太田さん、
すばらしい新年を迎えてね。
ジューンさんも、このように太田さんにすばらしい新年を迎えてください、
と言っていますよ。
うしししし。。。
手に持っているのは大田さんに送るための僕が書いた手紙の束ですよ。
残念ながらジューンさんには届けることが出来ないので、
僕が、このブログでその内容を伝えたいと思います。(微笑)
僕は、このブログでも、すでに太田将宏さんを紹介しました。
カナダで30年以上暮らし、コンピューター関係の仕事をしてきました。
すでに退職して“老人見習い”をしていると本人は言っていますが、
これまでのクラシック研究の集大成として“4部作”の研究書を書き上げて
僕にもそのコピーを郵送してくれました。
大変読み応えのあるもので、僕はクラシック研究家としての太田さんを尊敬しています。
この気持ちに変わることはありません。
僕は大田さんに対して常々言っていますよ。
感謝の念、尊敬の念を忘れることはありません。
この気持ちは今でも持ち続けています。
それなのに、どうして太田さんに対して批判するのか?
それは、これまでにも僕が何度となく書いてきたことです。
僕は決して太田さんを誹謗中傷しているわけじゃない!
根拠が無いにも関わらず、非難することを誹謗中傷というのですよ!
根拠を挙げながら反論することを“批判”と言うのですよね。
ボクちゃんは批判しているのですよ。
人間は神様ではないのだから、完璧な人は居ないんですよね。
お互いに不完全だから、批判し合いながら人間的に成長してゆく!
“批判の無いところに進歩なし!”
ボクちゃんもそう信じていますよ!
“愛なき批判は空虚にして、
批判なき愛は盲目なり”
そうですよね。
だからボクちゃんは寅さんのように優しい心を持とうと努力しています。
うししし。。。(世界平和を願う笑い)
分かりますよね?
僕がこれまでに太田さんを批判した文章を読めば、
その根底に太田さんに対する“感謝の念、尊敬の念”が文章のそこここに、にじみ出ていると思います。
どうかそのつもりで読んでくださいね。
もし、僕が太田さんに対して感謝の念、尊敬の念を抱いていないとしたら、
少なくとも30の掲示板とブログを含めて、1日4万5千の人が読んでくれる僕の記事に
太田さんのことを初めから取り上げるようなことはしません。
なぜ、太田さんのことを取り上げる気になったのか?
それは、太田さんのクラシック研究書もすばらしいのだけれど、
太田さんと言う一人の人間も実にすばらしい。
すでに言ったように、人間はどんなにすばらしい人と言えども欠点を持っている。
頭の良い人はその欠点を見せないだけです。
人間は誰しも50の欠点と50の長所を持っているというのが僕の持論です。
この数字を500に置き換えても良いし、1000に置き換えてもかまいません。
要するに、人間をじっくりと見つめれば、ほぼ同じ数の欠点と長所を持っていると言いたいのです。
これが、僕がこれまでの人生経験から会得した教訓でした。
だから、良い人と出合えば、その人の良い面ばかりではなく
欠点を理解しようとしたし、
悪い人に出会っても、その人の良い点を見出そうと努めてきました。
“文章は人なり”
このことも僕が人生経験から会得した教訓です。
文章はウソをつかない。
太田さんの研究書を手にとって、僕は何度となくその書を読み返しました。
なぜか?
“文章は人なり”
その研究書の中に太田さんが生きているからです。
ウソをつけない太田さんがその研究書の中に息づいている。
現実の太田さんは短気で、ムカついてコメントを書いてしまうような軽率なところがある。
これまで太田さんが書いてくれたコメントや投稿を見ると、その事がありありと出ています。
面白いほどです。
要するに、どんなすばらしい人でも、
立派な人でも、滑稽と思えるほどの欠点を持っていると言う事ですよ。
もちろん、こうして書いているボクちゃんもそうですよ!うへへへへ。。。
でも、マジだよ!
では、その一例をお目にかけます。
実は、私の下手なピアノでも、recitalをやって欲しい、というお座敷がかかり、
それを断れ切れなく、もはや、加藤氏のたわごとに付き合う時間が、しばらくの間無いのです。
『“ムカついている間は返信を書くな!”に対する返信』より
ここで“リサイタル”と日本語で書くのが日本人の読者には最も分かり易いのに、
わざわざ英語でrecitalと書いています。
太田さんはこの理由を次のように言っています。
このところ、加藤さんの私に対する配慮にも拘らず、きついことをBBSに書いてしまいました。
ただ、私の、言葉に対するsensitivityの故だ、と理解して下されば有難く思います。
外国語の苦手な私の読める文章などは、誰でも読めてしかるべきだ、との私の姿勢が、
案外に、受け入れられないのを解った上でのことでした。
しかし、それでも、例えば、<Mail>にしても二重母音であって、
一般的な<メール>にしたら長母音になり、妥協したとしても、
せいぜい<メイル>でだろう、と愚考している次第です。
仮名、漢字にアラビア数字までを混ぜた文章を書くくせに、
Alphabetを拒否する<平均的な日本人>の言語感覚を疑わざるを得ないのです。
『太田さんからのメール』より
“私の、言葉に対するsensitivityの故だ”という理由なんですよね。
しかし、ここでも“センシティヴィティー”とカタカナで書けば済むのに、わざわざ英語で書いている。
文章の最後の方で“言語感覚”と言うまともな日本語も使っている。
sensitivityを“言語感覚”と置き換えても充分に意味は通じます。
それにもかかわらず、太田さんは日本語の文章の中で英語に固執する。
これは、太田さんの“言葉に対するsensitivity(言語感覚・感受性)”のためではないんですよね。
日本語で言うと太田さんの“エゴ”です。我がままです。自分勝手と言う事です。
太田さんは小さな世界の中に安住しようとするために、
“Alphabetを拒否する<平均的な日本人>の言語感覚”を理解しようとしない。
理解して自分の“本”を読んでもらおうと言う努力もしない。
ネットで<平均的な日本人>に分かり易く読んでもらうための努力もしない。
太田さんの文章を読めば一目瞭然です!読みにくい!
自分の“エゴ”を通す自由だけしか考えられない!
だから、外国語の単語を原語で訳語も無しに本の中にちりばめてしまう。
そのような訳で、太田さん自身が認めているように“愚考”を実践しています。
“メール”はすでに日本語として定着しています。
“ラジオ” を発音どおりに レイディオ と書く愚か者は居ませんよ!
正に愚考です!
リサイタルも日本語として定着している。
日本語でリサイタルという場合、普通は、プロの演奏家が公会堂とか、文化会館などのステージを借り切って
3000人から5000人程度の聴衆を前にして演奏することを言いますよね。
太田さんの言う“リサイタル”は家族演奏会に招かれた程度です。
日本で言う“リサイタル”とは程遠いものがあります。
しかも、言語感覚が優れていると、うぬぼれている太田さんが
“recitalをやって欲しい、というお座敷がかかり”
と、恥ずかしげも無く書いている!
このような下品な言語感覚、それが言いすぎならば、滑稽な言語感覚をこの記事を読む人に印象付けている事を太田さんは全くオツムの中で考えもつかないらしい。
リサイタルとお座敷を同じレベルで考えている。
言語感覚が洗練されているとは、お世辞にも言えない!
つまり、僕が何を言いたいかというと、
30年間自分の小さな世界に閉じこもってしまったために、
日本語と英語とのずれが、これ程大きくなってしまっている。
更に悪いことには、
そのズレを本人は“すぐれたsensitivity”と思い込んでしまっている!
でも、無意識(半意識的)に“愚考”だとも考えている。
太田さんのこの滑稽な姿を見ながら僕自身も自戒しています。
『聞いてくれよ、ヒトスケ君!』より
この事はすでに12月15日の『聞いてくれよ、ヒトスケ君!』の記事の中で書いた事ですが、太田さんの言うsensitivityとは次の引用の中で愚か者が難しい漢字の中に“b”を含めている程度のことです。
このスレには関係ないけどURLを書くと女にモテるという理由は?
教えてよ。
Posted by 蠡b驪 at 2006年12月15日 18:59
『聞いてくれよ、ヒトスケ君!(PART 2 of 2)』のコメント欄より
日本語の本の中に訳語も書かずに英語の単語を散りばめる事は、この愚か者がやっている事と五十歩百歩ですよ。
目障りで滑稽です。
太田さんは、自分が愚かな事が良く分かっているんですよね。
うへへへへ。。。
念のために言っておきますが、僕も愚かな人間ですよ。
でもね、太田さんがもっと愚かなのは(輪をかけたように愚かなのは。。。うしししし。。。)、自分の愚かさを反省しないと言う事です。
止せばいいのに、自分の愚かさを世界のネット市民の皆様に、自分で晒しまくっているんですよね。
ここまでやると。。。その愚かさに感心させられてしまいますよ!
