパートの方々にも、従来の正規雇用の需要が増えてくるのではないかと思われます。


更に年数が進んで2040年頃になれば、15~65歳の労働可能人口が今よりも約2500万人減少するので、専業主婦などという悠長なことは言ってられない状況が想定されるでしょう。つまり、女性の労働力化率が極めて高くなり、夫婦共働き世帯が大半7~8割くらい(今のフィンランドなんかもそうだったと思います)に行くようになると思います。女性が男性と全く同じように働いても、現在の就業人口より少なくなってしまうかもしれません。教育の高度化によって、大学院とかロースクールのような年限延長傾向は続くので、若者は直ぐには労働市場には参入してこないことが予想される(昔で言えば中卒とか高卒で働き、金を稼いで消費していたが、大卒が増えれば増えるほどその分遅れ、大学院や専門課程に行く人たちが増えればもっと遅れる)のではないかと思います。なので、元気な人は70歳くらいまで仕事をするかもしれない(というか、貧乏人は働かざるを得ない?)し、女性労働力への依存度は確実に高まる一方になるでしょう。


そこで問題になってくるのは、これまで女性が家庭内で行っていた労働ですね。昔の専業主婦の役割のような仕事、ということです。子育てや親の介護関係、家事労働等は「外部委託化」が進むのではないかな、ということです。今でも、塾とか、介護保険サービスとか、そういう方向に進んで来ていると思いますけれども、もっと外部委託化されていくかもしれません。昔の日本でも、ちょっとした家庭では所謂「お手伝いさん」がいて(今ではかなり裕福な家庭だけかもしれませんが)、家事労働を請け負っていたので、それと似た状況が起こってくる可能性があります。有能で生産高の多い女性は、こうした家事労働や介護労働なんかを委託して、家庭外でみんなの代わりにガンガン稼ぐ方が、日本全体の生産力がアップするし効率的であると思います。手の空いている年寄りは、子どもの面倒を見たり、あれこれ教育したりということが求められるかもしれません。おばーちゃん、おじーちゃんの役割を、家族に限定せずに地域内とかでやっていく、ということです。人口が減っていってるので、できるだけ人数が少ない中でも運営していける体制を作っていかねばならないでしょう。


たとえ労働力人口が減少しても、今の低賃金の仕事なんかを海外に出すとか、各部門で機械化したり進めれば、人数がそれほど必要ではない環境にできるかもしれません。ロボット化とか。なので、割と生産性の高い(一人当たり、時間当たりの売上高の多い仕事)が優先的に残され、今の不人気で賃金の安い仕事はずっと少なくなるはずです。それで案外と丁度いい具合になるかもしれません。例で考えてみましょう。今でも、学食だとか空港のレストランなんかでは「セルフサービス」で運営されていたりするので、同じように考えれば飲食店の店員などは大幅に削減可能です。フリーターなんかがやっている仕事の大半は、機械化によって取って代わられるか、客が自ら労力負担を「ちょっぴり」増やして補うか、ということだろうな、ということです。高級レストランに行かないと、客に注文を聞きに来たり、食事を運んでくれるようなサービスはなくなる、ということです。それでも、大して困ることはないかもしれないです。上に述べたように、家事労働や介護労働などのような、基本的に人的サービスに依存する部門については、海外労働者を受け入れるということが起こってくる可能性は有り得ます。ロボットの性能が実用的水準に達していれば、海外労働者を受け入れる必要性すらなく、全てロボットがやってくれるかもしれません。建設現場やゴミ・資源回収などのような業務は残るので、低賃金労働の為に海外労働者が必要とされる可能性はありますね。


