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集英社の全集「戦争×文学」 第1巻「朝鮮戦争」の口絵 ②ピカソ「朝鮮の悲劇」と信川虐殺事件

2012-06-15 23:51:08 | 韓国・朝鮮に関係のある本
 →1つ前の記事の続きです。

      

 集英社の全集「 戦争×文学」第1巻「朝鮮戦争」の口絵にあるピカソの「朝鮮の虐殺」です。(パリ・国立ピカソ美術館所蔵)
 ナポレオン軍によるマドリッド攻略時の虐殺を描いたゴヤの「マドリード、1808年5月3日」を下敷きにして描いたと言われている作品です。
 1951年、当時フランス共産党員だったピカソが、米軍の朝鮮半島介入に反発するフランス共産党に依頼され描いたものだそうです。(しかしフランス共産党から「殺人者の実体が不明瞭」だとして「酷評」され、結局フランス共産党と袂を分かつ結果となったそうです。)

 ところが、本書巻末の口絵解説(木下長宏)を見て、私ヌルボ、「あれっ?」と驚きました。次のように書かれていたからです。
 「[2]は、戦争が始まる前、済州島で起った武装蜂起とその弾圧、民衆虐殺を知ったピカソが制作した。(以下略)」

 あれれ、この作品は朝鮮戦争中の黄海南道・信川(シンチョン)郡での集団虐殺にインスピレーションを得て描いたもの、・・・と大方の、いや、すべての関係記事に書かれています。
 木下長宏先生は何かしっかりした根拠があって済州島の四・三事件と書いているのか? いろいろ日本と韓国のサイトを検索してみましたが、やはり済州島としているものは皆無。もしかして、思い違い?

 ・・・ということで、首を傾げつつも私ヌルボ、その信川虐殺事件についてみていくことにします。

 以下、記事作成に当たっては、次の2つの記事に多くを負っていることを最初に明らかにしておきます。
 [A] <愛・蔵太の気になるメモ>というブログの記事「ピカソの絵「朝鮮の虐殺」(Masacre en Corea)と信川虐殺事件について」
 [B] 韓国ウィキの「신천군 사건(信川郡事件)」の項目

 まず、この事件の概略から。
 1950年6月25日の朝鮮戦争開戦以後、半島の南端にまで追いつめられた国連軍は、9月半ばの仁川上陸作戦以降勢力を挽回し、9月28日にソウルを奪回、そしてさらに38度線を越えて進撃し、10月20日には平壌を制圧します。
 その間、10月17日から、米軍が中国人民義勇軍の参戦で撤収を余儀なくされるまでの12月7日までの52日の間に、黄海南道(現・北朝鮮)信川郡で起ったのがこの良民虐殺事件です。当時の信川郡の人口の4分の1の35,383人もの、女性や子どもを含む多くの人々が殺された、とされています。
※この事件を、韓国では「信川虐殺」や「信川虐殺事件」とよび、北朝鮮では「信川大虐殺」という。

 では、一体誰がこの虐殺を行ったのか?
 肝心の点であるにもかかわらず、上記の韓国ウィキには複数の異なる見方があげられています。

①米軍が加害者である。[北朝鮮の主張]
 ハリソンを隊長とする米軍1個中隊による蛮行である、とするもの。
 上記[A]の記事に引用されている「朝鮮新報」(朝鮮総聯の機関紙)の1999年10月の記事「ニュースの眼/朝鮮戦争時の米軍の虐殺」には次のように記されています。
 朝鮮社会科学院歴史研究所の資料によると、米軍は平壌など34の地域で17万2000余人の非戦闘員を虐殺している。 
 とくに50年12月7日、黄海南道信川郡で起きた婦女子虐殺事件は米軍の残忍性をそのまま物語っている。米軍は2つの火薬庫に母親と子どもを分けて閉じこめ、ガソリンをかけて火を付けた。そして400人の母親と102人の子どもを含む910人を虐殺した。
 信川郡を占領した米軍司令官のヘリソンは「母親と子どもが一緒にいるのは、あまりにも幸福すぎるではないか。ただちに引き離して別々に閉じこめろ。そして母親は子どもを捜しながら死に、子どもは母親を捜しながら飢え死にするようにしろ」と叫んだという。

※この記事は、AP通信が朝鮮戦争当時の米軍による老斤里住民虐殺事件を報じて以来の、韓国内での関連事件の真相究明の動きに呼応したものです。(ヌルボ)

 また北朝鮮では、金日成首相(当時)の提案で信川博物館(→韓国ウィキ)が造られ(1958年開館)、数千点の資料が展示されています。代表的な反米教育の場として、反米糾弾会や決議会議などの関連行事が開かれ、また外国人旅行者の見学ポイントにもなっています。

