Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

「姫神」

2020年08月17日 14時16分22秒 | 読書

 「姫神」(安部龍太郎著 文藝春秋 2015年8月10日第1刷発行)を読みました。

 

 

 

 内容は、厩戸皇子(聖徳太子)が、中国の隋に遣隋使を派遣したわけですが、その遣隋使派遣にまつわる外交裏話といものでした。

 小野妹子を正使とし、「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す・・・」という有名な文書を隋の皇帝に送ったわけではありますけれど、その時の遣隋使派遣は外交的には大変に困難な時期にあったようで、その派遣が無事成功に至った経過を小説にまとめたものです。

 

 まず、その当時の国際情勢を知る必要がありますが、それについては、次のように書かれていました。

 

「皇子(聖徳太子)は運ばれたくず湯を口にし、新羅をめぐる状勢について語った。

 朝鮮半島には古くから高句麗、百済、新羅の三カ国が鼎立し、およそ三百年にわたって戦いをくり返してきた。

 朝鮮南端には伽耶と呼ばれる地域があり、倭との友好を保ちながら小国連合という形で東の新羅、西の百済に対抗していた。

 やがて倭人は伽耶の一地域である任那に進出し、ここを足がかりとして他の三国と対抗するようになる。

 神功皇后の三韓征伐がその代表的な事件であり、これ以後大和朝廷は伽耶のほぼ全域を勢力下においたのだった。

 その後新羅の力が次第に大きくなり、伽耶への侵攻をくり返すようになる。

 そこで大和朝廷は百済と同盟を結んで新羅と対抗するが、欽明天皇十五年(554)に百済の聖明王が新羅との戦いで戦死した。その八年後には伽耶全域が新羅の勢力下に組み込まれたのである。

 その時以来、任那の復興は大和朝廷の悲願となった。百済も聖明王の仇を討とうと、大和朝廷と同盟を強化して新羅に攻め込む機会をうかがっていた。

 その頃新羅は百済から奪った漢江流域からさらに北方へ進出し、高句麗との全面戦争に突入した。そこで南方の倭との争いを避けるために、任那における大和朝廷の支配権を認めることにした。

 ただし、実質的な支配は新羅が維持したまま、任那から上がる調(税収)だけは大和朝廷に献上するというものである。

 こうして敏達天皇四年(575)から任那の調が朝廷に納められ、任那に住む韓子(からこ)(日系人)たちの自治権も保障されるようになった。

 こうした状況の中、中国では大きな動きがあった。崇峻天皇二年(589)に隋の文帝が、中国全土を勢力下におく大帝国をきずき上げたのである。

 このため国境を接する高句麗は隋への対応に追われることになり、高句麗の脅威から解放された新羅は百済や大和朝廷との対決姿勢を強めるようになった。

 任那の調を納めなくなり、韓子たちの自治権も剥奪した。

 伽耶(注:ここでの伽耶は、伽耶国の伽耶ではなく、この小説の主人公の宗像一族の姫君であり巫女でもある娘の名前。宗像一族の長の妹の凪の娘。南加羅に住んでいたが、新羅軍に突然襲われ、5歳のとき母親の実家の宗像に逃れてきた)が住んでいた南加羅が、突然攻め込んできた新羅軍に占領されたのは、こうした国際情勢の変化の中で起こった悲劇だった。

 これにどう対応するかで、大和朝廷の意見は二つに割れた。

 厩戸皇子は外交的な努力によって戦争を避けようと、新羅の真平王との交流を深め、仏教的な治世を行うことで平和を実現しようとした。

 皇子が推古天皇八年(600)に隋に使者を送ったのも、仏教を直接学ばせることによって他の三国に引けを取らない人材を育てたいと望んだからだった(注:この小野妹子の遣隋使派遣は607年ですから、その7年前の隋への使者のことです)。

 一方、蘇我馬子らは軍事力によって任那復興をなしとげようと、百済と同盟して任那に攻め込んだ。そうして釜山や金海など五城を占領したが、その二年後には新羅に反撃されて撤退せざるを得なくなった。

 百済もこの年八月、阿莫山の戦いで新羅に大敗し、苦しい状況に追い込まれていた。

 こうした複雑にからみあった争いを終わらせるため、皇子は四カ国が共同して隋に使者を送り、隋の冊封下に入ることで平和を実現しようとしていたのだった。

 「四カ国の争いはあまりにも根が深く、怒りや憎しみはぬぐいようがないほどです。奪われた領土を奪い返したいという思いや、殺された者の仇を討ちたいという復讐心もあります。それゆえ四カ国だけでの話し合いでは、いつまでたっても戦を終わらせることができません」

