今回は、「染付 壽字文 大皿」の紹介です。
なお、この「染付 壽字文 大皿」につきましては、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で、既に紹介しておりますので、次に、その時の紹介文を再度掲載することをもちまして、この「染付 壽字文 大皿」の紹介とさせていただきます。
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<古伊万里への誘い>
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*古伊万里ギャラリー232 伊万里染付寿字文大皿 (平成29年9月1日登載)
表面 口径:36.8~37.8cm(歪みがあるため)
側面 高さ:6.3~7.5cm(歪みがあるため)
裏面
高台内の銘部分の拡大
やや深めの大皿である。
高台内には「大清乾」の三文字が見える。
これは、「大清乾隆年製」の六文字の半分の三文字を描いたのであろう。
「大清乾隆年製」銘は、だいぶ好まれたようで、省略に省略を重ね、「乾」の一文字のみが描かれている場合も多い。
ところで、染付の大皿は、私が古伊万里のコレクションを始めて間もない40年ほど前の頃は、高額であった。
欲しいな~とは思ってはいたが、高額のために買う意欲が湧かず、疵物を数枚購入した程度で終わってしまい、大皿への興味はしだいに薄れてしまった。
この大皿は、4年ほど前に購入したものである。40年ほど前に比べて、だいぶ安くなっていたからである。
大皿は、現在は、更に安くなっているようではあるが、一度、興味が薄れたせいか、買いたいという強い意欲が湧いてこない(-_-;)
それに、大皿は、飾るにしても保管するにしても、広いスペースを必要とするので、ついつい、買った後のことを考えると、ちゅうちょしてしまうのである。
そのことは、他の人も同じように考えるようで、大皿に人気が出てこない理由の一つなのかもしれない。
生 産 地 : 肥前・有田
製作年代: 江戸時代後期(天保)
サ イ ズ : 口径:36.8~37.8cm 高さ:6.3~7.5cm 底径:18.5cm
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*古伊万里バカ日誌160 古伊万里との対話(寿字文の大皿)(平成29年9月1日登載)(平成29年8月筆)
登場人物
主 人 (田舎の平凡なご隠居さん)
寿 皿 (伊万里染付寿字文大皿)
・・・・・プロローグ・・・・・
主人は、前回、大皿と対話をしたところである。しかし、大皿とはいってもその口径が8寸程度だったものだから、それを大皿というのか、中皿というのか、ぎりぎりのサイズだったので、今回は文句なしの大皿と対話をしようと考えたようである。そこで、それに見合うものを押入れから引っ張り出してきて対話を始めた。
主人: 前回は、一応、大皿と対話をしたことになっているが、どうも、大皿というのか中皿というのかはっきりしなかったね。前回の皿は口径が8寸程度だったからね。
寿皿: 大皿というのは、どのくらいの大きさのものを言うんですか。
主人: 文字通り、比較的に大きな皿のことを言うんだろうけれど、はっきり決まっているわけではないね。
まっ、一般的には尺皿以上の物を言うんだろうね。私も、そのように思っていたけどね・・・・・。それで、前回の皿は口径が8寸程度だったから、尺皿以上にはなっていないので大手を振って大皿とは言えないし、かといって、中皿よりは大きく感じるわけで、一応、大皿としたわけだ。
寿皿: 大皿は、何時の頃から作られ始めたんですか?
主人: 食事の様子等を描いた絵巻物などから、何時頃から使われているかがわかるわけで、それによって、何時頃から作られるようになったかもわかるわけだね。それによると、中国も含めると、かなり古くから作られているようだね。でも、中国にまで広げて考えるとまとまりがなくなるし、また、私にそれだけの能力もないので、日本の、しかも、江戸時代からに限定して調べてみようと思う。
最近刊行された「陶説」(公益社団法人日本陶磁協会発行の月刊誌)平成29年7月号・通巻第772号に、根津美術館の企画展の「やきもの勉強会 食を彩った大皿と小皿展」に関し、同館顧問の西田宏子氏が次のように書いている(同書24ページ)。
「 江戸時代になって、陶磁器の産地から見ると、差し渡し40センチくらいの大きな、やや深めの皿が肥前地方で作られています。初期伊万里の大皿や古武雄の大皿がそれです。伊万里の染付大皿や色絵古九谷様式の大皿類は、江戸をはじめとして大名屋敷跡から出土するので、大皿を使う食文化が生まれていたことがうかがわれます。また古武雄の陶器の頑丈そうな大皿は、大名屋敷でも身分の低い人々が住んでいた地区から出土することから、身分によって、食器も異なっていたことが推測されます。 」
これによると、江戸時代の初めの頃は、伊万里の染付大皿や色絵古九谷様式の大皿類は大名達によって使われていたことがわかるね。
寿皿: 伊万里の染付大皿は、その後も、ず~っと、江戸時代を通じて作られていたんですか。
主人: いや、そうじゃなかったようだね。
「世界をときめかした 伊万里焼」(矢部良明著 平成12年12月25日初版発行)には次のように書かれているよ。
「 幕末の染付大皿
