→前の記事の最後に、李恢成「地上生活者 第4部」(講談社)を読んでいて、「アラッ」と驚いた件(くだり)があったのが許南麒をとりあげたきっかけだと書きました。
この李恢成の自伝的小説は、主人公の名こそ趙愚哲としているものの、実在の人物がたとえば慎錫範(金石範)、雁雨植(安宇植)、金鶴翔(金鶴泳)、林時鐘(金時鐘)等々、すぐ察しのつく変名で数多く登場します。
そして許南麟とあるのがもちろん許南麒。(こんな変名にする意味がどこにあるんでしょうね? 虚構の部分があるということ?)
【在日作家たちの間の人間関係、考え方の違い等が読み取れます。】
李恢成は1961年早稲田大を卒業後、朝鮮総連そして朝鮮新報社に勤務します。
小説では、趙愚哲が民族新聞社(朝鮮新報)の報道部にいた時、総連の「統一評論」誌に載せた小説に許南麟が目をとめ、「わざわざ報道部に立ち寄ってくれた」と記しています。「在日朝鮮人文学者の間では金達鎮と双璧の人物」で文芸同の委員長。「眼鏡の奥のちいさな目と広くて平べったいひたいをもつ彼は相手をじっと見つめ、やわらかい口調で話す人であった」。
・・・と、この当時の李恢成は、まだ「社会主義建設の記事を読者につたえるのが歓びだった」(「死者と生者の市」より)という頃だったので、こういう書き方になっていますが、その後李恢成も67年1月1日に新聞社を辞めることになります。
※金時鐘「わが生と詩」(岩波書店)に金時鐘と梁石日の対談が収められていますが、同様の内容を→コチラで見ることができます。これによると梁石日は許南麒を批判した文を書いたために組織を出ることになったとか・・・。金時鐘も早く(1950年代)から組織批判、許南麒の作品批判を正面切って行っています。(朴鉄民(編)「在日を生きる思想」(東方出版.2004)所収の金石範との対談等)
1966年、許南麒は総聯中央常任委員会副議長に就任し、総連内のトップレベルの地位に上りつめます。
「地上生活者 第4部」を読み進むと、「冬季オリンピックが終って二週間ばかり経っていた」というと1972年2月。「ぼく愚哲」は学生時代以来の友人の宋東奎と「新宿西口の高速バスターミナル近くの「海辺のように大きい」喫茶店」で北朝鮮のことや組織のことを語り合います。
(宋東奎)「トンム(=愚哲=李恢成)は林勝(=徐勝)がまだ高校生のときに中央教育部にいて、京都での合宿でコーチしたことがあったといっていたが。首相(=金日成)は林勝を義理の息子として遇している。・・・」
・・・などという甚だ興味深い記述もありますが、それはそれとして、許南麒のことに絞ると・・・。
(宋東奎)「トンムは『金日成伝』を読んだかい。上質のカバーをもつ大部の本だが」
(ぼく愚哲)「三年前・・・・六九年だかに出たやつだろう。ぼくは詩人・許南麟(=許南麒)がああいうのを翻訳しているのをみると悲しくなる。この人がはたしてあのすぐれたプロレタリア詩『火縄銃のうた』とかハイネの長詩に似せた『朝鮮冬物語』を書いた人物と同じ人物なのだろうか、と。前歴に泥を塗るようなものでしかない。なんで韓議長の詩の手直しかなんかでお茶を濁しているんだろう。自分本来の詩を発表して、なんなら副議長職を袖にするくらいの度胸があの人にあればいいんだが。惜しい人だよ」
「うむ」と宋東奎が呻った。
ぼく愚哲はそのときふとおもいうかんだことがあった。
「いつだったか、あんたとぼくがタクシーで富士見町(=朝鮮総聯)まで許南麟先生を送ったときのことだ。彼が車を降りしなに洩らした言葉がいまだに忘れられない。『さあ、これから嘘をつきにいくか』。ぼくはどきっとしたがね。これが文芸同中央委員長の本心なのか。やはり抵抗詩人の片鱗はもっているんだと複雑な心境だったが・・・・」
・・・この文中の許南麟の洩らしたという『さあ、これから嘘をつきにいくか』という言葉。愚哲が「どきっとした」だけでなく、私ヌルボが「アラッ」と思ったのもこの言葉です。
在日の多くの作家や学者が組織を離れる中で、組織に残り高位に就いた彼。北朝鮮では独裁者の英雄化・偶像崇拝と異端の排除が強まり、日本の組織でも教条主義と統制が進む中、かつての「抵抗詩人」の心の内はどうだったか?
