《荒ぶる時》 あるいは 《動乱の時代》

2003年06月10日 | 歌っているのは?
 常日頃,つとめて年相応に小賢しそうに物事を分かったフリをしてはいるものの,それはあくまで見栄であり虚飾であり体裁繕いであって,結局わたしは何も知っちゃいないのだ。子供らのことも,妻のことも,世間のことも。平日の午前から公園のベンチで惚けている老人と,一体どこが違うというのか。

 そういうわけで,ポール・ルカ Paul Loukaの話になる。ポール・ルカ! それは私にとって実に懐かしい響きを持つ名前なのだが,さて,今では何処でどうしているのだろうか。少し前に古レコード屋で入手した《荒ぶる時Temps Forts》あるいは《動乱の時代》というタイトルのCDアルバムが手元にある。そこでは1964年から84年までの約20年の間に作られた全16曲が歌われている。夜半,それらの歌を聴きながら,またぞろ柄にもなくシンミリする。

 「サラ叔母さん」に託して語られる無名の人への思い遣りと世の不正に対する静かな怒り。「病院」にありながら医者でもなく患者でもない私という存在の不条理。ランボーのようなゴーギャンのような「迷える子供」が指し示す未来の陰影。ルネ・ファレの詩に節づけした「サクランボ」という美しい歌もまた,とりわけ心に沁みる。花はいつだって人の心を惑わせる。不幸はいつだって幸福に優先する。すべての者に等しく時がゆっくりと流れてゆく。そして歌は,さまざまな古い記憶を掘り起こす水先案内人となる。遠く遠く過ぎ去ってしまった者たちに未練がましく縋り付こうとするかのように。それは例えば,右大臣実朝の行く末を辿ろうとしているのか,晩春の過疎集落でかいま見た山桜のほのかな香りを思い出そうとしているのか,あるいは忘れかけたブリュッセルの古い街並みを再構築しようとしているのか。不易流行の狭間にあって,それらは誰に対するメッセージなのだろうか? 何だかヨクワカラナイけれども,いずれにしても無為徒労の作業には違いあるまい。

 翻って比較的身近な音楽世界を見渡せば,ゲンズブール・ゲンズブール・ゲンズブール!バーキン・バーキン・バーキン!あるいはギャル・ギャル・ギャル!バルー・バルー・バルー!などと声高に喋っているいささか派手目なエピキュリアン達の挙動が目立つ今日このごろ,しかしながら,ひっそりと息を潜めるようにしてポール・ルカの発するメッセージに静かに聴き入っている人々も,この極東の島国の一隅に恐らく7~8人くらいは存在しているのではないかと想像する。神戸方面の薬屋さんとか(いや,特に意味はありませんが)。

 こんな歌があることも,このCDで初めて知った。


  さあ,出発するんだ 若い友よ
  大地は君の前に広がっている
  世界は美しい庭園だ
  輝ける太陽の下で

  君の第一歩 それは自由
  君の第二歩 それは平等
  君の第三歩 それが世界を変える
  世界は美しい庭園だ
  さあ,私に手を貸してくれ


 ジャン・バティスト・クレマンの時代,人々がより良い未来を信じて共に歩んでいた時代の歌心を彷彿とさせる。それは現在の私にとっては,しょせん失われし時を求めての幻想の旅路でしかないことは重々承知している。話のついでに拙い回想を晒してしまうが,昔々,まだ右も左もわからなかった幼年期,パリのモンパルナス駅に降り立った私を出迎えたのは,異様なまでに活気あふれるデモとシュプレヒコールの嵐だった。人混みのなかで,ひとりの若いオネーサンに一枚の粗末なビラを手渡された。そこには「チリ人民と連帯を!」と大きく書かれていた。そのほんの数日前,チリ共和国のアジェンデ政権がピノチェット将軍らのクーデターにより崩壊したという歴史的事件は,ずっと後になってから知ったことだ。確かに同時代の刮目すべき出来事ではあったのだが,当時の私は,政治的にも思想的にも極めて無垢であり純朴であり愚鈍であり,というか,《動乱の時代》に漕ぎ出してゆくのに必要な海図も羅針盤も六分儀すらも全く持ち合わせてはおらず,その時は何が何やらチンプンカンプンだった。爾来,状況は基本的にちっとも変わってはいない。つい先だってまで世界を大々的に騒がせていたイラク戦争の際においても,サダム・フセイン体制の歴史的位置づけだとか存続の是非だとかには実のところほとんど興味がなく,せいぜいウチの近所の薄汚れた町工場で日々隠れるようにして汗水流して働いているイラク人不法滞在者たちの身を案じていた程度である。しかり,ポール・ルカを語るなど全くもってオコガマシイ。繰り返すが,結局わたしは何も知っちゃいないのだ。

 それにしても,昨今の音楽産業における情報の偏在ぶり,それはマスメディアのマーケット至上主義がもたらした当然の結果なのだろうが,一介の無知で偏狭な道楽者にとっては,やはり少々淋しいものがある。オジサンには,もう唄う歌がほとんどありゃしない(^_^;) そのような状況にあって,インターネットというメディアはひとつの救いである。たとえ現状においては多方面からの断片的,流動的,かつ不安定な二次情報が次々と集積されては消えてゆく巨大なカオスに過ぎないにしても,インターネットという新しい媒体は,やがては私たちを取り巻く音楽世界の環境をより望ましい方向へと変革してゆくであろうパワーと可能性を孕んでいる,などと,無力な老人は秘かに期待しているのであります。
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