「気骨稜々なり」(火坂雅志著 小学館 2013年10月28日 初版第1刷発行)を読みました。
この本は、博多の豪商島井宗室の生涯を記したものでした。
また、この本には、島井宗室に関連して、堺の豪商や、博多の豪商についても記してありました。
そのため、私は、堺の豪商の津田宗及、今井宗久、千利休といった人物については、「堺」に関連してよく登場してきますので、少しは知識もあったのですが、博多の豪商の島井宗室、神屋宗湛といった人物についてはほとんど知りませんでしたけれど、これらの人物についても詳しく書かれていましたので、博多の豪商の島井宗室、神屋宗湛といった人物についても少しはわかるようになりました(^_^)
内容の大部分には、島井宗室が、戦国の世に、博多の小さな商人から身を起こして博多屈指の豪商となり、九州のみならず天下の表舞台にまで現われて大活躍するさまが生き生きと書かれていました。
時は移り、豊臣秀吉も亡くなり、関ヶ原の戦いも終り、徳川の天下となって政権が江戸に移り、博多の地も時勢の流れとは無縁ではなく、博多は、天下の博多から、九州の一大名の黒田氏の商都博多へと変貌するわけですが、天下の表舞台から去った島井宗室は、そこで、静かに、77歳の生涯を閉じたと、晩年の島井宗室についても書かれていました。
なお、若き島井宗室は、茶道具商として財をなしたようですから、相当な目利きだったようで、この本の中でも、いろんな茶道具の天下の名品が登場してきます。
著者は、かなり、茶道具に関する古美術品についての造形が深いのでしょうか、或いは、この本を書くために、茶道具古美術品の勉強を相当にされたのでしょうか、、、? この本には、かなりの専門用語も登場してきますし、茶道具の名品の名前も数多く登場してきます。それだけでも、古美術愛好家にとっては、この本は、楽しく、嬉しい内容かもしれません(^-^*)
この時期の堺と博多の商人ってすごい力を持っていますよね👑
大名茶人とはちがう世界ですね💎
クリンより🍀
この当時の堺と博多の商人は、凄い力を持っていたようですね。
現在ですと、総合商社や金融機関などのオーナーみたいなものですよね。財界の大御所というところでしょうか。
商売ー茶の湯ー政治が結びついたのは、戦国時代ならではの事だったのでしょうか。唐物崇拝の風潮が薄れてくると、豪商の活躍する余地も少なくなっていったのでしょうか。
わからないことばかりです。
茶道具に縁のない身には、なかなかピンとこない世界ですね。
茶道は嫁入り前に付け焼刃で齧っただけですが、こういう世界を知れば知るほど・・・お金がものをいう世界でもあったんだと思いますね。
多分、最初のころの茶道はそういうものではなかったと思うのですが。
遅生さん、おっしゃられるように茶道が政治と結びついた戦国時代あたりから変わったんでしょうね。
今は女性のほうが茶道にはかかわってますので、また雰囲気が変わってきてますね。
私のは練習用の茶道具ですので高価なものはありませんが(;^_^A
また、私も、茶道具には縁の無い身ですので良くは分かりませんが、必ずしも、「商売ー茶の湯ー政治が結びついた」ということではないと思います。
この本によりますと、
「生きる道を必死に探しもとめていた徳太夫(島井宗室のことです)が目をつけたのが、この異国の、港町にもたらされる、ーー茶道具ーーだった。
このころ、日本では武家や豪商のあいだで茶の湯が大流行し、人々は金に糸目をつけず、茶壺、茶入、水指、茶碗などの茶道具を買いもとめていた。
その多くは、唐物と呼ばれる中国産の陶磁か、あるいは高麗物と呼ばれる朝鮮産の陶磁で、いずれも法外な高値をもって取引されていた。
日本では高値がつく唐物や高麗物の茶碗や茶壺も、朝鮮では驚くほどの安値で売られている。
