昨年暮れ以来,『ゼルダの伝説』に親子で夢中になっている。いや,正確にはアキラとタカシと父の3人で夢中になっている(母は全くの無関心)。各人夫々,多少なりとも異なるアプローチではあるが,いずれも夢中であることに変わりない。
アキラは基本的にゲーム評論家のポジションだ。ヒマさえあれば何冊ものゼルダ攻略本を飽きずに読み浸っており,その結果,攻略方法に係る予測・評価は非常に鋭く,他の追従を許さない。まだ辿り着いていないダンジョン内部の様子や個々の見知らぬモンスターの挙動なども,自ら独自に解釈を加えたうえで,周囲の者に進んで得々と解説したりする(それが正しいかどうかは,まぁ別として)。ただし,自身ではコントローラーをマトモに操作出来ないものだから,もっぱら父やタカシに,ああやれ,こうやれ,そうそう,そうじゃない,などと逐一指示を行う,結構なウルサガタであります。そのくせ“中ボス”との戦いのときなど,父の背中にしがみついて震えながらこわごわ見ているのだが。
タカシは,もともとゲーム大好きっ子,ゲームのめり込み型人間である。N64に関してもコントローラーの適切な操作技術は十分に会得している。いやむしろ細部の微妙な操作などは父なんかよりも数段うまいくらいだ。その高い技術を駆使して,時折,ストーリーの本筋とは全く関係ない“面白プレイ”などをやっては楽しんでいる。しかし『ゼルダ』は,タカシがこれまで無難にこなしてきたマリオやディディーとは大分趣が異なる。このようなメリハリのあるオドロオドロした世界,すなわち通常のスポーツ感覚が根底にあるストーリー展開とは一味も二味も違うロール・プレイング・アクション・ゲームとやらに取り組むのは初めてである。そのため,ある場面で突然モンスターに遭遇したりすると,思わず身体がすくんでしまう。こちらもアキラに負けず劣らず弱虫君だ。そして急遽,父にバトンタッチ!
その父は,実のところ3人のなかで一番夢中になっているかも知れない。アキラには別に「らすたあちゃん」があり「マックスとマリー」があり「トムとジェリー」がある。タカシにも「ポケモン」があり「ポケスタ」があり「マリオパーティー」がある。しかし現在の父には,ひとたび仕事を離れれば『ゼルダ』しかない!(ああナサケナヤ)。
このようなゲーム・ワールドが存在することを,まことに遅まきながら今般初めて知ったような次第である(10年遅かった)。宮部みゆきが,ドクター・ストップがかかる程まで『ゼルダ』にハマったという話もムベナルカナ。256メガバイトの限られた容量のなかにギッシリと詰め込まれた限りなく魅力的な創造世界。N64本体及びモニタのスイッチを入れるや否や,我々親子3名はリンクと共にトンデモナイ別人生の渦中に放り出される。ある時は闇夜の大平原を不安におののきながら一心不乱に駆け抜けたり,ある時は牧場の家畜小屋でウシに向かって一生懸命オカリナ吹いてお礼に牛乳もらったり,またある時は薄気味悪い巨大魚の消化管内部に潜り込んでタコの化け物と辛い壮絶な戦いを繰り広げたりと,ああ,何とも波乱万丈,森羅万象,天地創造,輪廻転生,起承転結,追越禁止(ん?) とにかくオモシロイ!
ところで,この国における旧態依然とした文化メディアのスポークスマン諸氏は,このようなスバラシイ創作物をいつになったら正面から真面目に採りあげようとするのだろうか?(総論としてではなく,個々の作品について,だ)。どっかの小難しい青少年の手になるアクタガワ・ショー受賞作品なんぞより,よっぽど真剣な論評に値するし,また様々な社会的影響力も比べ物にならないほど大きいと思うのだが。ゼルダ人口600万人だとすれば,小難青少年の読者はせいぜい2,400人程度じゃなかろうか(1万人対4人)。いやいや,いくら褒めても褒めすぎることはなく,貶めても貶めすぎることはないでしょう。
以上のような日々の状況を,母は傍らで苦々しく眺めているようだ。しかし,ワタクシはひとことだけ反論しておきたい。夕食が終わってから寝るまでの束の間の家族の時間,長椅子にデレリンと座ってTVで「東京フレンドパーク」や「炎のチャレンジャー」や「テレビチャンピォン」やらを1時間近くもボケーッと眺めているのに比べたら,食後のひととき,アキラとタカシと父との3名がまさに一体となって『ゼルダ』に没頭する濃密な緊張感に支配された約30分間,そっちの方がどれだけ子供らの感性・知性・想像力を高め,さらには親子のキズナを一層強めることに寄与するであろうかを(ま,言訳ですけど)。
それにしても改めて言う。何という壮大で深い叙事詩,乾坤勇壮な世界であろうか。そして,その世界の果てに,我々親子は一体いつになったら到達することが出来るのだろうか?(ちなみに,我が家では現在やっとリンクが“オトナ”になったところでして。はぁー)。
