韓国併合が1910年。その5年前の1905年11月に第2次日韓協約が結ばれました。これにより大韓帝国の外交権はほぼ大日本帝国に接収され、翌12月には統監府が置かれて伊藤博文が初代統監として着任します。この条約はその年の干支から乙巳条約ともいわれ、韓国ではこの条約に賛同した李完用など大韓帝国の5人の閣僚を「乙巳五賊」とよんで歴史上の大悪人としています。
その統監の官邸跡は、現在の南山公園にあります。
南山といっても、山の上の方ではなく、明洞駅から南東方向に直線で約300m、小波路(ソパロ)の大韓赤十字社の向かい側の道を入り、南山芸術センターの裏手を回ってユースホステル方向に少し登った辺りです。
私ヌルボは、現地に行ってないので写真ナシ。上画像は<NAVER地図>から加工したものです。
奥に見える四角い石碑(右画像)は「통감관저 터(統監官邸跡)」と刻まれたもので、2010年8月29日、つまり韓国併合条約が発効した日のちょうど100年後に民族問題研究所が建てた標石です。その条約が寺内正毅統監と李完用首相によって調印された日が1週間前の8月22日で、その場所が統監官邸だったとのことです。
※8月29日は2005年当時の盧武鉉政権によって<<strong>庚戌国恥日(キョンスルククチイル)>とそれた日です。関連過去記事は→コチラ。
なお、統監府の建物があった場所は、現在この坂道の登り口近く(南山芸術センターの南隣)にあるソウルアニメーションセンターの地で、今そこには標石があるだけです。この統監府の建物は韓国併合後もはそのまま朝鮮総督府となり、1926年景福宮の前に総督府の新庁舎ができるまで建物を増築したりて継続使用されていたそうです。
※これらについては<韓国古建築散歩>の記事(→コチラや→コチラ)参照。それによると、上の画像左奥の10mほどの石積みは統監府の遺構なのだそうです。また→コチラのブログ記事も参考になります。
ここで話は変わって、半世紀ほど時代を下ります。
1961年以降この一帯は朴正熙政権下の韓国中央情報部(KCIA)→全斗煥政権下の安全企画部(安企部)の施設があった所として知られていました。(冤罪も含めて)多くの民主化運動の活動家等が拷問を受けた所で、当時は「南山」という符丁だけで怖れられたといいます。その本部棟が上記のユースホステルでした。そして道路の反対側にある(現)総合防災センターの建物は本部と地下道でつながっていて、その地下には取調室(拷問部屋)があり、またこの坂道の入口近くにある文学の家という施設は1975~90年KCIAと安企部長の公館だったとのこと。その他、関係の建物は40以上もあったそうですが、90年代以降壊されたりして、今は4分の1くらい(?)になっているとか。これらの施設を遺そうという声もあるそうですが・・・。
中央情報部の遺構等について詳しく書くときりがなくなってくるので、いずれ現地にも行ってみた上で別建てての記事にしようと思います。
また、統監府関係も含めて韓国記事等をいろいろ読む中でいろいろなことが見えてきました。つまり、統監府や中央情報部といった多くの韓国人にとっての<負の歴史>の場をどのような形で遺すか(or残さないか)といった問題は現在の歴史認識問題と直結するわけで、その歴史認識は日韓間の問題以前に韓国内の保守・進歩両陣営間で大きな差があるため、時のソウル市長や大統領等の政治的立場や、有力市民団体等の(政治的色彩を帯びた)主張や時の一般世論等を反映するものとなり、さらには今後どのような理念をもって都市空間を創造するのかという構想や、もしかしたら土建業界への利益誘導(?)ということまでからみあって、「過去の」失われつつある遺物の問題が生々しい「現在」の政治・社会問題であるということ。
そんな中、もうひとつ新しい「歴史記憶」のコンテンツがこの地に付け加えられました。
これは上の統監官邸跡の画像と同じ場所を同じ方向から見たもの。先の方は<NAVER地図>でしたが、こちらは<DAUM地図>です。前者は2016年8月29日より前に撮影されたものですが、こちらはその日以降に撮られたものです。比較してみてください。中央に新しいモニュメントのようなものが造られています。
それが何かというと・・・。
「日本軍慰安婦記憶の場(일본군 위안부 기억의 터)」です。2016年8月29日はその除幕式が行われた日でした。上述の庚戌国恥日です。(※またこの公園を「慰安婦追慕公園」とよぶようです。)