富貴な茶人たちが好みそうな茶道具を二束三文で買いつけ、それを日本に持ち帰って高値で売りさばくーーそれが徳太夫の編み出した新商売だった。 (P.8)」
とあります。
島井宗室が若くして始めた商売が当たったということですね。そして財をなし、その後、商売の幅を広め、更に財を加えて豪商となったということのようです。
また、茶道具を売り込むに際し、公家や上級武家との交流が生まれ、人脈が生れたようですね。
ただ、博多の町は、武士の争いによって何度も焼かれているわけですが、島井宗室としては、博多の町が武士によって二度と焼かれたくないと決意したようです。それには、博多を、完全な自治権を持つ自由都市にしたいと考え、それに向かって行動を起こすようになったようですね。
そのため、信長にも接近するわけですね。信長としても、これから海外派兵を考えていましたので、それには、これから博多は使えると考え、本能寺にも招待したわけですが、ご承知のように本能寺の変で信長がいなくなりましたので、その線はなくなったわけですね。
次に、天下人となった秀吉に接近し、博多を守ってもらおうとするわけですが、結局、秀吉も信長の意志を継いで唐入りを断行し、博多の自治の問題は先送りになってしまったわけですね。
そして、秀吉が死に、徳川の時代となり、博多は貿易港としての役割がほとんどなくなり、島井宗室の目標も無くなり、彼の存在意義も薄れてしまったということのようですね。
以上のように、たまたま、島井宗室の場合が、「商売ー茶の湯ー政治が結びついた」ということなのではないかと思います。
そういえば、現地では今でも数千円です。
そうそう~マルタバンはミャンマーでルソンはフイリッピン~出荷された港に壺をつけて呼ぶみたいで、産地はほぼ同じみたいですね(笑)
そのためには茶道具も必要になりますから、金持ちほど、高価で立派な茶道具を準備したのでしょうね。
今では、そのようなたしなみというものは無くなりましたものね。
そのため、お茶の意味も変わり果て、茶道具も形ばかりのものになりましたね。
ただ、昔の茶道具の立派な物は、骨董としては、まだ健在なようです(^_^)
私は、茶道具のコレクションをしていませんが、昔の名品は、手が届かないほど高価で、健在です(><)
文化人のたしなみというものも、時代とともに、いろいろと変化しますね。
今では、ゴルフでしょうか、、、!?
博多の豪商の島井宗室も、自前の船を作って、大陸や東南アジアにも出かけて行き、二束三文の壺などを買ってきては国内で高く売りつけて財をなしたようですね。
ルソンの壺やマルタバンの壺でも大儲けしたでしょうね。
もっとも、大海原に行くのは危険も伴い命がけだったのでしょうけれど、、、。
昔も今も、すばしっこい人にはかないませんね(笑)。
何を商って財をなしたか、基本中の基ですね。大陸と近かった博多には、元々いろいろな物の交易がなされていたのでしょう。唐物に目をつけた才覚は大したものです。目利きなら大儲け。
目利きから程遠い私は、相も変わらずガラクタ三昧(^^;
「日本と朝鮮を何度も往復するうちに、徳太夫は残っていた借財(父親が残した借財ですね)をすべて返済し、人手に渡っていた博多練酒の店を自力で買いもどすことができた。
それもこれも、徳太夫の茶道具の目利きが、人より抜きん出ていたからである。
「あの島井の若造が持ち込む品は信用できる」
と評判を取るまでになっていた。
今回の朝鮮行きでも、徳太夫は唐物、高麗物ばかりか、
呂宋
安南
シャム(タイ)
あたりから入ってきた、いわゆる島物の茶碗を多く買いつけ、一攫千金の大あきないを狙っていた。 (P.9~10)」
その後、島井宗室(徳太夫)は、自前の船も購入し、直接、呂宋、安南、シャム(タイ)などにも赴き、島物茶碗なども直接買い入れているようですから、ますます蓄財され、豪商への道を歩んでいったようですね。