やや旧聞に属する話を少々。今月初旬のある日のこと,買い物帰りの妻が近所の路傍で傷ついたツバメを拾ってきた。見ると羽根のどこかを怪我しているらしく,掌でそっと包みこむように持ち上げてもグッタリしたままで抵抗する元気もまったくない。外観はほとんど成鳥に近いが,どうやら今年生まれた若鳥のようだ。とりあえず仕事場にあった40cm×25cm×20cm程度のメッシュのプラスチック・コンテナ容器をケージの代りとし,中にタオルを敷いてその上にツバメをそっと置き,上部を細かいナイロン・ネットで塞いでおいた。
その後,妻はツバメの容体がどうにも気になるらしく,ちょくちょくケージの中を覗いてはあれこれと細かに世話を焼く。そして,普段なら庭木のあちこちにイヤになるほど毛虫とか変な虫なんかがたくさんいるのに,いざ鳥に与える“生き餌”を探すとなかなか見つからないよー,などとコボしていた。
それにしても,この先一体どうするんだかね。県の動物保護センターに連絡するか,あるいは近所の動物病院にでも聞いてみるかね。などと思っていたら,3日ほど経った昼過ぎ,ツバメは突然死んでしまった。死因は何か? 怪我がそんなにひどかったのか? あるいは,当方の看護に手落ちがあったのか? それはわからない。いずれにしても,今年の春,この極東の島国で生まれたそのツバメの若鳥は,モンスーンの暑い夏を過ごした後,秋風の吹く頃には父母や仲間らと連れ立って南の島へと長い長い旅路に向かうはずであったのだろうけれども,今となってはそれも叶わず,我が家の三角庭の一隅にひっそりと埋葬されることとなった。1才の誕生日を迎えることもなく,その約束された世界をほとんど知ることもなく。まことに悲しくも悔やまれる話である。
ところで,マルセル・ムルージ Marcel Mouloudjiの描くイメージにしばしば“鳥”が登場するけれど,あれはいったい何という種類の鳥を指しているのだろうか? 傷ついたツバメをめぐるエピソードをきっかけに,そんなことをふと思ってしまった。例えば《暗い部屋》という歌のなかで不思議な魅力的な存在として唄われる鳥。
ときどき私は自問する
では一体おまえの心は何にときめくのだ,と
恋人か,不安な心か
それとも 優しく気紛れな鳥に対してか
そして私は行方もわからずに出かけてゆく
街中を漂うように歩き回る
私の苦しみの花々に飾られた道に沿って
あるいは《プロヴァンス・ブルース》の冒頭のメランコリックな一節にスーッとたち現れる鳥。
一羽の鳥が広場を横切る
遠くでピアノが呟くように鳴っている
ショーウィンドーのマネキン人形が
澱んだ眼で私を見つめる
さらに,最近聞いた歌のなかには《私の頭のなかの島嶼に棲む鳥》なんていうポエジーもありましたっけ。個人的にはハヤブサやチョウゲンボウなどの小型猛禽類をついついイメージしてしまうのだが,無論そんなのは手前勝手な思い込みに過ぎまい。まっとうに類推すれば,パリの下町だったらドバトかカラスか,それともスズメ(モアノーorピアフ)か,そんなところだろうか。ごくごく限られた体験を晒して恐縮であるが,パリにはかつて通算5日間ほど滞在したことがある(1973年に3日,1990年に2日,たったそれだけだ)が,その際ドバト以外の鳥を見た記憶はない。鳥などに関心がなかったといえばそれまでだが,ブーローニュの森やヴァンセンヌの森などは別として,少なくとも市街地20区に関する限りパリの鳥相はきわめて貧困なことは確かであろうと思われる。
ま,ムルージの“鳥”は,恐らくは彼自身の対極に位置する“絶対的他者”の象徴的なイメージでしょう。優柔不断で未練がましく,寂しがり屋で薄情で,思慮深くかつお調子者,そのようなダメな自分に対峙するかのごとき存在。ちょうど,小林秀雄が若き日の福田恒存を指して“良心を持った鳥”と称したような対象(何じゃそりゃ?)。人間に対する“神”といってもいい。ドバトも神,カラスも神。その孤独な飛翔において,その屹然とした美しさにおいて。もちろん,傷ついたツバメも私にとっては瞬時“神”となりえたと思う(本当か?)。
それにしても,昨今は何で鳥ばかりがやたらとモテハヤサレルのだろうか? 鳥ってやつはそんなにエライヒトなのだろうか? トキの飼育のために費やされる大金,イヌワシやらオオタカやらの調査に費やされる大金,カルガモ親子を守るために費やされる大金(おっと,これは小金か),それらはバブル以後に咲いた枯野の仇花,サルの反省表示の一形式ではありましょうが,それにしてもあまりに後先を考えないツマラヌ浪費である。それらに関わりを持つことに得々として声高に正義を語るイイヒト達を見るにつけ,いいかげんウンザリする。
