この数ヵ月、在日の小説家・詩人・学者等が書いた本や、彼らについて書かれた本をいろいろ読んでいます。最初は、今年4月亡くなった歴史学者・李進熙の自伝「海峡 ある在日史学者の半生」(青丘文化社.2000)。これについては6月1日の記事で少し書きました。
この本には、李進熙の朝鮮大学校教員当時の同僚朴慶植(1922~98)や、朝鮮大学校を辞めた後に共に「季刊三千里」の編集者として名を列ねた金達寿(1919~97)・金石範(1925~)・姜在彦(1926~)等のことが書かれています。
彼らをはじめ、戦後の主だった在日の小説家・詩人・学者等は、例外なく左翼人士だったと言っても過言ではありません。しかし、だからといって十把一からげに「反日左翼文化人」とレッテルを貼って全否定してしまうのは、乱暴に過ぎます。
たとえば、上にあげたような人々が書いた自分史や、自分史的な随筆、あるいは対談等を読むと、彼らの間の関係性、より具体的には、盟友関係や相剋といったものが見えてきます。
それも、各々が数十年の時間軸の中で生き方(拠って立つ理念、思想的政治的立場や主張等)が変わってきたりもしているわけで、3時限的に見ていくと、なかなか興味深いものがあります。
彼らの間の対立の原因となったのは、具体的には組織(朝鮮総聯)との関係、国籍の問題(朝鮮籍のままか、韓国籍を取得するか?)、(軍政下の)韓国に行くことの是非があげられます。
その中で組織の問題について言えば、1960年代までは在日の8割は朝鮮総聯に所属していました。当時総聯は互助的な組織として在日の人々の間に広く浸透し、また知識人にとっては社会主義が理念的に美しく正しいものに見え、金日成は抗日運動の英雄として、また新生朝鮮の若き指導者として輝ける存在に見えた時代だから総聯を選ぶのは至極当然だったわけです。
ところがその後組織内の教条主義、金日成に対する個人崇拝等が進む中で、上掲の人々は左翼的な考え方は残しつつも、次々に組織を離れてゆきます。そして人により穏やかな脱退やケンカ別れ等の違いはありながらも、結局は全員が総聯を脱退します。
朴憲永をはじめとする政敵、というより政敵予備軍を次々と粛清してスターリン型(&天皇制型&儒教型)独裁体制を固め、社会主義の理想を裏切っていった金日成の北朝鮮と、その出先機関の朝鮮総聯から、彼ら知識人たちが離れていったのもまた至極当然でしょう。
しかし、組織に残ったどころか、その重要ポストにまで就いた詩人がいました。
許南麒(ホ・ナムギ)です。
私ヌルボが許南麒の詩を読んだのは、ずっと以前(70年代頃?)たぶんどこかの古書店で、青木文庫の「火縄銃のうた」を見つけて買ったのが最初ではなかったかと思います。
東学の闘い、万歳事件(三一独立運動)、抗日独立闘争という3代にわたる闘争の歴史を力強く謳った叙事詩で、諸書で指摘されているように、槇村浩の「間島パルチザンの歌」(1932)(→コチラ参照)と内容も形式も重なり合う部分が多いので、なんとなく日本の統治期の作品の作品かと思いましたが、彼の日本語の詩作の多くは戦後間もない頃から朝鮮戦争期に集中しています。その代表作が「朝鮮冬物語」であり「火縄銃のうた」です。
※「火縄銃のうた」の冒頭部分は→コチラ、説明は→コチラ参照。
戦後しばらくの間、許南麒は川口市の朝聯学校の校長等として民族教育に携わりました。
その頃の「これがおれたちの学校だ」等々の子どもたちに呼びかける内容の作品は、今も訴える力を失っていないと、私ヌルボは思います。
その後1955年朝鮮総聯結成され、翌56年朝鮮大学校が創立されて、彼はその講師となり、また総聯の機関紙創刊にも参加します。さらに1959年結成の在日本朝鮮文学芸術家同盟(文芸同)委員長に就任します。
この頃から、日本語での執筆はほとんどなくなります。
詩想の涸渇、ではなくて、朝鮮総聯の綱領第四項で
「われわれは在日朝鮮同胞子弟に母国の言葉と文化で民主民族教育を実施し、一般成人のなかにのこっている、植民地奴隷思想と封建遺習を打破して、文盲を退治し、民族文化の発展のため努力する」・・・とあったからなんですね。
許南麒の経歴を見ると、1918年6月現在は釜山広域市に含まれる慶尚南道東莱郡の亀浦で生まれ、39年に東京へ。日大芸術学部映画科の学生の頃、朝鮮人学生たちで演劇団体・形象座を発足させたが、治安維持法違反で7人が検挙され、劇団は解散。彼も停学処分。40年からは中央大法学部等で学ぶ。44年からは徴用で立川の飛行機工場でプロペラ作り。
終戦直後の45年10月からは在日朝鮮人聯盟で朝鮮語教科書編纂。映画ニュース製作等々、早くから在日組織のメンバーとして活動を始めます。
・・・ということで、当然朝鮮語はふつうに話せるし、学生時代から強い民族意識を持ってきているわけで、上記の母国語(朝鮮語)を基軸とする総聯の方針をそのまま受け入れ、先導していく役割も大きな葛藤や負担もなく担っていったということでしょう。
在日の下の世代にとって、言葉の問題がはるかに重くのしかかったことを、許南麒はどれほど理解できたでしょうか?
