ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

①韓国文学②韓国漫画③韓国のメディア観察④韓国語いろいろ⑤韓国映画⑥韓国の歴史・社会⑦韓国・朝鮮関係の本⑧韓国旅行の記録

「柳宗悦展」の感想いろいろ

2011-11-12 23:59:30 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 11月9日、私ヌルボの地元でやっているからには行かずばなるまい(←老人語か?)と思い、そごう横浜店に行ってきました。
 柳宗悦(やなぎむねよし)展のことです。

  

 柳宗悦民藝運動を始めた人で、そもそも今ふつうにいろんな所でみられる「民芸」という言葉を作ったのは彼なんですね。1925年に「民衆的な工芸品」という意味で用いたのが最初ということです。

 また、とくに韓国・朝鮮に興味を持っている人にとって、柳宗悦は日本の朝鮮統治時代、光化門を破壊から守った人として知られていることと思います。

 三一独立運動の翌年(1920年)に発表された「朝鮮の友に贈る書」、そして1922年に雑誌「改造」で発表された「失われんとする一朝鮮建築のために」で、「反抗する彼らよりも一層愚かなのは、圧迫する我々である」と批判したり、「光化門よ、光化門よ、お前の命がもう旦夕に迫ろうとしている」というような強い感情表現で朝鮮総督府により企図されていた光化門の取り壊しを批判しました。
 彼の主張は国内外で大きな反響をよび、ついには朝鮮総督府も光化門の破壊を取りやめ、移設されることになったというわけです。
 これらの文は「民藝四十年」(岩波文庫)に収載されています。韓国・朝鮮に興味をお持ちの方、未読であればぜひご一読を!(立ち読みでも読めるほどの長さ)

 柳宗悦が朝鮮に持つようになったのは、1914年浅川兄弟の兄・伯教が我孫子に住んでいた柳宗悦を初めて訪問した時、手土産とした白磁染付秋草文面取壺に心を奪われたことがきっかけとなったそうです。
 上のチラシ(裏)右下隅の写真がこの壺です。私ヌルボ、昨年6月日本民藝館で「朝鮮陶磁‐柳宗悦没後50年記念展」をやっていた時に初めて現物を見ました。今回の「柳宗悦展」でも展示されています。
 1916年、27歳の時に彼は初めて朝鮮を旅し、とくに李朝の陶芸を中心とする朝鮮芸術に深く心を奪われて、以後朝鮮の陶磁器や古美術を収集し、1924年には浅川伯教・巧兄弟等と景福宮内に朝鮮民族美術館を設立します。

 ・・・と、以上が柳宗悦の、主に朝鮮との関係についての概観。

 で、今回「柳宗悦展」で知ったこと、考えたことを以下列挙します。
 端的に言って、彼は本当にいろんな点で恵まれていたなあ、ということです。

①柳宗悦は生まれ・育ちに恵まれた。つまりは「いいとこのぼっちゃん」だった。
 父親の柳楢悦は海軍少将で貴族院議員。軍人とはいっても海軍水路部で沿岸の測量を指揮していた科学者で、和算の大家でもあり、ウィキによると「日本水路測量の父」、「海の伊能忠敬」と称されるとのことで、<ASIA WAVE>というサイトの記事には「宗悦は二歳になる前に父と死別しているが、柳の開拓者精神、分析能力と蒐集癖は父親譲りと思われる」とあります。
 母は、かの有名な柔道家、講道館を創立した嘉納治五郎の姉です。
 物心がつく前に父を亡くした宗悦自身の気持ちはわかりませんが、学習院高等科から東京帝国大学と、いかにもという道を進み、写真を見ても(堀口大學や萩原朔太郎と違って)まじめそうな風貌の少年で、少なくと経済的には恵まれた環境で育った上流階級のぼっちゃんだったといっていいでしょう。
 実際、「柳宗悦」と「ぼっちゃん」の2語でネット検索すると相当数のヒットがあって、ずっと以前から露骨に「ぼっちゃん」というだけで彼を貶めるような見方もあるようです。中にはやっかみが透けて見えるようなものも・・・。
 しかし、私ヌルボは「ぼっちゃん」だからといって彼を否定するものではありません。逆に、であるがゆえにふつうの人だと当たり前すぎてとりたてて注目することのなかった民具の「美」に「気づいた」わけだし・・・。