わりと知られていると思われるヒトラー・ジョークに、
<「知的である」「誠実である」「ナチである」という3つの命題の全てを満足することはない>
・・・というものがあります。(一部で「ヤスパースのパラドックス」とよばれているようですが、根拠不明。)
この「ナチ」を「金日成主義者」に置きかえても命題は成り立つでしょう。
多くの在日知識人たちは「知的」であり、「誠実」であろうとしたゆえに組織を離れるしかなかった。許南麒の場合は、早くから理念的にも社会主義の理想に浸り、組織のメンバーとして活動していたがために、祖国とその指導者の実像を見抜くに足る「知」を十分に持ちえなかったのか、とも思いましたが、上記の『さあ、これから嘘をつきにいくか』という言葉が虚構のものでなければ、彼は本心を偽っていたということになります。
小説では、「ぼく愚哲」がそんな思い出を打ち明けると、宋東奎は次のような話をします。
「トンムはひとに幻想を持たない方がいいよ。純真すぎるんだ。あるものをそのままの姿で見つめるべきだろうね。私はつねにそう心懸けているが。たしかにこの私もあの先生の『朝鮮冬物語』とか『朝鮮詩選』には心を躍らされた。中・高時代には朝鮮の詩や詩調(ママ)をまなんでいるからね。金素月とか詠み人知らずの『春香伝』や『沈清伝』とか。そりゃ、みごとなものだ。しかし、それは過去の話だ。いまの許南麟にはかつての抵抗詩人の面影はない。残念ながらいまの許南麟は共和国の『白峯』-どんなやつらが集団創作したか、みえみえだがね-そいつの翻訳で暇つぶしをしている牙を抜かれた人間でしかない」
「たしかに『白峯』著のこの読み物はいろんな点で感心しない」
「なにのんきなことをいってる。個人崇拝のきわまれる産物じゃないか」 彼は嘲笑するようにいった。
この小説の場面と同じ1972年、金日成主席誕生60周年に際して許南麒は金日成勲章を授与されます。
彼の伝記「鶏は鳴かずにはいられない」(孫志遠.朝鮮青年社.1993)には、その3年後彼が作った「偉大な主席に捧げる詩」(1975)が掲載されています。
末尾6行は次の通りです。
ああ、民族の太陽よ!
革命の偉大な首領
キム・イルソン元帥よ!
在日六〇万同胞の
父なる
キム・イルソン元帥よ!
かつて彼が書いた抵抗詩と引き比べると、実に無残な思いにとらわれざるをえません。
川村湊先生は「生まれたらそこがふるさと」(平凡社.1999)で、彼は本質的に日本語詩人にほかならなったと規定しています。自らの内なる「囚われた言葉」=日本語を駆使して「抵抗詩」を書き続けた彼が朝鮮語で書いた詩は、緊張感をすっかり喪失した、見るも無残なプロパガンダ詩にしかなっていないことがそれを例証している、というわけです。
しかし私ヌルボは、「現実の彼の置かれた地位や立場といったものが、彼をして朝鮮語でプロパガンダ詩を書かせた」と単純に理解しています。たとえば金時鐘のような詩を彼が書くことは許されることではなかった、ということです。
そんな現実的制約の中で生きざるをえなかった彼の「正体」が、はからずも『これから嘘をつきにいくか』と口をついて出てしまうことがあったにせよ・・・。
その後許南麒は1977年朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議代議員に当選します。そして1988年70歳で世を去り、平壌郊外の愛国烈士陵に葬られます。その碑文に、
「祖国の解放と社会主義建設、統一偉業のためにたたかい犠牲になった愛国烈士たちの偉勲は永遠に輝くであろう」
と記されているそうです。(「鶏は鳴かずにはいられない」による。)
石碑を建てるのであれば、川口朝聯学園の跡地に「これがおれたちの学校だ」の詩碑を建てる方が本来の彼のためでもあり、(ついでながら)朝鮮学校無償化を求める運動の理念に沿うことになるともヌルボは本気で思うのですが・・・。
前出の「在日を生きる思想」の中で、李恢成は英雄主義について次のように語っています。
「在日の体制的文学者は、しばしば権力擁護のための美しい文章を書くでしょう。頌歌(オード)をね。実は忠誠を示すというより、自分の利益導入のためにやられてるんだけど。
『冗談』や『不滅』を書いたミラン・クンデラは、スターリン時代のチェコについてこう言っているんだ。「私は『恐怖政治』の時代に抒情的迷妄が果たす傑出した役割を理解した」「それは私にとって、『詩人が死刑執行人とともに支配した時期』だった」って。これは他山の石とすべき言葉じゃないかな。」
【この伝記がこんな読まれ方をされちゃったとはねー・・・・。】
この李恢成の自伝的小説は、主人公の名こそ趙愚哲としているものの、実在の人物がたとえば慎錫範(金石範)、雁雨植(安宇植)、金鶴翔(金鶴泳)、林時鐘(金時鐘)等々、すぐ察しのつく変名で数多く登場します。
そして許南麟とあるのがもちろん許南麒。(こんな変名にする意味がどこにあるんでしょうね? 虚構の部分があるということ?)