どんな未来が待っているか判りませんが、時間が経過すればするほど「女性の労働力」はとても貴重な戦力として価値が高まり、きっと暗い未来ばかりではないと思います。ただ、今すぐにそうした変化が期待できるかというと、それは難しく、ここ暫くをどうやって乗り越えていくか、という切羽詰った問題を抱えている方々にとっては、厳しい環境であることは否めません。「海外逃避は待ってください」とか、今は「とりあえず安い賃金の仕事で我慢して下さい」とか言う権利は私にはないので、やはり個人の選択にお任せするしかないのですけれども・・・・・。


あまりお役に立つ答えではないかもしれませんが、私なりの考えを書いてみました。ワーキング・プア問題、少子化対策やひとり親家庭への施策などについて、今後の議論を注視して参りたいと思います。



政策決定と価値観

2007年01月04日 02時35分42秒 | 社会全般
昨年末に記述を追加したいと書いたので、それを少々。


貸金業法改正の問題を通じ、政策決定に関して色々と考えさせられることがあったので、改めて記しておきたい。


政策決定に際しては、細分化されたあらゆる分野について、官僚や政治家たちが正確な専門的知識を有しているとは限らないので、各種審議会とか有識者会議等で検討が行われることになる。その場での議論には、専門性や客観性が約束されているわけではないし、正当性の検証についても行われているわけではないのである。こうした部分で、議論が紛糾する余地を生じてしまうかもしれない。


ここで、政策決定に関する大串正樹氏の論説を紹介したい(調べものをしていたら偶然発見した。私にとっては、内容的にちょっと難しいのですが、一応理解したつもりで挙げてみた)。




政策空間 政策過程論の知識科学的転回


 マイケル・オークショット(Oakeshott, 1962)は、『政治における合理主義』という論文の中で「人間のあらゆる活動は、知を要素としている。そしてこの知は例外なく二つの種類からなっており、その双方がどんな現実の活動にも含まれている」として、「技術知」と「実践知」という概念を示した。「技術知」とは、意図的に学び、記憶し、そしていわゆる実践に移され諸ルールへと定式化される知識であり、全ての実践活動に含まれるものである。そして「実践知」とは、使用のうちにのみある知識で反省的なものではなく、ルールに定式化することができない知識を指す。

 そしてオークショットは、合理主義がこの「実践知」を排除する、という。さらに、これを「合理主義者の確実性に対する執着」から来るものとして批判をする。彼に言わせれば、政治とは「常に伝統的なもの、状況的なもの、移りゆくものが血管のように走っている」のであり「合理主義にもっとも馴染まない世界」なのである。




このような「合理主義者の確実性に対する執着」と類似性を持っていたのが、経済学理論によって「上限金利規制」を不当とし、早稲田大学消費者金融サービス研究所のペーパーを論拠として採用していた人たちではないかと思えた。坂野先生や堂下先生のペーパーに書かれている中身には「十分な経済学的論理性」があると確信しており、同時に無知なる大衆の感情論を排した「科学的で客観性に優れた」知識として、広く人々に知らしめるべきであって、自らの主張の正当性を裏付けるものとして評価していたであろうと推測されるのである。


こうした主張に同調する人々も同様に、知識の中身について評価することよりも「誰がこの論を提示したか」ということへの評価の方が勝っていたのではないだろうか。彼らの批判の中心には、感情論的な意見を支持しがちな大衆批判、専門性や客観性に乏しいと断じた有識者会議の議論、経済学的知見の断片すら感じさせない専門知識に乏しい法曹関係者、ということがあったのではないか。だが、そこには重大な陥穽があったと思われる。それが「合理主義」信仰とも言うべき過信ではないだろうか、というのが私の勝手な憶測である。