アキラは基本的にゲーム評論家のポジションだ。ヒマさえあれば何冊ものゼルダ攻略本を飽きずに読み浸っており,その結果,攻略方法に係る予測・評価は非常に鋭く,他の追従を許さない。まだ辿り着いていないダンジョン内部の様子や個々の見知らぬモンスターの挙動なども,自ら独自に解釈を加えたうえで,周囲の者に進んで得々と解説したりする(それが正しいかどうかは,まぁ別として)。ただし,自身ではコントローラーをマトモに操作出来ないものだから,もっぱら父やタカシに,ああやれ,こうやれ,そうそう,そうじゃない,などと逐一指示を行う,結構なウルサガタであります。そのくせ“中ボス”との戦いのときなど,父の背中にしがみついて震えながらこわごわ見ているのだが。
タカシは,もともとゲーム大好きっ子,ゲームのめり込み型人間である。N64に関してもコントローラーの適切な操作技術は十分に会得している。いやむしろ細部の微妙な操作などは父なんかよりも数段うまいくらいだ。その高い技術を駆使して,時折,ストーリーの本筋とは全く関係ない“面白プレイ”などをやっては楽しんでいる。しかし『ゼルダ』は,タカシがこれまで無難にこなしてきたマリオやディディーとは大分趣が異なる。このようなメリハリのあるオドロオドロした世界,すなわち通常のスポーツ感覚が根底にあるストーリー展開とは一味も二味も違うロール・プレイング・アクション・ゲームとやらに取り組むのは初めてである。そのため,ある場面で突然モンスターに遭遇したりすると,思わず身体がすくんでしまう。こちらもアキラに負けず劣らず弱虫君だ。そして急遽,父にバトンタッチ!
その父は,実のところ3人のなかで一番夢中になっているかも知れない。アキラには別に「らすたあちゃん」があり「マックスとマリー」があり「トムとジェリー」がある。タカシにも「ポケモン」があり「ポケスタ」があり「マリオパーティー」がある。しかし現在の父には,ひとたび仕事を離れれば『ゼルダ』しかない!(ああナサケナヤ)。
このようなゲーム・ワールドが存在することを,まことに遅まきながら今般初めて知ったような次第である(10年遅かった)。宮部みゆきが,ドクター・ストップがかかる程まで『ゼルダ』にハマったという話もムベナルカナ。256メガバイトの限られた容量のなかにギッシリと詰め込まれた限りなく魅力的な創造世界。N64本体及びモニタのスイッチを入れるや否や,我々親子3名はリンクと共にトンデモナイ別人生の渦中に放り出される。ある時は闇夜の大平原を不安におののきながら一心不乱に駆け抜けたり,ある時は牧場の家畜小屋でウシに向かって一生懸命オカリナ吹いてお礼に牛乳もらったり,またある時は薄気味悪い巨大魚の消化管内部に潜り込んでタコの化け物と辛い壮絶な戦いを繰り広げたりと,ああ,何とも波乱万丈,森羅万象,天地創造,輪廻転生,起承転結,追越禁止(ん?) とにかくオモシロイ!
ところで,この国における旧態依然とした文化メディアのスポークスマン諸氏は,このようなスバラシイ創作物をいつになったら正面から真面目に採りあげようとするのだろうか?(総論としてではなく,個々の作品について,だ)。どっかの小難しい青少年の手になるアクタガワ・ショー受賞作品なんぞより,よっぽど真剣な論評に値するし,また様々な社会的影響力も比べ物にならないほど大きいと思うのだが。ゼルダ人口600万人だとすれば,小難青少年の読者はせいぜい2,400人程度じゃなかろうか(1万人対4人)。いやいや,いくら褒めても褒めすぎることはなく,貶めても貶めすぎることはないでしょう。
以上のような日々の状況を,母は傍らで苦々しく眺めているようだ。しかし,ワタクシはひとことだけ反論しておきたい。夕食が終わってから寝るまでの束の間の家族の時間,長椅子にデレリンと座ってTVで「東京フレンドパーク」や「炎のチャレンジャー」や「テレビチャンピォン」やらを1時間近くもボケーッと眺めているのに比べたら,食後のひととき,アキラとタカシと父との3名がまさに一体となって『ゼルダ』に没頭する濃密な緊張感に支配された約30分間,そっちの方がどれだけ子供らの感性・知性・想像力を高め,さらには親子のキズナを一層強めることに寄与するであろうかを(ま,言訳ですけど)。
それにしても改めて言う。何という壮大で深い叙事詩,乾坤勇壮な世界であろうか。そして,その世界の果てに,我々親子は一体いつになったら到達することが出来るのだろうか?(ちなみに,我が家では現在やっとリンクが“オトナ”になったところでして。はぁー)。