【在日作家たちの間の人間関係、考え方の違い等が読み取れます。】
李恢成は1961年早稲田大を卒業後、朝鮮総連そして朝鮮新報社に勤務します。
小説では、趙愚哲が民族新聞社(朝鮮新報)の報道部にいた時、総連の「統一評論」誌に載せた小説に許南麟が目をとめ、「わざわざ報道部に立ち寄ってくれた」と記しています。「在日朝鮮人文学者の間では金達鎮と双璧の人物」で文芸同の委員長。「眼鏡の奥のちいさな目と広くて平べったいひたいをもつ彼は相手をじっと見つめ、やわらかい口調で話す人であった」。
・・・と、この当時の李恢成は、まだ「社会主義建設の記事を読者につたえるのが歓びだった」(「死者と生者の市」より)という頃だったので、こういう書き方になっていますが、その後李恢成も67年1月1日に新聞社を辞めることになります。
※金時鐘「わが生と詩」(岩波書店)に金時鐘と梁石日の対談が収められていますが、同様の内容を→コチラで見ることができます。これによると梁石日は許南麒を批判した文を書いたために組織を出ることになったとか・・・。金時鐘も早く(1950年代)から組織批判、許南麒の作品批判を正面切って行っています。(朴鉄民(編)「在日を生きる思想」(東方出版.2004)所収の金石範との対談等)
1966年、許南麒は総聯中央常任委員会副議長に就任し、総連内のトップレベルの地位に上りつめます。
「地上生活者 第4部」を読み進むと、「冬季オリンピックが終って二週間ばかり経っていた」というと1972年2月。「ぼく愚哲」は学生時代以来の友人の宋東奎と「新宿西口の高速バスターミナル近くの「海辺のように大きい」喫茶店」で北朝鮮のことや組織のことを語り合います。
(宋東奎)「トンム(=愚哲=李恢成)は林勝(=徐勝)がまだ高校生のときに中央教育部にいて、京都での合宿でコーチしたことがあったといっていたが。首相(=金日成)は林勝を義理の息子として遇している。・・・」
・・・などという甚だ興味深い記述もありますが、それはそれとして、許南麒のことに絞ると・・・。
(宋東奎)「トンムは『金日成伝』を読んだかい。上質のカバーをもつ大部の本だが」
(ぼく愚哲)「三年前・・・・六九年だかに出たやつだろう。ぼくは詩人・許南麟(=許南麒)がああいうのを翻訳しているのをみると悲しくなる。この人がはたしてあのすぐれたプロレタリア詩『火縄銃のうた』とかハイネの長詩に似せた『朝鮮冬物語』を書いた人物と同じ人物なのだろうか、と。前歴に泥を塗るようなものでしかない。なんで韓議長の詩の手直しかなんかでお茶を濁しているんだろう。自分本来の詩を発表して、なんなら副議長職を袖にするくらいの度胸があの人にあればいいんだが。惜しい人だよ」
「うむ」と宋東奎が呻った。
ぼく愚哲はそのときふとおもいうかんだことがあった。
「いつだったか、あんたとぼくがタクシーで富士見町(=朝鮮総聯)まで許南麟先生を送ったときのことだ。彼が車を降りしなに洩らした言葉がいまだに忘れられない。『さあ、これから嘘をつきにいくか』。ぼくはどきっとしたがね。これが文芸同中央委員長の本心なのか。やはり抵抗詩人の片鱗はもっているんだと複雑な心境だったが・・・・」
・・・この文中の許南麟の洩らしたという『さあ、これから嘘をつきにいくか』という言葉。愚哲が「どきっとした」だけでなく、私ヌルボが「アラッ」と思ったのもこの言葉です。
在日の多くの作家や学者が組織を離れる中で、組織に残り高位に就いた彼。北朝鮮では独裁者の英雄化・偶像崇拝と異端の排除が強まり、日本の組織でも教条主義と統制が進む中、かつての「抵抗詩人」の心の内はどうだったか?
