ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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4月に亡くなった李進煕和光大学名誉教授と、彼の義父・関貴星さんのこと

2012-06-01 23:50:12 | 韓国・朝鮮に関係のある本
 和光大学名誉教授の李進煕(リ・ジンヒ)先生が4月15日肺がんのため亡くなりました。(「民団新聞」の関係記事は→コチラ。)
 1972年発表した「高句麗広開土王陵碑の研究」で広く(?)知られる歴史学者です。(ふつう高句麗広開土王碑改竄説として理解されてます。)

 私ヌルボ、このニュースに接して、過日彼の自伝「海峡 ある在日史学者の半生」(青丘文化社.2000年)をたまたま400円という安価で入手したままツンドクになっているのを思い出し、読んでみました。

      
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 1929年現在の釜山市広西区生まれの彼は釜山の中学校卒業後、1946年親許を離れて来日しましたが、この本ではその経緯や、それまでの少年時代のこと等は何も書かれていません。書けない「事情」があると思われます。
 土浦市の朝聯茨城中央小学校の教師時代や、49年の登呂遺跡発掘の新聞記事に触発されて50年明治大学に入学し考古学を学ぶことになった等々、「編年的」に辿って行くと長くなってしまうので、今回はとくに私ヌルボが読んでいてビックリしたことを中心に書きます。

 それは1960年、安保闘争の年で、彼が朝鮮高校の教師をしていた頃です。岸首相が退陣し、世情が鎮静化した9月、彼にとってまったく予想外のショッキングな事件がおこります。

 それは8月に日朝協会の「8.15朝鮮解放15周年」を祝う代表団の一員として平壌を訪れた義父・呉貴星(日本名・関貴星)さんが9月12、13日頃岡山から上京してきて、新橋のホテルに李進煕先生夫妻を呼び出し、そして語った北朝鮮旅行の話のことです。

 「ホテルに尋ねていくと義父は興奮していて、話の中身は私には想像を絶するものでとても信じ難い内容だった。」と彼は記しています。

 その内容を要約すると、以下のようなものです。
①北京から北の特別機で平壌入りした使節団一行は「国賓」待遇で連日のご馳走攻めだったが、行動の自由がなく、ホテルのそばの大同江畔の散歩も許されなかった。 
②平壌に住む帰国者にも会わせてくれなかった。旧友にも会えなかった。

③「義父の話は、正直いって半信半疑だったが、寺尾五郎と清津へ向かう汽車の中で、数人の帰国青年に取り囲まれたときの話はショックだった。「僕らはあなたの本を読んで、この国にやって来たんだ。書いたのと全く反対ではないか。騙されて一生を棒にふった僕たちをどうしてくれる・・・・・・」と詰め寄られたのである。寺尾の本とは、『三八度線の北』(新日本出版社.1959年)のことである。 
※③の寺尾五郎氏が帰国青年に取り囲まれて・・・というエピソードはいくつかの本で読んだ記憶がありますが、モトは関貴星さんが直接居合わせた時の話なんですね。

 さて、「帰国事業を間違いだとする主張には賛成できなかった」という彼は関貴星さんに反論し、貴星さんは「部屋から出て行け」とどなって翌日岡山に帰ってしまいます。
 その後貴星さんが北朝鮮の現状を暴く本を書くらしいという話が伝わり、李進煕先生はそれを阻止するために奔走しますが、結局貴星さんの本楽園の夢破れてが1962年3月全貌社から刊行されます。

  問題の本の刊行後間もなく、総聯中央の男が李進煕先生を呼んで出版に関与したか否か詰問したそうです。その本の及ぼす悪影響について同じ判断であることを確認したにもかかわらず、その男は「呉貴星の罪状を暴露、糾弾する文章を『朝鮮新報』に書くべきだ」と言ったそうです。(李進煕先生は無言で席を立った。)
 この間、関貴星さんのそれまでの人間関係はずたずたになってしまいますが、その中でもとくに娘の呉文子さん・その夫の李進煕先生との義絶は最たるものでした。

 61年から李進煕先生は朝鮮大学校の教員になります。しかし60年代後半になって、北朝鮮内での主体思想宣伝に乗って、朝鮮総聯内で金炳植副議長を中心として思想的締めつけが強められ、しばしば反対の主張を述べたりしていた彼は結局1971年朝鮮大学校を去ります。
※1960年から同じ朝鮮大学校の歴史地理学部教員で、65年『朝鮮人強制連行の記録』を出版して大きな反響を呼んだ朴慶植教授も、思想総括の対象とされて「さまざまな圧力と嫌がらせ」を受けて合計8ヵ月入院した末70年同校を去っています。

 このような過程を経て、1972年5月、李進煕先生は北九州市に住む呉貴星さんを訪ねて詫びをいれます。
 「十年も絶縁状態がつづいたが、義父は「そうか」と言っただけで、それ以上は言及しなかった。義父がこだわった北朝鮮への帰国者数が激減したばかりか、六八年から七〇年までの三年間は帰国船が止まるほどだった。また私が大学を辞めたことで長い間のわだかまりが氷解したようだが、十年前とは別人のように老けていた。在日朝鮮人社会で「村八分」にされたために受けた精神的苦痛が大きかったのだろう。その後は年に一度ぐらい顔を合わすようになったが、互いの気持ちが分かりあえるだけに不思議と政治の話には触れようとしなかった。」

 貴星さんは1986年世を去ります。その後97年に『楽園の夢破れて』は亜紀書房から再刊されます。
 「三五年経った今読んでも、北朝鮮の現状を直視せよという義父の警告は鋭いのである」と李進煕先生は記しています。

 この自伝には、70年代以降も「季刊三千里」のこと、1972年の『広開土王陵碑の研究』の刊行とその反響のこと、81年の金達寿・姜在彦両氏とともに韓国を訪れた時のこと等々、興味深い記述が続いています。
 それらについては、機会があれば後日記すということにします。
(李進煕先生について書くか、関貴星さんについて書くか、迷いながら書き始めましたが、結局中途半端になってしまいました。)

★付記 
 『楽園の夢破れて』については、いずれ詳述したいと思います。この本が出た時点で北朝鮮への帰国者は約3万人。その後さらに6万を超える人たちが「帰国」したわけです。
 その後北朝鮮の内実について書かれ、反響をよんだ本としては金元祚『凍土の共和国-北朝鮮幻滅紀行』(亜紀書房.1984年)があります。これに比べると『楽園の夢破れて』の反響はそれほど大きくはなかったようです。総聯の逆宣伝も大きかったようですが、当時は北朝鮮や金日成に対するイメージが今とは全然違っていた、ということが大きかったのではないでしょうか? また発行も当時は「右翼」出版社として知られた全貌社だったので、「ふつうの人」が読んだとしてもマユツバものととられたと思います。
 しかし、そんな時期に自らも尽力してきた帰国事業の成否を確認する目的で訪朝し、その責任を全うするために、強い使命感を持って見たまま考えたままを組織に抗して発表した呉貴星さんは本当に大した人だと思います。

        
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 私ヌルボは『楽園の夢破れて』とその続編の『真っ二つの祖国 続・楽園の夢破れて』を再編集した北朝鮮1960』(河出書房新社.2003年)も読んでみました。北朝鮮旅行の時の具体的な事実、総聯のさまざまな圧力や嫌がらせとともに、前述のホテルでの娘夫婦や、息子との葛藤についても書かれています。前述のホテルでの会話については・・・、
 「娘婿は男泣きに泣いて私に訴えるのであった。娘も長男も、泣いた。」
 しかし・・・、
 「私は、両瞼をとじて、じっと耐えた。その網膜には、あの北朝鮮で、しいたげられた生活をしいられている数百万の同胞が写っては消えた。あの人たちは、いま、必死になって光への窓口をもとめているのだ。私がこの役割を果たさずして、誰がこの役割を果そうとするか。」
 ・・・と考え、「親子、骨肉の情におぼれてはいけないのだ!」と決意したかれは義絶という手段を選ぶのです。

 その娘で李進煕夫人の呉文子さんは『パンソリに想い秘めるとき ある在日家族のあゆみ』(学生社.2007年)という本を書いています。これも読んでみようと思います。

 昨年(2011年)9月、呉文子さんはMXテレビ<西部ゼミナール>の中の「五十年前、こんな偉大な「在日」がいた」と題した番組に出演して父の貴星さんのことを語っています。→コチラ


[蛇足]
・「李進煕先生」と書いたからといって、私ヌルボが李進煕教授の所論をそのまま受け入れていると早合点しないで下さい。先生と記したのは、学問的&人間的な誠実さを本書から感じたからです。 
・「西部邁ゼミナール」の動画のリンクを張ったからといって、私ヌルボが西部邁氏のいろんな主張に共鳴していると誤解しないで下さい。

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