変わる川,変わらない川

2005年02月15日 | 川について
 諸般の事情により今まで記録する機会を逸してきた過去の拙い思い出話が,我が心中には少なからず存在する。別に誰のために何のためにというハッキリとした目的意識があるわけでもなく,ただ一応は自己検証しておかねばナ,という引っ掛かりがどこかにあるがために記憶の引き出しに後生大事に保管し続けているガラクタのようなものたちである。もっとも本心では,やはり誰かに一寸伝えておきたいのだ。共感・同感ないし異論・反論を秘かに期待したりもしているのだ。 (ったく,まだまだ修業が足りない)

 古くは数10年前のものから,新しいところではごく最近の出来事まで,平凡な日々の暮らしに次々と埋もれてゆく地層の断面から幾片かのカケラを掘り起こすような無為の作業過程を通じて,ふと最近考え直してみたくなった話をひとつ,以下に記しておく。そんな昔のことではなく,去年の夏のエピソードである。

 夏も終わりに近い8月末,東北地方のある川に5年ぶりで魚の調査に出掛けた。福島県の太平洋側を流れる流程約65㎞の二級河川である。調査内容は5年前に実施した時のものとまったく同一の仕様であり,同じ季節に,同じ場所で,同じ方法に基づいて魚介類調査を行うものだった。といって,改良も改善も進歩も発展もほとんど無縁の極めて単純なルーチンワーク,などと一概に決めつけてはいけませんゼ,そこのアナタ。それなりに過去の経験を踏まえ,新たに蓄積された知見を取り入れた,これは重要なモニタリング調査のひとつなのであります。

 一般の方々は恐らく御存じないと思われるので経緯を簡単に説明しておくと,現在,本邦各地の主要な河川や湖沼において,それらを管轄する諸官庁により5年に1度のペースで定期的に生物調査が行われている。『河川水辺の国勢調査』と呼ばれるそれら一連の調査のうち,私は魚類や水生昆虫,プランクトンなど水生生物関係のいくつかを時折引き受けている。もっとも当方は零細個人営業の下請業者に過ぎない立場ゆえ,5年ごとに必ず元請業者より当方に仕事の依頼があるという保証はどこにもないのだが,だいたいの所は再び声を掛けていただいている。

 今年度もそんな調査をいくつか行った。そのひとつが福島県南部の表浜に流出する,川の大きさからいえば中規模程度の,一般にはほとんど名の知られていないローカル河川での調査だった。何にせよ仕事があるということは有り難いものだ。

 風土的には北関東地方に限りなく近い南東北に位置する海辺のその小さな町を5年振りに訪れた最初の印象は,あれれ,前回来た時とほとんど変わっていないなぁ,というのが正直なところだった。前にも常宿としたビジネスホテルは全く寸分違わず以前と同じように古ぼけたままに存在しており,駅前広場周辺の様子も舗道の敷石が多少キレイに化粧直しされた程度で,基本的にはほとんど変化が認められない。繁華街や路地裏のたたずまいにしても,郊外に向かう街道沿いの店舗や家並みにしても,また,田園地帯に点在する集落の景観にしても然り。あえて目立った変化を挙げるとすれば,町中の小さなコンビニが場所を少し移動して数段立派になっていたり,あるいは町はずれの丘陵地の麓にシンデレラ城と見紛うばかりのすこぶる豪奢かつすこぶる不自然な結婚式場が唐突に出現していたり,それくらいだろうか。これを要するに,名もない地方都市においては5年という歳月は街並みをほとんど変えず風景をほとんど変えず,つまりは人々の暮らしのバックグラウンドを格段に変貌させることはないというわけだ。しかして人心や如何に? それについては通過的観察者,軽薄的旅行者たるワタクシごときには頓と分かりません。