②柳宗悦は奥さんに恵まれた。
 妻の柳兼子は優れた声楽家です。宗悦の熱心な求愛で結婚しました。「柳宗悦展」で、「宗悦を物心両面で支えた」という意味の説明文がありました。「物」については、朝鮮民族美術館の設立資金集め等で、ずいぶん多くを兼子のコンサート収益に頼っていたようです。「心」については、「柳宗悦を支えて 声楽と民藝の母・柳兼子の生涯」(現代書館)を読んだ方の感想によると、宗悦は「兼子の民藝運動への協力にも素直に感謝というふうにはならずに、却って家庭の中で兼子に対してわがままに振る舞うことでバランスをとっていたふしがある」ということだし・・・。
「白樺文学館」のサイト中の記事によると、「兼子さんは、日本の戦争政策に反対し軍歌を歌うことを拒否したために、第二次大戦中は活躍の場を奪われた」とか・・・。そごう美術館のショップでも「柳宗悦を支えて 声楽と民藝の母・柳兼子の生涯」を売っていて、10ページ分ほど立ち読みしましたが、興味がもてそうな内容の本でした。(買わなかったけど・・・。)

③柳宗悦は、友人等、周囲の人々に恵まれた。
 1914年に柳宗悦は新妻の兼子と我孫子(手賀沼のほとり)の嘉納治五郎の別荘地前に移住します。その後彼の誘いで志賀直哉夫妻や武者小路実篤夫妻等の白樺派の仲間も住むようになります。(人間としての実体験を積む場として、あえて冬の寒さや夏の虫の多さなどを受け入れ、「水道よりも井戸水、電灯よりもランプ」の生活を選んだのだそうです。) そのような白樺派の仲間、バーナード・リーチ浅川伯教・巧兄弟、宗悦によって見出された棟方志功など、類が友を呼んだ結果かもしれませんが、宗悦の生涯をみると実に多くの優れた人たちがいたことがわかります。

④柳宗悦は、時代に恵まれた。
 主に民芸についてですが、①に書いたように、(ヌルボ思うに)宗悦は「ぼっちゃん」なるがゆえに民衆が日常用いている工芸品に「美」を見出し得ました。また産業の発展から考えると、手作りの時代から徐々に工場で規格品が大量生産される時代へと移っていく。ちょうど江戸時代あるいはそれ以前のさまざまな習俗が失われ始めた明治後期~大正時代に、柳田国男が日本民俗学を創始したことと、柳宗悦が民芸に着目したことは軌を一にしているのではないでしょうか?

 ④に関連して、私ヌルボが感じたこと。
 展示されていた民芸品についての印象ですが、それが「美しい物」として掲げられると、どうもキレイな結晶を抽出したという感じで、民衆的な泥臭さといったものが失われてしまっているように思われました。
 宗悦自身は<「用」を離れて「美」は存在しません>というようなことを述べているようですが、「美」のカテゴリーに入った時点で「用」のそれからは抜けてしまったような・・・。
 今の時代となると、明らかに<手作り>は「ふつう」どころか、専門の職人が手間暇かけてこしらえた高級品の部類でしょう。
 そごう美術館のショップには、長男の柳宗理さんデザイン研究所による食器類が売られていましたが、ミルクパンが4千円(!)等々、ヌルボのような庶民にはちょっと、というお値段がついていること自体、「手作り」の「民芸品」の「美しさ」の歴史的・市場的価値の推移を示しているといえるのではないでしょうか?

 以上が感想。
 その他この「柳宗悦展」では、宗悦が若い頃バーナード・リーチを通じて知り、大きな影響を受けたウィリアム・ブレイクのこととか、彼が木喰の再発見に果たした役割等々についても知りました。

 ・・・ということで、いろいろ収穫のあった催しでした。
 本当は、知識よりも感動を求めたいところなんですけどねー。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする