《ホームにて》 あるいは鉄道という交通機関の実直性・硬直性

1999年11月16日 | 歌っているのは?
 しみじみとした抒情的風景,なんてものに遭遇した時に感じたことなど。過日,愛知県三河地方の山奥に,例によって川の調査で出掛けた折りのことである。

 調査を依頼された場所は愛知県東部を流れる流幹延長77kmの一級河川豊川の上流域で,その付近の豊川は「寒狭川」と地元では呼ばれている。標高1,000m前後の山々が連なる奥三河高原のなかを縫うようにして両岸に深い渓谷を刻みながら流れは蛇行し,水質はあくまで清澄,水量もかなり豊富で,アユ釣りの名所としても名高い。

 今回の調査は,間際になって急に慌ただしく決まったことなどもあって事前の地域情報,土地知識を仕入れる暇がほとんどなかった。それでも出掛ける直前に国土地理院の2万5千分の1地形図を丹念に眺め,多少なりとも全体的な地域概況を把握するよう努めた。その作業のなかで,寒狭川の渓流沿いの一部にヤケに“きれいな"カーブを描く道路と小さなトンネルが数多く設けられているのが目に留まった。どうもこの道は鉄道廃線跡らしいぞと推論したのだが,案の定,現地へ行ってみるとその通りであった。

 その鉄道の名を豊橋鉄道田口線という。戦前の昭和7年に開通し,昭和43年に廃線になったそうだ。国鉄飯田線の本長篠駅を起点とし,鳳来寺門谷を通り玖老勢に出て,それより伊那街道に沿って海老,田峰に至り,以後,豊川(寒狭川)沿いに北上し,北設楽郡設楽町の田口地区の直下まで達していた。皇室御用林をはじめとする林業に係る物資の運搬,あるいは山間部の生活路線として地域の貴重な足であったとのことだが,いかんせん時代の波には勝てず,廃止されてから今年で既に約30年が経過した。

 愛知県北設楽郡設楽町は人口約5,600人,林業,農業を主産業とするごく鄙びた山村である。準平原台地のように平坦な標高約450mの山腹に位置する町の中心地である田口地区には約600戸あまりの集落が立地し,それなりの賑わいをみせている。県立高等学校があり,立派な地区センターがあり,お洒落な喫茶店もあり,愛知県のことゆえ豪華なパチンコ屋なども当然のようにあり,さしずめ山上の楽園のごとき様相を呈している。モータリゼーションの発達,基幹国道を初めとする道路交通網の拡充整備,さらには情報通信網の加速度的な浸透がこのような山奥の過疎村を,少なくとも物質的利便性の点では活性化させた。それはまったく確かな事実だ。

 しかしながら鉄道が主要な交通手段であったその昔,豊橋鉄道田口線の終点である三河田口駅は,寒狭川のほとり標高約350mのところに設置されていた。つまり,終着駅を降りてから町にたどり着くまでには高低差100m程の急な登り坂が待ちうけていたわけだ。往時,ジーサン・バーサンや幼い子供らにとってはさぞつらい行程であったことと思われる。現在,廃屋になって久しい駅舎が潰れかけた遺跡のような形で川べりに残されている。やがては完全に朽ち果ててしまうのだろう。土地に刻まれた歴史の一断面が,そうやって静かに消滅の時を待っている。鉄道という交通機関の持つ諸特性(実直性,硬直性)が時代に対応しきれずに見捨てられ忘れ去られてゆく典型的な事例である。

 そういう次第で,ある秋の日,アユ釣りの季節もとうに過ぎてすっかり人気のなくなった寒狭川の渓流沿いの鉄道廃線跡の道路を,私は胴長をはいてアノラックを着込み,タモ網を肩に担いでノコノコと歩いていた。道幅はせいぜい3m前後,一応アスファルト舗装がされているが,路面の所々には小さな陥没やひび割れなども生じており,だいたい車の通行などはほとんどない。河谷に沿って緩やかなカーブを描く道路と,その道路の下手,河畔林越しに見え隠れする渓谷のキラキラした流れ,そんなしっとりとした風景の調和が大変心地よい。森閑とした秋日和である。それは例えて言えば,一般人には決して追体験出来ぬ“抒情映画"の技巧的カメラワークを,ある特別な計らいのもとで再認することが可能になったかのごときである。そんな道をひとりでノコノコと歩いていると,自分がまるで山奥を人知れず走る「トロッコ列車」にでもなったような気がしてくる。

 恐らく地元漁協が釣り人たちへの便を図って設置したのだろう,「鮎淵」という名が書かれた小さな看板が路傍に立っている場所で,廃線跡の道路から川へと降りていった。わずかながらの踏み分け道が土手藪のなかに印されている。