 閑話休題。さてさて,それでは肝心の川の様子はどうだろうか。方丈記などを引き合いに出すまでもなく,いくら何でも川の方はちっとくらいは変わっているだろう。

 調査は下流から上流方面に向かって順次進められてゆく。第一日目の朝,最初の調査箇所である河口部にごく近い堤防沿いの開けた水際部にたどり着くと,やおら周囲一帯の様子をじっくりと見渡した。あれれ,5年振りだというのに,こちらもまたあんまり変わっていないなぁ。ヨシ原が水辺に沿って帯状に繁茂する場所や異形ブロックがコンクリート護岸の前面に無造作に積み重ねられた場所などがあり,それらの間には砂地で遠浅の汀が広がっている。浅瀬の水際線は潮汐の影響を受けてゆっくりと干出・水没を繰り返す。そして足元近くにはアシハラガニ,ケフサイソガニ,クロベンケイガニなどのイソガニ類がシャカシャカとせわしなく逃げまどうように動き回っているのだ。転じて水中に目を凝らしてみれば,貝類やゴカイ類などの生息痕と見られる穴が随所に穿たれ,砂地の底にはビリンゴ,ヒメハゼ,チチブなどの小型ハゼ類が点々とへばり付いており,それらは時折ツッ,ツツーッと間欠的な動きで移動する。さらにやや水深の深いところにはボラの未成魚やウグイの稚魚などが群れをなして遊泳している。前に比べるとカニの数がちょっと少なくなったかな,という気はするが,一瞥する限り基本的な生態系の構造は以前と変わっておらず,河口付近の汽水域ではお馴染みの「生きものの賑わい」,そのごくアタリマエな懐かしい原風景に裏打ちされた自然が眼前に展開する。

 そうそう。5年前の調査では,河口付近で操業した地曳網で体長1m近いスズキLateolabrax japonicusが捕獲されたのであった。取材に来ていた地元新聞の記者もビックリした様子で,翌日の社会面にカラー写真を交えてその調査内容が大きく掲載されたほどだ。写真の一隅にはモットモラシイ顔をして作業を行う私の姿も映っていたっけが。

 てなことを思い出していると,突如,川のやや上流方面で大きな爆音が轟き渡った。水上バイクが陸から川の中に搬入され,それが急に水面を走り始めたのだ。まったく遮るもののない河口部の広い開水域を,そ奴はブンブンブンブン唸りを上げて我がもの顔に縦横無尽に走り回っている。操縦しているオニイサンはまさに得意マンメンチの顔付きで,タコ糸切れたタコ,抑えの効かない水上ローリング族といったおもむきだ。水辺の護岸沿いに点々と腰を下ろしている釣人たちが眉をしかめていることなんて何処吹く風。快楽と道徳とを天秤にかけることすら能わず,要は水面にオイルを垂れ流して面白がっているオロカモノ1名に過ぎないわけだが,《悲しいとき~!》,そんなお笑い芸人のコントを連想してしまうくらいに,これもまた粛々たる人生。そして,これもまた厳然たる川の属性。

 水上ブンブン兄さんの手前側,遠浅の砂地の浜の縁に沿う水際には,なぜか貝掘りのオジサン・オバサン達の姿がやたらと多い。彼ら彼女らの採取方法を見ていると,皆いかにもぎこちなく素人っぽい感じである。あるグループに近寄って尋ねてみれば,やはり地元の人ではなく,かなり遠方からウワサを聞いてやってきたとのこと。イソシジミとかチョウセンハマグリとかを狙っているらしい。いわば趣味と実益を兼ねた物見遊山組だ。当地における貝類に関する共同漁業権がどのように設定されているのか承知しないが,まぁ,オジ・オバ達に取り尽くされて資源枯渇することはないだろう。ルール違反には違いあるまいが,こちらの方はさしたる罪がないのかも知らん。

 国破れて山河あり。城春にして草木深し。自然は一見変わらないように見えるが,世の民草かくのごとしであり,まこと,人々は時代とともにズンズン変わってゆく。そして,自然の営みは人の営為に引きずられつつ,ふと気が付けばドラスティックな変貌をとげているのだ。今西錦司御大の直感は恐らく正しかった。そんな愚にも付かない感想がふと浮かんだりする。