そうした自信の源とは、政策決定が純粋な客観的判断によってのみ正しい結論を導き出せるものなのであり、「経済学理論という“科学的”方法」を用いて検討すれば、無知なる大衆・専門知を持たない学者や腐臭漂う道徳的信念を発散している「善意を気取る連中」なんかの意見を聞く必要性はなく、むしろ有害でさえある、という確信であろう。合理主義を尊重することも一つの考え方であろうから、そのような態度自体が必ずしも非難されるべきとは思わないが、それを他人に強要することはできないであろうし、常に自らが実践していれば済む話であろう。「科学的」ということを何よりも重視したいのであれば、当然のことながら誤りや新たな知見等については、「科学的」ということに準じて修正を受け入れるべきであるのは言うまでもないだろう。しかし、経済学理論に基づいて上限金利規制に反対していた人たちの中に、そうした修正をしていった人は果たしてどれほど存在したであろうか?現実には、「結論ありき」と他人を批判している人たちそのものが、自分たちだけは「科学的で論理的な」議論をしていて正しい答えを知っている、という「結論」に執着しているかのようである。そのような人々が「論理的」だの「科学的」だのという言葉を用いている時に、それを信じることは到底できないし、誰に対しても説得的でないのは当然であろう。まさしく「トンデモ科学」と全く見分けがつかないからである。


そもそも政策決定というのが、価値観の相違による選択である(参考記事)、ということに理解を示さないのではないかと思える。その出発点にすら立てない人々が、ひたすら「正しい結論」を謳っているのではないかと思えるのである。


前記の大串氏の論説から再び引用する。




この価値について、マックス・ヴェーバー(Weber, 1904)は「価値自由」という概念を示しており、研究者の価値観そのものを否定するのではなく「事実判断」と「価値判断」を科学的根拠に基づいて明確に区別する謙虚さを持つべきだという主張をしている。つまり、政治が科学を志向する以上は「価値」に対して距離を置くべきである、という考え方である。

 しかし具体的な政策過程の議論となると、これは単なる「事実判断」の問題ではなく「どのような社会を創りたいのか」という絶対的な「価値判断」の問題になってくる。したがって前提としての「価値観」を考慮しなければ、本質的な政策論議にはなり得ない。

 つまり政治や政策過程を議論していく上では、これを知識という視点で捉え直して、価値というものに触れざるを得ないのではないだろうか。価値から離れた客観的認識のために科学の領域にとどまるのでは、意味がない。そもそも完全に客観的な科学の領域では、個人の信念に基づく「知識」というものを十分に議論できない。それよりはむしろ、プラグマティックに人間の営為の中から対立項を乗り越えて、新たな価値を生み出すべく、政治の「あるべき姿」を追求していく必要がある。ここに「知識科学的転回」が求められるのである。




私自身Weberについて何か学んだ訳でも知る訳ではないが、上記引用に当てはめて考えると、「(感情論などではなく)経済学理論に従えば答えは明白である」と主張していた人たちは、こうした価値判断から距離を置いた「価値自由」を志向していても不思議ではないかもしれない。そうであるなら、「事実」判断が最重視されるはずであり、学術的な記述に終始するべきである。すなわち、本当に経済学理論に基づくならば「わからない」という結論以外には、現時点で言及できないであろう。

これまで再三指摘したように、上限金利規制反対派たちの示した「事実」というのは、極めて少ない。特に正当性について検証を受けたような学術的な記述は、実際の現象やデータから示されたものが殆どない。彼らが「客観的」であると信じ込んでいたペーパー類でさえ、主観的な記述の域からは一歩も出ていないものであろう。反論に対して無視するのも、提示可能な事実や説明があまり存在していないからではないか?ウザイので「スルー力発動!」でもいいと思うが、決して「修正」を考慮しないという態度は、彼らが批判している「ニセ科学」と全く同じである、と言っても過言ではないだろう。


反証可能性で有名なポパー(Popper)によれば、信念というのは誤りであるとか偏向であるといった指摘を受けるものではない、という。信念に基づいて判断や行為があるのであり、他人の信念との間には主観的対立が存在しうるのである。従って、その対立は判断にも及ぶことになる。信念はopposableで、認識には誤謬が存在するものであるというのが、ポパーのヴェーバーに対する批判でもある。つまりは、事実に基づき認識を改めさせること(=判断の基底(というか、材料?というか)に影響するだろう)は意味があるが、信念についてまで「間違っている」などと言うのは、科学でもまたその役割でもないのである。科学が価値判断に踏み込むことが求められているのではなく、判断の材料を提示したり誤った認識に導くものを除外したりすることなのではないか。