Today Birds, Tommorow Men.だって? 鳥の“生きざま”は我々の日々の暮らし,生活環境,生態系,ひいては社会経済体制の現状及び将来像を指標しているんですって? いやいや違う。そんなことをいう輩の多くは,単に“見栄え”に惑わされているだけだ。勝手に感情移入して自家撞着に気づかないだけだ。言葉を変えれば,それは大部分の日本人が“神”に対峙する態度がアイマイでイイカゲンであることの反映でしかない(あ,私がそのいい例ですけどね)。
その後,妻はツバメの容体がどうにも気になるらしく,ちょくちょくケージの中を覗いてはあれこれと細かに世話を焼く。そして,普段なら庭木のあちこちにイヤになるほど毛虫とか変な虫なんかがたくさんいるのに,いざ鳥に与える“生き餌”を探すとなかなか見つからないよー,などとコボしていた。
それにしても,この先一体どうするんだかね。県の動物保護センターに連絡するか,あるいは近所の動物病院にでも聞いてみるかね。などと思っていたら,3日ほど経った昼過ぎ,ツバメは突然死んでしまった。死因は何か? 怪我がそんなにひどかったのか? あるいは,当方の看護に手落ちがあったのか? それはわからない。いずれにしても,今年の春,この極東の島国で生まれたそのツバメの若鳥は,モンスーンの暑い夏を過ごした後,秋風の吹く頃には父母や仲間らと連れ立って南の島へと長い長い旅路に向かうはずであったのだろうけれども,今となってはそれも叶わず,我が家の三角庭の一隅にひっそりと埋葬されることとなった。1才の誕生日を迎えることもなく,その約束された世界をほとんど知ることもなく。まことに悲しくも悔やまれる話である。
ところで,マルセル・ムルージ Marcel Mouloudjiの描くイメージにしばしば“鳥”が登場するけれど,あれはいったい何という種類の鳥を指しているのだろうか? 傷ついたツバメをめぐるエピソードをきっかけに,そんなことをふと思ってしまった。例えば《暗い部屋》という歌のなかで不思議な魅力的な存在として唄われる鳥。
ときどき私は自問する
では一体おまえの心は何にときめくのだ,と
恋人か,不安な心か
それとも 優しく気紛れな鳥に対してか
そして私は行方もわからずに出かけてゆく
街中を漂うように歩き回る
私の苦しみの花々に飾られた道に沿って
あるいは《プロヴァンス・ブルース》の冒頭のメランコリックな一節にスーッとたち現れる鳥。
一羽の鳥が広場を横切る
遠くでピアノが呟くように鳴っている
ショーウィンドーのマネキン人形が
澱んだ眼で私を見つめる
さらに,最近聞いた歌のなかには《私の頭のなかの島嶼に棲む鳥》なんていうポエジーもありましたっけ。個人的にはハヤブサやチョウゲンボウなどの小型猛禽類をついついイメージしてしまうのだが,無論そんなのは手前勝手な思い込みに過ぎまい。まっとうに類推すれば,パリの下町だったらドバトかカラスか,それともスズメ(モアノーorピアフ)か,そんなところだろうか。ごくごく限られた体験を晒して恐縮であるが,パリにはかつて通算5日間ほど滞在したことがある(1973年に3日,1990年に2日,たったそれだけだ)が,その際ドバト以外の鳥を見た記憶はない。鳥などに関心がなかったといえばそれまでだが,ブーローニュの森やヴァンセンヌの森などは別として,少なくとも市街地20区に関する限りパリの鳥相はきわめて貧困なことは確かであろうと思われる。
ま,ムルージの“鳥”は,恐らくは彼自身の対極に位置する“絶対的他者”の象徴的なイメージでしょう。優柔不断で未練がましく,寂しがり屋で薄情で,思慮深くかつお調子者,そのようなダメな自分に対峙するかのごとき存在。ちょうど,小林秀雄が若き日の福田恒存を指して“良心を持った鳥”と称したような対象(何じゃそりゃ?)。人間に対する“神”といってもいい。ドバトも神,カラスも神。その孤独な飛翔において,その屹然とした美しさにおいて。もちろん,傷ついたツバメも私にとっては瞬時“神”となりえたと思う(本当か?)。
それにしても,昨今は何で鳥ばかりがやたらとモテハヤサレルのだろうか? 鳥ってやつはそんなにエライヒトなのだろうか? トキの飼育のために費やされる大金,イヌワシやらオオタカやらの調査に費やされる大金,カルガモ親子を守るために費やされる大金(おっと,これは小金か),それらはバブル以後に咲いた枯野の仇花,サルの反省表示の一形式ではありましょうが,それにしてもあまりに後先を考えないツマラヌ浪費である。それらに関わりを持つことに得々として声高に正義を語るイイヒト達を見るにつけ,いいかげんウンザリする。
Today Birds, Tommorow Men.だって? 鳥の“生きざま”は我々の日々の暮らし,生活環境,生態系,ひいては社会経済体制の現状及び将来像を指標しているんですって? いやいや違う。そんなことをいう輩の多くは,単に“見栄え”に惑わされているだけだ。勝手に感情移入して自家撞着に気づかないだけだ。言葉を変えれば,それは大部分の日本人が“神”に対峙する態度がアイマイでイイカゲンであることの反映でしかない(あ,私がそのいい例ですけどね)。