その後、前述のように多くの在日作家たちは総聯から離れていきます。終戦直後は、1946年金達寿が編集長の「民主朝鮮」にも共に作品を載せていたことが、その後の2人の人生の軌跡を知ると、逆に信じられないようにも思えます。(※川村湊「生まれたらそこがふるさと」参照)
金達寿は岩波新書「朝鮮――民族・歴史・文化」(1958)を批判されるなどで総聯を離れ、一方許南麒は逆に組織の階段を上がっていきます。
一般に、在日の文学史、あるいは抵抗詩について書かれた本で、許南麒の名前が出てくるのは「朝鮮冬物語」や「火縄銃のうた」とともに登場するのは、1988年70歳で世を去った彼の人生のほぼ前半部分だけ、つまり総聯の組織人として重要なポストに就く以前の、詩人としての彼です。
しかし、私ヌルボは、青年時代に「あのような」作品を書いた人物がどのような後半生を送ったか、以前から興味を持っていました。
それがたまたま最近読んだ李恢成の自伝的小説「地上生活者 第4部」(講談社)の中に、彼に関して読んでいて、「アラッ」と驚いた件(くだり)があったのです。
それがこの記事を書くことになったきっかけです。
・・・という導入だけでもう3600字。例によって長過ぎですね。
本論は[後編]で、ということにします。
→ <詩人・許南麒(ホ・ナムギ)の確固たる人生 [後編]ふと漏らした呟きの底に・・・・>
この本には、李進熙の朝鮮大学校教員当時の同僚朴慶植(1922~98)や、朝鮮大学校を辞めた後に共に「季刊三千里」の編集者として名を列ねた金達寿(1919~97)・金石範(1925~)・姜在彦(1926~)等のことが書かれています。
彼らをはじめ、戦後の主だった在日の小説家・詩人・学者等は、例外なく左翼人士だったと言っても過言ではありません。しかし、だからといって十把一からげに「反日左翼文化人」とレッテルを貼って全否定してしまうのは、乱暴に過ぎます。
たとえば、上にあげたような人々が書いた自分史や、自分史的な随筆、あるいは対談等を読むと、彼らの間の関係性、より具体的には、盟友関係や相剋といったものが見えてきます。
それも、各々が数十年の時間軸の中で生き方(拠って立つ理念、思想的政治的立場や主張等)が変わってきたりもしているわけで、3時限的に見ていくと、なかなか興味深いものがあります。
彼らの間の対立の原因となったのは、具体的には組織(朝鮮総聯)との関係、国籍の問題(朝鮮籍のままか、韓国籍を取得するか?)、(軍政下の)韓国に行くことの是非があげられます。
その中で組織の問題について言えば、1960年代までは在日の8割は朝鮮総聯に所属していました。当時総聯は互助的な組織として在日の人々の間に広く浸透し、また知識人にとっては社会主義が理念的に美しく正しいものに見え、金日成は抗日運動の英雄として、また新生朝鮮の若き指導者として輝ける存在に見えた時代だから総聯を選ぶのは至極当然だったわけです。
ところがその後組織内の教条主義、金日成に対する個人崇拝等が進む中で、上掲の人々は左翼的な考え方は残しつつも、次々に組織を離れてゆきます。そして人により穏やかな脱退やケンカ別れ等の違いはありながらも、結局は全員が総聯を脱退します。
朴憲永をはじめとする政敵、というより政敵予備軍を次々と粛清してスターリン型(&天皇制型&儒教型)独裁体制を固め、社会主義の理想を裏切っていった金日成の北朝鮮と、その出先機関の朝鮮総聯から、彼ら知識人たちが離れていったのもまた至極当然でしょう。
しかし、組織に残ったどころか、その重要ポストにまで就いた詩人がいました。
許南麒(ホ・ナムギ)です。
私ヌルボが許南麒の詩を読んだのは、ずっと以前(70年代頃?)たぶんどこかの古書店で、青木文庫の「火縄銃のうた」を見つけて買ったのが最初ではなかったかと思います。
東学の闘い、万歳事件(三一独立運動)、抗日独立闘争という3代にわたる闘争の歴史を力強く謳った叙事詩で、諸書で指摘されているように、槇村浩の「間島パルチザンの歌」(1932)(→コチラ参照)と内容も形式も重なり合う部分が多いので、なんとなく日本の統治期の作品の作品かと思いましたが、彼の日本語の詩作の多くは戦後間もない頃から朝鮮戦争期に集中しています。その代表作が「朝鮮冬物語」であり「火縄銃のうた」です。
※「火縄銃のうた」の冒頭部分は→コチラ、説明は→コチラ参照。
戦後しばらくの間、許南麒は川口市の朝聯学校の校長等として民族教育に携わりました。
その頃の「これがおれたちの学校だ」等々の子どもたちに呼びかける内容の作品は、今も訴える力を失っていないと、私ヌルボは思います。
その後1955年朝鮮総聯結成され、翌56年朝鮮大学校が創立されて、彼はその講師となり、また総聯の機関紙創刊にも参加します。さらに1959年結成の在日本朝鮮文学芸術家同盟(文芸同)委員長に就任します。
この頃から、日本語での執筆はほとんどなくなります。
詩想の涸渇、ではなくて、朝鮮総聯の綱領第四項で
「われわれは在日朝鮮同胞子弟に母国の言葉と文化で民主民族教育を実施し、一般成人のなかにのこっている、植民地奴隷思想と封建遺習を打破して、文盲を退治し、民族文化の発展のため努力する」・・・とあったからなんですね。
許南麒の経歴を見ると、1918年6月現在は釜山広域市に含まれる慶尚南道東莱郡の亀浦で生まれ、39年に東京へ。日大芸術学部映画科の学生の頃、朝鮮人学生たちで演劇団体・形象座を発足させたが、治安維持法違反で7人が検挙され、劇団は解散。彼も停学処分。40年からは中央大法学部等で学ぶ。44年からは徴用で立川の飛行機工場でプロペラ作り。
終戦直後の45年10月からは在日朝鮮人聯盟で朝鮮語教科書編纂。映画ニュース製作等々、早くから在日組織のメンバーとして活動を始めます。
・・・ということで、当然朝鮮語はふつうに話せるし、学生時代から強い民族意識を持ってきているわけで、上記の母国語(朝鮮語)を基軸とする総聯の方針をそのまま受け入れ、先導していく役割も大きな葛藤や負担もなく担っていったということでしょう。
在日の下の世代にとって、言葉の問題がはるかに重くのしかかったことを、許南麒はどれほど理解できたでしょうか?
その後、前述のように多くの在日作家たちは総聯から離れていきます。終戦直後は、1946年金達寿が編集長の「民主朝鮮」にも共に作品を載せていたことが、その後の2人の人生の軌跡を知ると、逆に信じられないようにも思えます。(※川村湊「生まれたらそこがふるさと」参照)
金達寿は岩波新書「朝鮮――民族・歴史・文化」(1958)を批判されるなどで総聯を離れ、一方許南麒は逆に組織の階段を上がっていきます。
一般に、在日の文学史、あるいは抵抗詩について書かれた本で、許南麒の名前が出てくるのは「朝鮮冬物語」や「火縄銃のうた」とともに登場するのは、1988年70歳で世を去った彼の人生のほぼ前半部分だけ、つまり総聯の組織人として重要なポストに就く以前の、詩人としての彼です。
しかし、私ヌルボは、青年時代に「あのような」作品を書いた人物がどのような後半生を送ったか、以前から興味を持っていました。
それがたまたま最近読んだ李恢成の自伝的小説「地上生活者 第4部」(講談社)の中に、彼に関して読んでいて、「アラッ」と驚いた件(くだり)があったのです。
それがこの記事を書くことになったきっかけです。
・・・という導入だけでもう3600字。例によって長過ぎですね。
本論は[後編]で、ということにします。
→ <詩人・許南麒(ホ・ナムギ)の確固たる人生 [後編]ふと漏らした呟きの底に・・・・>
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