このような感性を持たないか、理解できない人たちは、自らが知っている「知識」を科学であると信じ込み、他人の価値判断にさえそれを援用し、「彼らは間違っている」とか「経済学では明白である」といった断言を繰り返すのであろう。初めから「主観の対立」という普通のことを許容できないのである。故に、結論を一方的に示し、他の意見は全て「論理的に誤りである」と過信しているようにしか見えない。遂には、個人の価値観・世界観批判にまで到達したようではあったが(笑)、それとて政策決定には何ら関係のないことであろう。そういう次元でしか思考できないというのは残念である。


現実の政策決定においては、たとえ科学的に結論が出ていない事柄であっても判断せざるを得ず、大串氏の論説にもあったように、政策論議には「価値観」を避けて通ることができない。「知識科学的転回」というのが、具体的にどのような方法を取るのか示されていないのでよく判らないのであるが、政策決定過程での学術的な知識の役割とは、望ましい認識の方向性や判断の誤りを最小化するような思考の道筋といったことを提示することではないかと思う。そこから先は、具体的には判らない。


「決定主義」に陥らないようにするべきであるとして、プロセスをどのように組み立てるのか、とか、価値創造に繋がるアプローチとはどのようなものか、とか、素人の私が考えてもこれといっていい考えが浮かぶ訳ではない。が、個人的世界観や価値観であれば、いくつかの考えはある(笑)。それが政策決定過程で意味のあることかどうか、自分では判断できないのであるが。自らの無知のせいで、単に、過去の経験との対比で考えるのが関の山である。申し訳ない。


こういう部分こそ、学者の方々が方法論を積み上げていくべきであると思う。特に、科学を自認する学問の方々にこそ、それをお願いしたいのである。



平成19年を迎えて

2007年01月01日 18時04分24秒 | 経済関連
明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い申し上げます。

ちょっと、ビールを飲み過ぎでございます(笑)。


年頭で、天皇陛下のお言葉を拝見いたしまして、そのお心の温かさ、有り難さを感じました。心の奥底に響いて参りました。
我が家で百人一首をしていて、時代を超えてシンクロするものを感じました。

天皇陛下のお言葉は次のようなものでございました。

平成19年の新年に当たり天皇陛下のご感想


 昨年も,大雪や豪雨,台風,竜巻などの自然災害で,150人もの人命が失われたことは痛ましいことでした。新潟県や福岡県では,地震災害のため,この冬も仮設住宅で暮らしている人々のことが心にかかっています。

 また,台風による潮風害などで稲作などに大きな被害を受けた地域もあり,農家の人々の心痛が察せられます。 新しい年の始めに当たり,我が国と世界の人々の幸せを祈り,皆が,互いに信頼し合って暮らせる社会を目指し,力を合わせていくよう,心から願っています。




このように国民の生活について、隅々までお心配りをされておられる天皇陛下のお優しさに触れ、感じ入りました。


百人一首にもあります、持統天皇の御製歌が思い起こされました。

春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香山

春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山


きっと専門的な解釈などでは諸説あるのでしょうけれども、持統天皇が当時の民衆の生活の様子をつぶさに御覧になっておられ、その毎年行われている営みで季節の到来を感じておられるというお気持ちが伝わってまいります。今年の天皇陛下のお言葉の中に、等しく国民のことを案じ、生活の様子を御覧になられていることがよく判りました。国民が感じている痛みや不安を、同じく感じ取っておられるからこそ、「互いに信頼し合って暮らせる社会を目指し、力を合わせていく」ことを求めておられるのです。


自分には大したことはできないが、身近な部分からでも小さい力となれるように頑張りたい。