子供の成長について

2000年01月18日 | タカシ
 子供の成長について。例えば近所のスーパー・マーケットやショッピング・センターなどに買い物に出かけた折,広い店内の狭い通路を賑やかに騒々しく徘徊するヨソの子供たちの行動生態をしばし観察していると,ジャガイモのような,カボチャのような,ダイコンのような,キャベジのような,希にはボケナスのような,要するに実にタクマシイ性格というかタクマシイ外見の子供が結構多いことに少々戸惑う。いや,ウチのタカシと比較しての話でありますが。

 タカシは8才になった現在も,相変わらず引っ込み思案で軟弱のモジモジ君である。ある人は彼を繊細な子だという。分不相応な誉めコトバである。またある人は彼を単なる泣き虫小僧だという。至極もっともであります。

 家に遊びに来るオトモダチとの会話の中でタカシが時折みせる逡巡・迎合・自家撞着,そのような態度や仕草を日々傍らでやや距離を置きながら眺めていると,ともすればタカシの“成長”過程におけるモドカシサが父親にとっては過剰なまでに精神的な負担となり,その挙げ句に,想いは“教育”という名の迷宮に入り込んでしまったりする。


  (豆の木伸びろ 伸びぬとチョン切るぞ!)


 そんな風に唄った反骨的詩人も遠い昔にはおりましたっけ。そして父は考える。はて,自分はどんな子供時代を送っただろうか,と。 子供時代! それは例えて言えば早春季の山地渓流の川底,凛として冷たい夜明け前の薄明のなかで,エルモンヒラタカゲロウの幼虫が石礫の間隙をゆっくりと匍匐しているような,まるで日々新たに創造されてゆく神話のような,余人の想像の及びもしないロマンのような,どこか懐かしくも心ときめかす時間の持続,どうもうまく表現できないけれど,観念的にはそんなものなのだろう。

 もっとも,現在の父にとっての「子供らしさ」の原点,それは多分に若年の一時期に読んだ川田順造のテキストなどに影響されていると思う。要するに第三世界の子供達,ジャガイモとかボケナスとかのガキンチョたちの行動原理にその規範を求めているのだ。10才になればもう立派なオトナであるというのが世界の定説です!とか何とか,最近どっかのジーサンがのたまっていたが,その伝であります(お恥ずかしい)。

 そして改めて我が息子,タカシという脆弱な存在をシゲシゲと観察する。小学校に入ってはや2年近くが経過したが,その間タカシはどのように成長してきたのだろうか。ロクヨン命,ポケモン様々,デジモン何じゃらほい,バカボンは楽しいのだ~,オトモダチは少しだけ,国語や算数などの宿題は大キライ,工作は大好き,音楽も好き,体育も(種目によっては)好き,習字が1級になった,体操大会で金メダルをもらった,などなど。ま,極めて凡庸といえば凡庸である。親のナヤミなぞ何処吹く風,って次第。

 昨日の夜は,タカシとオトウが一緒に寝る順番であった。布団のなかでいろんな話をしながら,ちょっとだけ尋ねてみた。


 「ねえ,タカシ。ロクヨンとゲームボーイは別にして,オトモダチと何をして遊ぶのが一番楽しい? 」

 「えーとねぇ..... 工作をやることかなぁ」

 「でも,工作は一人でやるもんじゃないの?」

 「そんなことないよ。○○君と二人で作ったときも,とっても楽しかったよ!」


 どうもやはり,まだまだ何回もの脱皮・変態を繰り返しながら少しずつ少しずつ“成長”してゆく必要がありそうだ。誰だってそうだろうが,とりわけタカシの子供時代はなかなかの前途多難が予想される。“学校教育”はその過程におけるよすがとして,少なくとも「読み・書き・ソロバン」を最低限仕込んで下さればそれで十分でございます。などと勝手なことをついつい思ってしまう父である。

 なんやかや言っても,結局のところ親を見て子供は育ってゆくのだから。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« PTAおよび子供会における... | トップ | 《幹》という名の,何とも脳... »
最新の画像もっと見る

タカシ」カテゴリの最新記事