《なお、写真は続編に載せました》
先日は、22年ぶりに再会した「古伊万里様式染付道中文渡し図小皿」を紹介(2019年5月19日付け「骨董市と古美術品交換会」で紹介)しましたが、今度は、古伊万里とまでは言えませんけれども、28年ぶりに再会した伊万里の辻製の「染錦竹籠に千鳥文小盃」を紹介したいと思います。
私は、この伊万里の辻製の「染錦竹籠に千鳥文小盃」を、平成2年に他の古伊万里を購入した際に、古美術店の方からオマケとして貰って所持していました。
その時、古美術店の方は、「これは、有田の皇室御用達の辻家で作られたものです。高台内に「辻製」の銘が入っているでしょう。」と言って渡してくれたものです。
私は、明治以降に作られた伊万里にはあまり興味がないですし、この小盃は、どう見ても江戸期はなさそうですので、私のコレクションの対象外でもありますことから、その後、特に調べもしないで放置していたところです。だいたい、タダで貰ったことでもあり、どうせたいした物ではないんだろうとも思っていましたから、無関心でもあったわけですね。 明治になると、有田にもいろんな窯元が出てきたんだなぁくらいにしか思っていなかったわけです。
ところが、平成30年5月1日付けで、越前屋平太さんの「すきずき~やきもの好きの雑感あれこれ~」というブログに、「辻製」の「羊歯に桜花文そば猪口」なるものが紹介されていることを発見し、「そういえば、我が家にも「辻製」のものが1点あったな~」と思い出し、俄然、関心を寄せるようになり、さっそく押入れから引っ張り出してきて、その辺の棚に置いて時々眺めていました。
そうこうしているうちに、昨年の暮れの平成30年12月16日のことです、この伊万里の辻製の「染錦竹籠に千鳥文小盃」に、偶然にも再会したんです。
場所は、骨董市でした。
骨董市をぶらぶらしていましたら、上手の盃が5~6個並べられ、その中の一つにこの「染錦竹籠に千鳥文小盃」があったんです(@_@)
なんと、値段は2,000円です。「なんだ、値段はそんなもんか! もっとも、28年前に手に入れたといっても、所詮、オマケで貰ったものなんだから、それが相場なんだろうな~」などと独り言ちていました。
そうしていましたら、店主が、「お正月にその盃でお酒を飲むと美味しいですよ!」と、私に語りかけてきました。
私も、それはそうだろうな~と思い、躊躇なく買い上げたわけです。
ということで、伊万里の辻製の「染錦竹籠に千鳥文小盃」は、28年ぶりでの再会となったわけです。
ちなみに、辻家については、「肥前陶磁史考」(中島浩氣著 肥前陶磁史考刊行会 昭和11年9月1日発行)(復刻版 青潮社 昭和60年8月1日発行)に次のように書かれています。
「辻喜右衛門 寛文八年江戸の陶商伊萬里屋五郎兵衛は、仙台藩主伊達陸奥守綱宗の需に依り、有田へ下りて商品仕入れの傍ら、精巧なる食器を物色せしところ、絶品を得ず。此儀二三の窯焼とも相談せしに、当時の名陶家辻喜右衛門を推選した。依て五郎兵衛は早速彼に注文して、青花の見事なる食器を得たるに満足し、携え帰りて伊達家に納めたるは二年目であった。 (P.463) 」
「辻家へ禁裏御用命下る 綱宗大いに其精巧なるを賞讃し、これ貴賓の用ふ可き器なりとて、直ちに之を仙洞御所に奉献したのである。然るところ人皇百十一代霊元天皇は殊の外嘉納あらせられ給ひ、之より佐賀藩主鍋島光茂へ御下命ありて、喜右衛門へ「禁裏御用御膳器一切其他御雛形を以て尚一層清浄潔白なる製品を調達すべし」との勅諚あり。軈て辻家へ御紋章附幕、同高張提灯等の御下賜品があった。乃ち此時より、陛下御常用の御膳器は、鮮麗なる青花白磁をめさるることと成りし由漏れ承はる。 (P.463) 」
「辻家へ直進の命 宝永三年(二百三十年前)上幸平の四代辻喜平次愛常は、特旨を以て磁器直進の命を蒙り、(之迄鍋島宗藩の手を経て納進せしもの)常陸大掾に叙せられ、綸旨及天盃を拝受したのである。其後辻家にて謹製せらるる菊花御紋章の物は、御器の外皇族各宮殿下の御常用に供せらるることと成ったのである。 (P.467) 」
「享保時代となりて、京阪問屋への委託販売は彌多端に至りしが、蓋しそれが取引状態に就ては、意の如く運ばざりしものなる可く、左に京都問屋より皿山の荷主と、辻喜右衛門(禁裏御用焼辻家五代)へ当てし、口上の古文書がある。而して辻家は当時此処の代表的窯焼なりしものであらう。 <京都問屋との取引状態口上文書>(省略) (P.475) 」
「常陸大掾源朝臣 安永二年十二月禁裏御用達辻七代の喜平次へ、常陸大掾源朝臣愛常と口宣された。そして翌年六月更に旧盟を尋ぎ、後世其約を履み渝らざる可きことを誓盟した。 (P.484) 」
「極真焼発明 文化八年六月(百二十五年前)辻八代の喜平次が、極真焼と称する焼成法を発明した。三代以来禁裏御用命を拝せし彼は、益々其道の向上に余念なかりしが、或時の窯出しに、室内の器クズレて墜落し、数個密着せる物があった。毀ちて之を検ずれば、其中にありて焼成されし小器が、玲瓏玉の如き出来栄えなりしより、喜平次之にヒントを得て、茲に一種の焼成法を案出した。 それは焼く可き器の別に、之を容るべき程の外郭匣を、同じ白土にて造り、其中に器物を容れて密閉し、蓋合には釉薬を以て之を封じ、全くの真空器中にて焼成する特殊の方法である。然る時は直接火焔に触るることなき故、釉相は勿論、呉須顔料の発色まで、殆ど理想的に焼かかるのである。 斯くて焼上りたる時は、鉄槌にて外匣を打毀はすものにて、其時音を発して、硫化水素の臭気を発散する。そして取出されたる器は、たとひ釉薄くとも、青花の焦燥なく、光沢膩潤無双の成器を得るもの、之を極真焼と称せられるるに至った。是より禁裏御用の御器は、皆此特殊法に依って、謹製することと成ったのである。 (P.499) 」