(この点についてもボクちゃんは尊敬していますよ!)
とにかく、そのようにして書いたのが太田さんの愚かさを実に良く物語っている次の返信です。
『<世界>の皆様。幼児、明ちゃんは、ようやく寝付いたようですね。起きるとまたシツコク煩いから、放っておきましょうね。下に、明ちゃんのお目ざを用意しておきましたからね。』
この太田さんの文章を読むと
太田将宏さんが“日本天然記念物的な愚か者”だと言う事が実に良く分かりますよ。
ホント!
なんと!驚くことなかれ!
この同じ返信を14も投稿しているんですよ!
しかも、同じスレッドにですよ!
呆れ果ててしまいますよね。
“スパム行為”でないのならば、これは明らかに“迷惑行為”です。
このような時には、1つ長い返信を書いて、それに対してリンクを貼れば済む事です!
僕は、レンゲさんも含めて、過去3年間に境界性人格障害者と投稿の交換をしたり、メールを交換したり、充分すぎるほどの意見を交換しています。
僕自身は精神科医ではありません。
でも、大学院レベルで精神治療・カウンセリングを勉強したこともあります。
これまでの3年間、精神障害者、人格障害者の方たちと接してきて思うことは、
太田さんの文章の中にも、同じ長文の返信を14も同じスレッドに投稿するその行為にも“異常さ”を見る事が出来ます。
僕のこれまでの人生経験、及び精神治療・カウンセリングの勉学・研究から判断して、太田さんの本の中に散見する“実に狭い世界観”、しかも、上で述べたような非常識な太田さんの行為は“心の病”としか考えられないと言う事です。
退職した一人の人間が、カナダで30年以上も生活したにもかかわらず、狭い世界に閉じこもったまま“島国根性に凝り固まった井の中の蛙”で居る。
僕は太田さんを人間として尊敬していますが、
もちろん太田さんは神ではない。
太田さんが馬鹿の一つ覚えのように書いている“超越”でもない!
太田さんはこの30年間、狭い世界の中に閉じこもっていたので
ネットと言う広い世界のことを全く理解していないように見えます。
泳ぎの出来ない人でも、他の人が泳ぎが出来ないとは思わない。
しかし、愚か者は、自分が泳げないと他の人まで泳げないと思い込んでしまう。
それが太田将宏さんです。
では、海外に出れば国際化になれるのか?
イヤ、海外で5年暮らし、10年暮らしたって、国際化になれない人は居るものです。
分かり易い例を言えば、
カナダのバンクーバーの隣にリッチモンドという町があります。
この町の海岸にスティーブストンという一角があります。
ここに今から100年以上前に日本人が初めて入植したのです。
漁業の町として発展し、今でも漁業関連の仕事に携(たずさ)わっている日系カナダ人の人がたくさん居ます。
僕は仕事の関係でこの町の日本人と親しくなりました。
仮に田中さんとします。
この田中さんは当時すでにスティーブストンに30年住んでいました。
カナダ国籍を持つ純然たる日系カナダ人でした。
デンマンさん、私はここで30年になりますがね、お恥ずかしいことですが、英語が全くしゃべれないんですよ。
まさかぁ~。。。田中さん、からかわないで下さいよ。カナダ在住30年でしょう?
そうですよ。デンマンさんには信じられないでしょうが、私は英語を全く使わないんですよ。
まさかぁ~
デンマンさん、この近所を見てくださいよ。みな日本人ですよ。タバコ屋も雑貨屋もすべて日本人。それに、船に乗れば、3ヶ月から半年、船の上ですよ。乗組員はすべて日本人ですよ。家に戻れば家内とは日本語、子供とも日本語。近所の人とも日本語。英語を使わなくても生活できる。これじゃあ英語がうまくなりませんよ。それに、もう英語がうまくなりたいとも思いませんよ。日本語でやってゆけるんだから。。。
田中さんのような人がスティーブストンには、けっこう居ました。
だから、海外に長く住んでいるからって、その国の言葉がペラペラに話せるわけではない。
それと同じように、海外に長いこと生活しているからって、国際化するわけでもない。
ところで、太田将宏さんはトロントの郊外に、すでに30年以上住んでいます。
コンピューター関係の仕事をしていました。
クラシックに造詣が深く、クラシック研究家として僕は尊敬しています。
静かでおとなしい良い人です。