実はこの記事は、このモニュメントの問題をテーマにして書き始めたのですが、例によって序文が長くなりすぎました。(←ここまでが全部序文ってことか!?(笑))
・・・ということで、その「本論」は続きで、ということにします。
その統監の官邸跡は、現在の南山公園にあります。
南山といっても、山の上の方ではなく、明洞駅から南東方向に直線で約300m、小波路(ソパロ)の大韓赤十字社の向かい側の道を入り、南山芸術センターの裏手を回ってユースホステル方向に少し登った辺りです。
奥に見える四角い石碑(右画像)は「통감관저 터(統監官邸跡)」と刻まれたもので、2010年8月29日、つまり韓国併合条約が発効した日のちょうど100年後に民族問題研究所が建てた標石です。その条約が寺内正毅統監と李完用首相によって調印された日が1週間前の8月22日で、その場所が統監官邸だったとのことです。
※8月29日は2005年当時の盧武鉉政権によって<<strong>庚戌国恥日(キョンスルククチイル)>とそれた日です。関連過去記事は→コチラ。
なお、統監府の建物があった場所は、現在この坂道の登り口近く(南山芸術センターの南隣)にあるソウルアニメーションセンターの地で、今そこには標石があるだけです。この統監府の建物は韓国併合後もはそのまま朝鮮総督府となり、1926年景福宮の前に総督府の新庁舎ができるまで建物を増築したりて継続使用されていたそうです。
※これらについては<韓国古建築散歩>の記事(→コチラや→コチラ)参照。それによると、上の画像左奥の10mほどの石積みは統監府の遺構なのだそうです。また→コチラのブログ記事も参考になります。
ここで話は変わって、半世紀ほど時代を下ります。
1961年以降この一帯は朴正熙政権下の韓国中央情報部(KCIA)→全斗煥政権下の安全企画部(安企部)の施設があった所として知られていました。(冤罪も含めて)多くの民主化運動の活動家等が拷問を受けた所で、当時は「南山」という符丁だけで怖れられたといいます。その本部棟が上記のユースホステルでした。そして道路の反対側にある(現)総合防災センターの建物は本部と地下道でつながっていて、その地下には取調室(拷問部屋)があり、またこの坂道の入口近くにある文学の家という施設は1975~90年KCIAと安企部長の公館だったとのこと。その他、関係の建物は40以上もあったそうですが、90年代以降壊されたりして、今は4分の1くらい(?)になっているとか。これらの施設を遺そうという声もあるそうですが・・・。
中央情報部の遺構等について詳しく書くときりがなくなってくるので、いずれ現地にも行ってみた上で別建てての記事にしようと思います。
また、統監府関係も含めて韓国記事等をいろいろ読む中でいろいろなことが見えてきました。つまり、統監府や中央情報部といった多くの韓国人にとっての<負の歴史>の場をどのような形で遺すか(or残さないか)といった問題は現在の歴史認識問題と直結するわけで、その歴史認識は日韓間の問題以前に韓国内の保守・進歩両陣営間で大きな差があるため、時のソウル市長や大統領等の政治的立場や、有力市民団体等の(政治的色彩を帯びた)主張や時の一般世論等を反映するものとなり、さらには今後どのような理念をもって都市空間を創造するのかという構想や、もしかしたら土建業界への利益誘導(?)ということまでからみあって、「過去の」失われつつある遺物の問題が生々しい「現在」の政治・社会問題であるということ。
そんな中、もうひとつ新しい「歴史記憶」のコンテンツがこの地に付け加えられました。
これは上の統監官邸跡の画像と同じ場所を同じ方向から見たもの。先の方は<NAVER地図>でしたが、こちらは<DAUM地図>です。前者は2016年8月29日より前に撮影されたものですが、こちらはその日以降に撮られたものです。比較してみてください。中央に新しいモニュメントのようなものが造られています。
それが何かというと・・・。
「日本軍慰安婦記憶の場(일본군 위안부 기억의 터)」です。2016年8月29日はその除幕式が行われた日でした。上述の庚戌国恥日です。(※またこの公園を「慰安婦追慕公園」とよぶようです。)
実はこの記事は、このモニュメントの問題をテーマにして書き始めたのですが、例によって序文が長くなりすぎました。(←ここまでが全部序文ってことか!?(笑))
・・・ということで、その「本論」は続きで、ということにします。
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