 2005年1月の「朝鮮新報」の記事「信川博物館を訪ねて 米軍による大量殺りく「朝鮮版アウシュビッツ」」によると、博物館の女性案内人は米軍による凶悪な犯罪の詳細な説明として次のようなことを語っています。
 「信川地区米軍司令官であったハリソンは、共産主義者の種を絶やさねばならないと、火薬庫に一緒に収容されていた母子を引き離し、殺せと命じた」 
 「母の懐から子どもを引き離した米軍は、母子を別々の部屋に入れ、ガソリンをかけて焼き殺した」
 「橋の上で逃げ惑う人々に一斉射撃を加え、川に落として2000人を虐殺、貯水池でも1000人の女性たちを水攻めにして殺りく。さらに冷凍倉庫に1200人の愛国者を閉じ込め、軍犬を放ってかみ殺させた」
 「小学校の校長の頭を切断し、信川たばこ工場の女性党委員長の両目と乳房をえぐりとった。また、妊婦の腹を切り裂き、9ヵ月目に入った胎児を取り出して銃剣で突き刺した」
 (これらの米軍の残忍な蛮行を示す6465点の遺物、証拠資料、450余件の写真資料が、博物館に展示されていた。)


 2000年夏にここを訪れた日本人旅行者のブログ記事に、この博物館に展示されている「米兵による蛮行」を描いた絵が10枚、その他蛮行の証拠写真等が載せられています。(米兵の顔が悪辣このうえない表情に描かれています。)
 最近読んだ柳美里「ピョンヤンの夏休み」に、この博物館を訪れたことが書かれていました。彼女の受けとめ方は、いたって「すなお」です。
 この本を読んだ人のブログ記事にも「信川大虐殺の博物館の記述に、米国に対する怒りで気持ちが暗く沈んでしまった」という「すなお」なもの(→コチラ)もあれば、「案内員に言われたことをそのまま信じているだけである。「朝鮮戦争時に、アメリカ兵が子供の腕をノコギリで切り落とした」とか、まともに信じているらしい」という「すなおじゃないもの」(→コチラ)もあります。

 この博物館を訪れた別の旅行者のブログ記事には
次のような記述が・・・。
 「米兵が、ノコギリで頭を切ったとか、ハンマーで頭に釘を打ち付けたとか、複数の牛をそれぞれ違う方向に走らせて労働者を八つ裂きにしたとか、まるで、紀元前の中国における刑罰のような展示ばかりでした。」

 ・・・さて、上記のような米軍による虐殺説が韓国(の為政者)にもふつうに受け入れられてきたがゆえに、親米軍事政権下においてはこの事件のことは(済州島4.3事件同様)タブーとされてきたのです。そしてピカソの「朝鮮の虐殺」も・・・。[A]の記事中の徐勝氏の文によると「1960年代の半ば、この絵が収録されている平凡社版の世界美術全集だったかが、輸入禁止になっていたことを思いだす。当時は、この図版を所持するだけで反共法違反で処罰されたものだ」とあります。

 それが上述のAP通信の報道や、盧武鉉政権による過去事清算事業が進められる中で、老斤里事件の他、保導連盟事件居昌事件等、朝鮮戦争の韓国軍や米軍による民間人虐殺事件もようやく明らかにされてきました。
 そんな中で、「朝鮮の虐殺」も2004年6~9月果川(クァチョン)の韓国国立現代美術館で公開されるに至ります。「この報せに接して隔世の感を禁じえない」というのが徐勝氏の感想でした。

①’米軍が加害者である。[国際民主法律家協会の主張]
 前掲の[B]によると、北朝鮮だけでなく、国際司法団体である国際民主法律家協会も、1952年3月の報告書で加害者が米軍であると結論づけています。1952年に平安道、黄海道、江原道等、多くの地域を訪問・調査をして作成した 報告書で、その中で信川の事例を記しています。
 「1950年12月7日、米軍が撤退する直前、ハリソン(信川米占領軍司令官)は、・・・すべての「アカ」の支持者たちを殲滅することを指示した。・・・彼の命令はそのまま実行された。信川郡ウォンアム里の倉庫2ヵ所で900人の男女が虐殺された。建物の中には子どもも200人いた。米軍は彼らの服にガソリンを撒いて火をつけた。そして窓の中に手榴弾を投げつけた。・・・」

 ところが近年、「直接の加害者は米軍ではない」という見方が韓国で出てきています。

 続きは次の記事で・・・。(たぶん)

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