わりと知られていると思われるヒトラー・ジョークに、
<「知的である」「誠実である」「ナチである」という3つの命題の全てを満足することはない>
・・・というものがあります。(一部で「ヤスパースのパラドックス」とよばれているようですが、根拠不明。)
この「ナチ」を「金日成主義者」に置きかえても命題は成り立つでしょう。
多くの在日知識人たちは「知的」であり、「誠実」であろうとしたゆえに組織を離れるしかなかった。許南麒の場合は、早くから理念的にも社会主義の理想に浸り、組織のメンバーとして活動していたがために、祖国とその指導者の実像を見抜くに足る「知」を十分に持ちえなかったのか、とも思いましたが、上記の『さあ、これから嘘をつきにいくか』という言葉が虚構のものでなければ、彼は本心を偽っていたということになります。
小説では、「ぼく愚哲」がそんな思い出を打ち明けると、宋東奎は次のような話をします。
「トンムはひとに幻想を持たない方がいいよ。純真すぎるんだ。あるものをそのままの姿で見つめるべきだろうね。私はつねにそう心懸けているが。たしかにこの私もあの先生の『朝鮮冬物語』とか『朝鮮詩選』には心を躍らされた。中・高時代には朝鮮の詩や詩調(ママ)をまなんでいるからね。金素月とか詠み人知らずの『春香伝』や『沈清伝』とか。そりゃ、みごとなものだ。しかし、それは過去の話だ。いまの許南麟にはかつての抵抗詩人の面影はない。残念ながらいまの許南麟は共和国の『白峯』-どんなやつらが集団創作したか、みえみえだがね-そいつの翻訳で暇つぶしをしている牙を抜かれた人間でしかない」
「たしかに『白峯』著のこの読み物はいろんな点で感心しない」
「なにのんきなことをいってる。個人崇拝のきわまれる産物じゃないか」 彼は嘲笑するようにいった。
この小説の場面と同じ1972年、金日成主席誕生60周年に際して許南麒は金日成勲章を授与されます。
彼の伝記「鶏は鳴かずにはいられない」(孫志遠.朝鮮青年社.1993)には、その3年後彼が作った「偉大な主席に捧げる詩」(1975)が掲載されています。
末尾6行は次の通りです。
ああ、民族の太陽よ!
革命の偉大な首領
キム・イルソン元帥よ!
在日六〇万同胞の
父なる
キム・イルソン元帥よ!
かつて彼が書いた抵抗詩と引き比べると、実に無残な思いにとらわれざるをえません。
川村湊先生は「生まれたらそこがふるさと」(平凡社.1999)で、彼は本質的に日本語詩人にほかならなったと規定しています。自らの内なる「囚われた言葉」=日本語を駆使して「抵抗詩」を書き続けた彼が朝鮮語で書いた詩は、緊張感をすっかり喪失した、見るも無残なプロパガンダ詩にしかなっていないことがそれを例証している、というわけです。
しかし私ヌルボは、「現実の彼の置かれた地位や立場といったものが、彼をして朝鮮語でプロパガンダ詩を書かせた」と単純に理解しています。たとえば金時鐘のような詩を彼が書くことは許されることではなかった、ということです。
そんな現実的制約の中で生きざるをえなかった彼の「正体」が、はからずも『これから嘘をつきにいくか』と口をついて出てしまうことがあったにせよ・・・。
その後許南麒は1977年朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議代議員に当選します。そして1988年70歳で世を去り、平壌郊外の愛国烈士陵に葬られます。その碑文に、
「祖国の解放と社会主義建設、統一偉業のためにたたかい犠牲になった愛国烈士たちの偉勲は永遠に輝くであろう」
と記されているそうです。(「鶏は鳴かずにはいられない」による。)
石碑を建てるのであれば、川口朝聯学園の跡地に「これがおれたちの学校だ」の詩碑を建てる方が本来の彼のためでもあり、(ついでながら)朝鮮学校無償化を求める運動の理念に沿うことになるともヌルボは本気で思うのですが・・・。
前出の「在日を生きる思想」の中で、李恢成は英雄主義について次のように語っています。
「在日の体制的文学者は、しばしば権力擁護のための美しい文章を書くでしょう。頌歌(オード)をね。実は忠誠を示すというより、自分の利益導入のためにやられてるんだけど。
『冗談』や『不滅』を書いたミラン・クンデラは、スターリン時代のチェコについてこう言っているんだ。「私は『恐怖政治』の時代に抒情的迷妄が果たす傑出した役割を理解した」「それは私にとって、『詩人が死刑執行人とともに支配した時期』だった」って。これは他山の石とすべき言葉じゃないかな。」
【この伝記がこんな読まれ方をされちゃったとはねー・・・・。】
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