 流れのほとりに立つと,まずは周囲の風景をゆっくりと見渡し,瀬や淵など川の流れの形成具合,河床の底質材料や巨岩・岩盤等の配列状況,水際の植生分布などを素早くチェックした。それから次には商売商売,やおらタモ網を使って魚類の採捕に取りかかる。カワムツが採れる。アブラハヤが採れる。シマドジョウが採れる。アカザなども採れる。カワヨシノボリなんかは,それこそどっさり採れる。恐らく彼ら彼女らは,まさか自分たちがニンゲンに捕まるなんて夢にも思っていなかったに違いない。アユ釣り人しか入らないような場所であるし,ニンゲンどもの餌食になるのはアユのような立派な魚だけだと思っていたに違いない(お気の毒さま!)

 鉄道がまだ通っていた頃,梅雨期から夏場にかけてのアユ釣り最盛期には,有名な釣り場ポイントごとに列車が臨時停車したという。近隣のみならず遠方からも数多くの釣り人,さらには遊山客をこの渓流沿いに集め,さぞ活気ある列車の往来が谷間に響いていたに違いない。想像するだにワクワクするような情景だ。しかし栄枯盛衰,生態遷移,まさに時移り,いま残されたものは河畔林を包みこむ暖かな秋の陽差しと渓流の川面を渡る微風ばかりである。

 遙かな昔,『鉄道の世紀』という華やかなりし良き時代が確かに存在したのだろう。鉄道というものが私たちの日々の暮らし向きをより豊かにし,輝ける明日を切り開いてゆく,ということが素直に信じられた時代があったのだろう。この秋までNHK総合TVで「すずらん」という朝の連ドラをやっていたが,正直に告白すれば,かなり多くの回数をついつい視聴してしまった。何故か? それは恐らく,ローカル鉄道というものが発するフェロモンのような“歴史的抒情"にワタクシの軟弱な精神の一部(情調的,退行的な部分)が絡め取られたゆえである。浅田次郎の「ポッポや」にしろ山田洋次の「Station」にしろ同類の感性の表出であり,それらはすなわち,萩原朔太郎流に言えば,人生の遠い旅情を思わすところの魂の永遠のノスタルジア,としての存在なのであろう。

 中島みゆきNakajima Miyukiの初期の歌に《ホームにて》という小品がある。そのなかで,みゆき姉御は次のようにしみじみ唄っていた。


   ふるさとへ向かう最終に 乗れる人は急ぎなさいと
   やさしいやさしい声の駅長が 街なかに叫ぶ
   振り向けば空色の汽車は いま ドアが閉まりかけて
   灯りともる窓の中では 帰りびとが笑う
   走り出せば間に合うだろう かざり荷物をふり捨てて
   街に街に挨拶を 振り向けばドアは閉まる


 個人的経験を述べれば,その歌は多分70年代の後半,豊川水系からさほど遠からぬ愛知県東部の海辺の僻村で聞いたのではないかと思う。そのころの私は,シオミズツボワムシだとかイタボガキだとかムラサキウニだとかの海産無脊椎動物を用いたバイオ・アッセイ(生物毒性試験)を行う仕事に従事していた。町工場の職工のごとき地味で単調な作業の毎日であった。そんな明日の見えない日々のなかで,中島みゆきの歌の数々はとりわけ共感的な抒情として受け止められ,時として臓腑にこたえるばかりに身に沁みることすらあった。

 ところが現在,寒狭川に沿った廃線跡の小道を歩いてゆく胴長姿の草臥れた中年男である私は,残念ながら中島みゆき姉御ではなくて,同じく《ホームにて》という題の歌を唄ったジェラール・ルノルマン Gerard Lenormanの張りのある若々しい声をなんぞを思い浮かべ,あまつさえ,ついついその歌を鼻歌交じりに口ずさんだりしてしまうのだった。


   けれどぼくは いつもプラットホームに佇んでいた
   出発まぎわの 旅立ってゆく人々と見送る人々
   急がしそうに動きまわる群集のなかで
   ぼくはいつだってホームにひとり 取り残されていた
   でも いつか自分が旅立つ日のことを夢見ながら


 まことに青臭く我ながら実に恥ずかしい限りである。そして,これをして精神の堕落,感受性の枯渇と指摘されれば,しかり,返す言葉もない。最近人気の茨木のり子オババあたりからは,バッカモーン!と思いっ切りどやされるに違いない。ま,結局私の抒情なんてその程度のものに過ぎぬのだけれど。

 いずれにしても,今は決して多くを望みはしない。気持ちの良い風景と一体化すること,何だかそれだけでこれからの老後を生きていけるような気がするなぁ。
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