Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

戦の国(いくさのくに)

2020年07月29日 14時25分13秒 | 読書

 「戦の国(いくさのくに)」(冲方丁(うぶかた・とう)著 講談社 2017年10月18日第1刷発行)を読みました。

 

 

 この本は、

 ① 覇舞謡(はぶよう)

 ② 五宝の矛(ごほうのほこ)

 ③ 純白き鬼札(しろきおにふだ)

 ④ 燃ゆる病葉(もゆるわくらば)

 ⑤ 真紅の米(しんくのこめ)

 ⑥ 黄金児(おうごんじ)

の六つの中編を一冊にまとめたものです。

 

① 覇舞謡(はぶよう)

 これは、織田信長の桶狭間の戦いを内容としたものでした。

 桶狭間の戦いのほんの数日前から当日までの出来事を詳しく書いたものです。

 短期間の出来事を、ぎゅっと凝縮して書いてありましたので、それだけに、緊迫感が伝わってきました。

 

② 五宝の矛(ごほうのほこ)

 この中編は、上杉謙信の生涯について書かれたものです。

 当然ながら、川中島での武田信玄との五度にわたる戦いについても書いてありました。

 川中島で五度にわたる戦いがあったわけですが、実際に両雄が決戦したのは四度目の戦いの時の1度だけだったとのこと、、、。

 著者は、その1度の決戦のために上杉謙信が見出した戦法を「五宝の矛」と称しているわけで、その内容を次のように書いています。

 

「……輝虎(上杉謙信のこと)が見出し、人生の最後まで磨き続けた第五の宝は、たちまち天下に広まった。

 兵種別編成による隊形は、相対した者たちの間で知られ、北陸のみならず東海一帯における常道となった。織田氏のもとでは明智光秀をはじめ各将が取り入れ、豊臣秀吉が天下を取る頃には、全国の大名がその軍法をもとに軍役を整えるに至った。さらには朝鮮の役でも日本独自の隊形に遭遇した朝鮮の官軍が、その驚異的な侵攻力を見せる隊形を学び、取り入れたという。

 徳川幕府の時代においてもその隊形は踏襲され、軍学の一端を担った。幕末の戦いにおいても輝虎が磨いた隊形は東西にわたり一般的なものとして用いられ、ついには、大日本帝国軍の基本隊形として、受け継がれていったのである。  (P.92) 」

 

③ 純白き鬼札(しろきおにふだ)

 これは、明智光秀が越前国・一乗谷で温和に過ごしていた頃から、本能寺の変を起こした時までのことを書いたものでした。

 一般に、明智光秀が本能寺の変を起こしたのは、信長から折檻されたので、その腹いせに行ったものであるように言われていますが、それについては、著者は反対で、次のようなことだったのであろうと書いてます。

「 信長は、国内を統一した後は海外に進出するつもりでいた。信長としては、光秀は、もともとは血と泥にまみれることには似合わない人物であり、もとの温和な英才に相応しい能力を国内の経営に注いで欲しいと思っていた。それで、もう戦いには赴かなくともよい旨を告げたが、光秀が、強く反発し、是非戦いに加えてほしい旨を訴えたので折檻したものである。」

 

④ 燃ゆる病葉(もゆるわくらば)

 この中編は、大谷刑部吉継について書かれたものです。

 大谷刑部吉継について書かれたものは少ないですから、珍しいかもしれません。

 この中編の内容は、関ヶ原の戦いの際、大谷刑部吉継は、当初は東軍についたわけですけれど、石田三成に説得されて途中から西軍につくわけですが、何故、石田三成側につくに至ったのかの経緯が詳しく書かれていました。

 

⑤ 真紅の米(しんくのこめ)

 これは、関ヶ原の戦いの際、突如、西軍を裏切って西軍の大谷刑部吉継の部隊に襲いかかり、関ヶ原の戦いの勝敗を決定付けた小早川秀秋について書かれたものでした。

 小早川秀秋については、普通、若年で未熟、小心者のように書かれますが、けっしてそうではなかったと書いています。

 関ヶ原の戦いの後、徳川家康によって、筑前30万石から備前・美作55万石に加増されます。

 小早川秀秋は、領国経営にその能力を発揮し始めますが、それに脅威を感じ始めた家康は、密かに、毒見役の目をくぐらせ、米の中に毒を入れ、毒殺させたと書いてありました。

 

⑥ 黄金児(おうごんじ)

 この中編は、豊臣秀吉の子の豊臣秀頼について書かれたものです。

 秀頼も、普通は、母親の茶々に保護されて育ったひ弱な武将のように書かれます。

 著者は、本当は、体格もよく、文武両道に優れたカリスマ性を具えた武将であったとしています。

 徳川家康は、その存在に恐れをなし、秀頼を抹殺しなければ徳川家の未来はないことを悟り、なんとしても秀頼を亡き者にしようと画策します。

 普通の本では、その画策に対抗したのは、実権を握っていた茶々などとしていますが、著者は、実際は、若き秀頼であったとしています。