 だが隋を盟主とする同盟関係を結べば、勝手に他国に攻め入ることができなくなる。そうして相互の信頼関係をきずいた後で、互いの問題について話し合えばいいというのである。

 その時に重要となるのが、仏教の慈悲と平等の教えを皆が共通の理念とすることです。単に隋の強大な力に屈して従うのではなく、互いに仏教の教えに従っているという人間的な共感が重要なのです」

 皇子が難波に四天王寺を建て、やがて斑鳩に法隆寺を建てようと計画しているのはそのためだった。     (P.141~144) 」

 

 なお、当時の仏教は、単なる宗教的な教えではなく、政治的な理念としての役割もになっていたということです。つまり、

「この頃の仏教は単なる宗教的な教えではなく、政治的な理念としての役割をになっている。

 仏教の教えを基本とした政治を行うかどうかが、従来の族長的な古代政治から脱却して、新しい国家体制を作れるかどうかの試金石になっていた。

 そうした体制を主導したのは隋や唐であり、冊封国になるためには仏教的政治を行うことが条件とされていた。

 現代にたとえるなら、アメリカ合衆国を中心とした国際的な同盟に参加するためには、自由と民主主義を政治の理念として受け容れなければならないようなものである。  (P.148) 」 

という状況下にあったわけですね。

 

 このような国際情勢、政治情勢の下、厩戸皇子(聖徳太子)は、秘密裏に新羅王と連絡をとり、倭国、高句麗、新羅、百済の四カ国が揃って隋に使者を送る計画を立てます。

 新羅王は賛同し、自分の弟(円照)をその計画実現のために倭の厩戸皇子(聖徳太子)のもとに秘密裏に潜入させることにします。新羅国内では、平和主義に反対する勢力も根強く、表立った動きが出来なかったからです。

 案の定、円照は、新羅の反対勢力の妨害に遭い、渡航の途中、船を沈められ、瀕死の重傷を負って宗像地方(福岡県宗像市)の大島に漂着します。

 そこを、運良く、宗像一族の姫君で巫女でもある「伽耶」という名前の娘に助けられます。

 なお、この本の題名になっている「姫神」についてですが、それは、

「天照大神は三人の娘を生んだ後、「あなたたち三神は海北の道中に降臨し、天孫を助け奉り天孫に祭かれよ」とお命じになったと、『日本書紀』は伝えている。

 かくて沖の島には田心姫神、大島には湍津姫神、宗像には市杵島姫神が降臨され、航海の安全を守る三女神として、宗像大社にお祀りされるようになった。 (P.28) 」

ということです。

 この本の主人公の伽耶という娘は、宗像一族がこの三女神のご神託を仰ぐ際の巫女の役割を果たしていたわけですね。

 その後、円照は無事大和にたどり着き、厩戸皇子(聖徳太子)とも会うことが出来、倭の遣隋使一行とともに宗像に戻り、宗像一族の支援(宗像水軍の支援)のもと、いよいよ隋へと向かいます。

 しかし、倭においても、実権を握る蘇我馬子は平和外交に反対であり、陰になって遣隋使一行の航路を妨害します。蘇我馬子は、新羅に反発する百済と手を組み、百済側への上陸を阻みます。そのため、朝鮮半島の百済側から隋に赴くことが出来ず、一旦、新羅側に上陸し、そこから一部陸路を使って隋に赴くことにします。

 ところが、新羅側に上陸したとたん、新羅の平和外交に反対の勢力が裏切り、遣隋使一行に襲いかかります。

 ここまで、ず~と、遣隋使一行に随行し、三女神の庇護を受けながら、何度も災難から逃れてきた伽耶ですが、遂に、新羅の平和外交に反対の勢力の手にかかり、命を落としてしまいます。しかし、その時に生じた超常現象によって、新羅の平和外交に反対の勢力は退散をよぎなくされ、遣隋使一行は、無事、隋に到着することが出来ました。また、倭国、高句麗、新羅、百済の四カ国が揃って隋に至たわけで、四カ国が同時に隋の冊封を受けることに成功したのです。

 

 以上が、この本の概要です。

 この本を読みますと、当時、航海術はかなり進んでいて、宗像水軍などの協力を得れば、中国大陸への渡航も、それほど困難ではなかったように読めました。

 むしろ、航海術以上に、政治的な妨害による渡航困難が生じたのかもしれません。