さて、18世紀における伊万里焼の低迷を打ち破る新風は、どこから吹いてくる可能性があったかというと、なにぶんにも鎖国の状態にあって、頼みの綱であったオランダが退潮していたのであるから、期待したいのは新しい国内の需要層の台頭であったろう。時代も降った19世紀、江戸末期になって、久しく待ち望んだ新風が吹いてきた。それは、時代をリードした支配層や富裕な階層ではなく、経済的な力をつけてきた大衆の庶民層であった。彼らが要請したのは華麗な金襴手に加えて、染付の大皿であったのである。慶弔の祭事にあたって、大皿は豪勢な振る舞いにふさわしい器と映ったのであろう。それを家に所蔵することは、欠くべからざる家格(ステータスシンボル)の表示と映ったかもしれない。
大鉢といえば、日本では、14世紀の中国龍泉窯の天竜寺青磁の大盤、明末期の呉須赤絵の大盤が輸入された過去があり、伊万里焼も初期伊万里以来、古九谷様式も大鉢をつくって供給はしていた。しかし、伊万里焼のつくる大作はなんといっても、西欧の富裕層を相手とした輸出物の花形商品であり、18世紀前半には、そのサイズは最大まで達していたのである。これに対して、内需向けには大皿・大鉢の大作は、とくに18世紀になると、ぴたりと消息が聞こえなくなってしまう。特に染付の場合において・・・・・・・。そこに突如として鬨の声よろしく、天保年間(1830~44)には、再び染付大皿の時代が再来したのである。 (同書150ページ) 」
大皿は、大名達の需要に応じて作られていたので、それ程の需要もないし、どうせ大物を作るなら、西欧の富裕層向けの輸出物の大作を作ったほうが需要も多く儲かるので、だんだんと国内需要向けの大皿は作られなくなったんだね。特に染付の大皿はね。
寿皿: どうして、幕末になって、急に、染付大皿が作られるようになったんでしょうか?
主人: それは、今、「世界をときめかした 伊万里焼」で見てきたように、そのような大皿を所蔵することは、一種のステータスシンボルの表示でもあっただろうから、そのような需要を満たすために多く作られるようになったんだろうけれど、それ以外にも、日本人の食生活の変化も影響していると言われているね。前掲の「陶説」で、西田宏子氏は、次のように言っているよ。
「江戸時代後期に伊万里の大皿が様々な意匠で作られたのは、日本人の食生活の変化を物語るものと考えられます。江戸図屏風に見えるように、人々は座敷で大皿に盛られた料理を囲むか、大きな卓の周りに座り、大皿から料理を取り分けています。これは江戸時代後期に日本へ紹介された卓袱(しっぽく)料理の影響ではないかと言われます。中国の食事の文化が、そのまま日本へ紹介されたのです。大皿の流行もそのような新しい文化によるもので、その意匠には中国の影響を受けて吉祥の文様が多くみられます。 (前掲「陶説」24~25ページ) 」
寿皿: なるほど。江戸時代後期に作られた大皿には吉祥文が多いんですか。
私には、真ん中に「寿」と書いてありますものね。吉祥文そのものですね。
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まさに「壽~~~」の迫力がありますね。
どこかで見たような気もする(デジャブ?)のですが、放射桜花はこの大皿が初めてです。
それに、底銘の「大 清 乾」も初めてです。
この皿を囲んでいた人々がいたと考えると、なおさら貴重なおめでた皿です(^.^)
>サ イ ズ : 口径:36.8~27.8cm
は、歪みにしては大きすぎますね(^.^)
「口径:36.8~37.8cm」の間違いでした(~_~;)
これに似たような文様の大皿は、よく図録等に載っているかもしれませんね。
私も、何かで見たような気がします。
底銘の「大 清 乾」も、見事に「大清乾隆年製」の右半分だけを描いているんですよね。私も、これ以外には知りません。
そうそう、ここに描かれている「花」なのですが、画像が小さくて見づらいですけれど、「桜」ではなく、「梅」ではないかなと思っているんです。
昨日紹介しました6寸皿も、これを見た妻から、「梅」の花ですかと言われて、「梅花文」であろうと思い直し、「追記」で訂正しました(~_~;)
桜の花びらは、普通、先端が割れて描かれていると思ったからです(~_~;)
見込み中央の「壽」がいいですし、このサイズですから存在感が凄いです
落款の「大清乾」初めて見ました
「乾」は江戸後期を代表する落款ですので良く見かけますが
この品は「そこらの品とはとは違うぞ!」という意気込みからこの落款になっているのかも知れませんね。
尺二寸サイズの大皿、枚数あったら収納が大変そうですね
確かに、言われてみれば、「この品は「そこらの品とは違うぞ!」という意気込み」が感じられますね(^_^)
この「大清乾」だって、文字というよりは文様ですし、丁寧に描かれていますものね(^-^*)
大皿は収納が大変ですよね。
大皿が高かった時期に多くを集めたコレクターに敬意を感じますね(^_^)
中国人は大勢で食事を楽しむのですね。
↑ で、西田宏子氏も「陶説」の中で書かれていますように、そのような中国の食事の文化がそのまま日本へ紹介されたのかもしれませんね。
それと共に、大皿などの食器にも中国様式が改めて導入されたのかもしれませんね。
その中で、「銘」の「大清乾隆年製」、「乾隆年製」、「乾」は随分と人気があったようで、このような「銘」の大皿等は多く残っていますよね。
当時は、そうした中国文化に対する憧れがあったのかもしれませんね。