 河口域,下流域の調査を終えると,次は中流域の調査地点へと向かう。そこは平地から山間部へ少し入ったあたりの渓谷で,周囲に集落等の立地はなく水質はあくまで清澄,水量も大変豊富で,小さな蛇行を繰り返しながら気持ちのよい流水が滔々と流れている。河床材料は岩盤が卓越し,流路に沿ってゴツゴツとした岩がテラス状に張り出している。そんななかで調査を行うことは,まさに《夏川を越す嬉しさや手にタモ網》といった,すこぶる御機嫌な遡行となる。足場の極めて悪い岩盤の水際部を一歩一歩慎重に歩きながら下流方向へと移動してゆく。その歩きの感触は,おのずと5年前の様子を少しずつ思い出させる。そうだ,確かこの先の小さなワンドを渡渉するときに岩盤の岩角に足を取られて滑って転んだことがあったっけなー。などと以前の情景を思い浮かべながらゆっくり一歩を踏み出すと,ありゃりゃ,また転んでしまいました。腰を打ち,腕をしたたかぶつけたが,幸いなことにウェイダー内部に大量に水が浸水するのだけは何とか免れた。しかしまったく,過去の体験がちっとも生かされていない。というか,過去の誤った経験を意識の方が先んじて追認しようとしている。こうして人は愚かさを繰り返し,苦い思いを重ねながら年を取ってゆくわけか。

 ギバチPseudobagrus tokiensisという名のナマズに似た底生魚がいる。ギギとかギュウギュウとかギンギンとか,あるいはギンギョッパチなどと呼ぶ地方もある。今年の春に生まれた体長3cmにも満たないそのギバチの稚魚たちが,私が水際に近づいてゆくやいなや草むらの影にサワサワーッと一斉に避難するのが見えた。ああ,この様子も5年前とまったく同じだ。毎年毎年同じことを繰り返し,また生まれてはまた死んでゆく。果たして彼らは昔見た子らの何世代後のコドモになるのだろうか。

 それにしても実に気持ちのよい,懐かしさと安らぎとに満ち溢れた情景だ。ふと川面を過ぎる冷たい空気がやがて来る秋の近いことを仄かに感じさせる。そう,この感覚も同じだ。いつか見た風景,いつか感じた匂い,いつか聴いた旋律。いわゆる既視感である。揺籃期の記憶である。予定調和的な世界の共同幻想である。

  Deja vu 身勝手な誤解かも知れない
  「すべて見ていた気がする」なんて
  君の微笑みも 仕草も 話し方も
  ぼくの心に馴染みすぎるから

 これは小椋佳の比較的最近の歌の一節だ。その晩年を飾るに相応しいシットリと落ち着いた深みのある歌いぶりで,夢や憧れ,歓びや哀しみ,そして悔悟や諦念がシミジミと述懐される。

  Deja vu いつになく心揺れる出会い
  けれど見ていた気がする 夢で
  永遠の誓いなど とてもできないけど
  これが最後の愛と感じてる

 最近、昔々のいろんなことを訳もなく思い出す。もう人生航路の何周目に入ったのかも覚束ないくらいに,日常の折々にさまざまな既視感がふいに押し寄せてくるのを感じては,驚き,狼狽え,戸惑うことが多い。脳細胞が徐々に破壊されているのをリアルタイムに実感するのはそんな時だ。「上がり」は近いのだろうか? 川について抱いている様々な思いを記録したい。そう望みながら,はや7年が過ぎてしまった。明日はきっとコドモたちに何かを伝えたい!そう願いながら,子供らはいつのまにか大きくなってしまった。それと引き替えに,指の隙間からこぼれ落ちるように多くのものを失っていった。人生は大河の流れの如し,ではなくって,しょせん川魚の如き人生,と見た方が正解か。

 というわけで,川についての話はまだまだ「続く」ことになろうかと存じます(不本意ながらも)。
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